碁会所にて

おはなし

 

碁会所にて

 日替わりの焼き魚定食が秋刀魚だと聞いていたのだが、昼どきを僅かに過ぎてしまったからか席に着いた途端に売り切れだと店主から聞かされた。今更他の店を回るのもあまり気乗りせず、数秒悩んだ後に大人しく定番の筑前煮定食を選んだ。
 瀞霊廷通信の次号分の原稿締切となる今日、瀞霊廷を駆け回り回収した原稿は依頼しているうちの半分ほどだった。多忙な隊長格からの寄稿が多い為か、この時期の回収率は毎度ながら褒められたものではない。
 しかし慣れとは恐ろしいもので、この時期にしてはまだマシな方かと封筒の中を覗きながらひとつ息を吐いた。
 定食の乗った盆が運ばれて来た頃、ふと視界の端に見覚えのある派手な柄の着物が目に入った。ふっと顔を向ければ彼もまたこちらを向き、どうもと笑顔を向ける。ひとつ座席を挟んだ場所に居た京楽は、盆を持ち上げると檜佐木の隣へと腰を下ろした。

「すみません、気付かず」
「お疲れみたいだね」
「いや、そういう訳じゃないんすけど…」

 京楽の盆の上で身をほぐされる秋刀魚の姿を眺めていれば、物欲しそうな顔に見えたのか勧められた。慌てて首を横に振ると、目の前で湯気を立てる筑前煮へと箸をつける。

「原稿集め?」
「はい。回収率は低めですけどね」
「そうだろうねえ。よく君が駆け回ってる姿を見かけるよ」

 笑う京楽に、檜佐木は何とも言えぬ表情で軽く頭を下げる。東仙が離反した今、隊長職と編集長の兼任が精神的に厳しいと感じることはままあったが、逃げ出そうとまでは思わない点、嫌いではないのだろう。
 またひとつ息を吐くと、よく味の染みた人参を口に運ぶ。まだ副隊長へと上がったばかりの頃、東仙に連れられこの定食屋の筑前煮を初めて口にしたのを憶えている。
 確かに味に間違いは無いのだが、しかし秋刀魚への思いが捨てきれず視線が自然と京楽の盆の上へと向いた。彼の皿の上は綺麗に身を削がれた骨だけの秋刀魚が横たわっていたが、ふと徳利を持ち上げる様子が目に入り思わず声を上げる。

「修兵君も呑む?」
「いえ…仕事中なんで」
「残念。まだ駆け回るの?」

 この店の壁に掛かっている時計が間違いでなければ、彼もまた仕事中である筈なのだが。檜佐木は喉元まで出かかった言葉を飲み込むと傍らに置いていた茶封筒へと視線を向ける。

「浮竹隊長から預かった原稿で、確認したい部分があるんでこれから十三番隊に」
「ああそう。だけど確か今日浮竹非番だったんじゃないかな」
「そうなんすか?でも、隊首室に住んでるようなもんだって前聞きましたよ」
「前はね非番でも雨乾堂に居たみたいだね。だけど、最近はあんまり隊舎に居ないみたいよ」

 何でですかと聞いたが、さあ、と一言はぐらかすように首を傾げる。

「女でも居るんすかね」
「ん?」
「浮竹隊長。今の話、女が居るからっすよね」
「さあ、どうだろう。あんまり浮竹とはそういう話しないからねえ」

 相変わらず飄々とした様子で京楽はそう答えると、猪口を口元に近づけ傾ける。
 あくまで直感だが、仕事場である隊舎に寝泊まりする程の男が、突如休日隊舎に顔を見せることが無くなる理由が女で無い筈がない。彼もそれなりの良い歳で、まさか独り身である訳がないとは思っていたがしかし実際相手の想像がつかない。
 俄然興味が湧き始めたが、しかしこれ以上京楽に尋ねた所で躱されるだけだろう。残った白米を口に運び、湯呑のほうじ茶で流し込む。漬物をつまみにまだ手酌を続ける京楽に軽く挨拶をすると、定食屋を出て十三番隊舎へと向かった。
 非番だと聞いたばかりだったが、宛もなく彷徨うよりは誰かしら行方を知っている可能性もある。副隊長の日南田が隊舎に居れば一番良いのだが、近頃は霊術院の講師もしていて離れている事が多い。
 案の定、十三番隊舎に顔を出したものの浮竹は非番、日南田も席を外しているとの事だった。しかし偶然にも三席の小椿から最近どうやら碁に凝っているという話を聞いた。

「碁?」
「隊長、最近やけに凝り始めたみたいでな。自宅か、もしかしたら碁会所じゃねえか」
「なんでっすかね、急に碁なんて」
「さあ…聞いた話じゃ、非番の日は自宅でよく詰碁をしてるらしい」

 碁盤と向き合う落ち着いた様相は容易に想像がつく。自宅という事ならば今日は泣く泣く諦めるしか無いが、可能性のある碁会所に顔を出す事は難しいことではない。碁会所は確か七番隊付近にあったと記憶しているが、一度も訪れたことはない。
 原稿の確認も必ず今日でなければならない訳ではないのだが、他の原稿の回収率が悪い中、早めに提出をしてくれていた浮竹の連載だけでも先に校了しておきたい。
 実に目立たない場所にあるその建物の引き戸を少し開け中を覗くと、がらんとした室内にぽつぽつと人の姿があった。白い長髪の後ろ姿というのは嫌でも目立つというもので、檜佐木はその姿へと近づき声をかける。

「驚いたな、こんな場所まで」
「小椿さんから碁に凝ってるって聞いたんで」
「凝ってるというか、単に暇つぶしだよ。今日は非番で、特に予定もなくてね」

 本を片手に一人で碁盤に向かっていた浮竹の正面に腰を下ろす。わざわざ碁会所に来ているのに詰碁なのかと聞いてみれば、披露する腕前でもないから対人は気が引けるのだという。

「彼女は仕事っすか?」
「…彼女?」
「彼女も非番なら、一緒に過ごすんじゃないかと思って」

 檜佐木の言葉に、浮竹はしばらくぽかんとした様子で視線を返す。多少カマをかけてみたつもりだったが、鳩が豆鉄砲を食ったような表情が果たして図星であるのかはたまた寝耳に水であるか分からない。
 もし檜佐木の直感が正しかったとして、正面から聞いた所ではぐらかされるだけだろう。無理に聞き出すようなつもりは無いのだが、湧いてしまった興味を多少は満たしたいと思うものだ。
 碁石の擦れ合う音が静かな屋内で響く中、碁盤へ視線を落としてみたがまるで分からない。何も答えないまま、浮竹は手持ち無沙汰に碁笥へと指を伸ばした。

「すいません、ちょっと気になって」
「いや…気になられるような歳の男でもないよ」

 手にしていた本を浮竹はぱたんと閉じ、碁盤の脇に置く。その反応では一体どちらであるか確信は得られないが、その口元の僅かな笑みは照れくささを噛み殺しているようにも見えた。

「どんな方なんすか?」
「まだ続くのかい、その話題…」

 眉を曲げて笑う浮竹に、すみませんと一言答える。実に曖昧な反応だ。頷きはしないが、かといって決して否定はしない。恐らく相手が居る事は間違いないのだろうが、この様子ではそれ以上の情報が出てくるようには思えない。
 それが隊士なのか、それとも隊外の者であるのか、やはり興味は尽きない。同期である京楽と相反するように、女性に対してそれほど興味無げに見える浮竹が選ぶ相手がもし檜佐木も知る者であったならば驚きだろう。
 しかし困ったように腕を組み眉を曲げる様子を見て、流石に隊長相手に失礼だったかと、檜佐木は一つ姿勢を伸ばすと手元の封筒から原稿を取り出した。
 どこかほっとしたような表情の浮竹に、付箋を付けていた数箇所の確認を取り赤字で記入をしていく。

「すいません、休日にも関わらず」
「良いんだ、檜佐木君も大変だろう。この時期は特に」

 檜佐木が立ち上がるのと同時に、浮竹は脇に置いていた詰碁の本をまた手に取る。茶封筒の中に原稿をしまい込みながら、ああそうだ、と思い出したように再度手を伸ばした。
 原稿用紙よりも一回りほど小さな用紙を一枚指先で挟み取り出すと、浮竹へと差し出す。眉を上げて不思議そうに受け取った浮竹はその紙面をじっと見た。

「これ、浮竹隊長の原稿に挟まってたんで返します」
「…これは」
「多分、日南田の日誌っぽいっすね」

 ああ、と浮竹は紙面をじっと見つめたまま頷く。内容を見るに、彼女が霊術院での授業後に記したであろう日誌だった。授業内容や生徒の発言、次回授業の予定や反省点が几帳面な字で記されている。
 何故浮竹の原稿の中にと見つけた時には不思議に思ったが、単に執務室で何かの拍子で紛れ込んでしまっただけだろう。隊舎に日南田が居れば直接返そうと思っていた。
 じゃあ、と檜佐木は頭を下げると、慌てたように浮竹から呼び止められ振り返る。

「出来れば…千世にはまだ言わないでおいてくれないか」
「…え?ああ、はい…何でですか」
「あれ?違うのかい?」
「何がっすか?」

 二人でしばらく顔を見合わせていたが、やけに焦ったような様子の浮竹はそのまま碁盤へと顔を戻した。
 日誌が紛れ込んでいた事になにか不都合でも有るのか分からないが、平常を装うその不自然さから焦りが滲み出ている。日南田に知られたくないという事は、盗み読みでもしていたのだろうか。

「いや、違うなら良いんだ…悪かった、呼び止めて」

 いまいち良く分からず、何でですかと再び聞こうにももう話しかけないで欲しい空気を感じ、口を噤む。
 最後にぎこちない笑みを向けた浮竹に檜佐木は疑問符を浮かべたまま、再び頭を下げ碁会所を後にした。
 しかし、日誌くらい一言伝えればいくらでも読ませてくれそうなものだというのに、何故隠れて読むような真似をしたのだろうか。どうにもあの浮竹の珍しい慌てようが引っかかるが、だが他に理由も見当たらない。
 紙一枚分軽くなった封筒を手にしながら、今日はどうにもあまり腑に落ちない日だと、昼の筑前煮を思い出していた。

 

(2021.4.7)