未必の恋-5

おはなし

 

 薬を彼の屋敷へと届けた数日後、浮竹は養生の甲斐あってか早々に復帰をしていた。
 復帰した初日に彼から礼と共に饅頭の箱を受け取った。ただ薬を届け庭を見て回っただけだというのに申し訳ないと一度は断ったが、結局半ば強引に手渡されてしまった。その日のうちに一つ食べたものの、まだ殆どが残ったまま菓子盆の上へ積まれている。以前であればこの饅頭を理由に浮竹と茶の時間でも楽しんだものだ。
 今となっては彼と縁側で過ごした時間は懐かしさすら感じる。灰色のため息を吐き出しながら仕方無しに書類に羅列する文字へ目を通すが、一度ぼんやりとした頭での理解は乏しく何度か先頭に戻る事を繰り返していた。
 書類の読み返しが三度ほど続いたその時、襖の外から聞こえた高い声に千世は上ずった声で返事をする。間もなく、少し開いた隙間から清音が顔を出した。

千世さん、浮竹隊長知らない?」
「さあ…雨乾堂じゃないかな」
「雨乾堂も執務室も稽古場にも居ないんだよね。千世さんなら知ってると思ったんだけど」

 清音の言葉に千世は手元の書類を反射的に握りしめる。上官の名前が出ただけで平静を乱していてはどうしようもない。彼女はもういいや、と投げやりな様子でどたどたと無遠慮に部屋へ入ると長椅子へ深く腰を下ろす。浮竹に渡すつもりなのか、分厚い封筒を適当な所へ置いた。その疲れた様子を見ると、恐らく隊舎の方方を探し回っていたのだろう。
 菓子盆の上の饅頭を嬉しそうに指差した清音へどうぞと勧めると、早速包みを剥がして口へと含ぶ。うまい、と彼女は満足そうに口元を緩めた。
 浮竹との会話は相変わらず減る一方だった。特に復帰してからここ数日の彼は隊舎に居ることも少ない為、唯一の会話の時間と言っても良い毎朝の報告も書面で行うようになっている。だから最後にまともな会話をしたのは、清音が今美味しそうに食べている饅頭を無理やり受け取らされた時だ。
 一体何に奔走しているのか少なからず気になっては居たが、しかしそれを知った所で何が出来るという訳でもあるまい。ただでさえ勝手な気まずさから彼を避けているというのに、まさか尾行のような真似が出来るはずない。ぼうっと考えながら宙を見ていれば清音に不意に声を掛けられ、ぼけた焦点を合わせた。

千世さん、あの人型虚の噂覚えてる?」
「え?あ…ああ、うん。覚えてるよ」
「あれ、下手人捕縛されたらしいよ」

 そうなんだ、と千世は頷く。何週間か前に清音から聞かされた話をよく覚えていた。それなりに興味を感じていたからなのだろう。
 清音も詳細までは仕入れられなかったようだが、その下手人とやらは虚ではなく歴とした死神で、もう既に聴取が行われたのだという。話を聞いた時点で被害者は二人だけだと聞いていたが、結局その後増えることは無かったようだ。
 その噂を聞いて以来夜道を歩く事に少し気が引けて、わざわざ遠回りである繁華街を通って寮へと帰っていた。無事に捕縛されたということならば、今日からはまた暗い近道から帰っても良さそうだ。

「被害者の記憶も戻ったみたい」
「そうだったんだ…本当に記憶取られてたの?」
「うん…斬魄刀の能力だったりするのかもって」

 初めは眉唾ものだと思っていた。特定の記憶を奪うなどという芸当をどうすれば出来るのか、全く想像も及ばない。だが清音の言う通り斬魄刀の能力であるというのならば納得できる。
 もしくは技術開発局のような得体の知れない組織であれば、その程度のこと造作もなさそうではあるが。

「でもどうやって戻したんだろう…記憶を瓶詰めとかにしてどこかに保管してあったとか」
「私が聞いたのは、記憶を奪ってるんじゃないんだって」
「違うの?」
「なんか詳しいことはわかんないんだけど、簡単に言えば蓋をしてるだけらしいよ。その特定の記憶に」

 なるほど、と千世は頷く。確かにそういう事ならば奪った、とは言えない。しかし奪わず蓋をするだけで一体何が目的なのかは全く分からないが、何か実験めいた事であれば恐ろしくも思う。
 蓋と言うのだから、何かしらの力がかかればその箱の蓋が開いて記憶が戻るのだろうか。戻るというのも適切かどうか分からない。外からの力でその蓋が開くのか、それともその箱の中が膨張して蓋が開く可能性だってある。
 しかしそうも簡単に記憶を封じる事ができて、まさか被害者が二名だけだったとはどうも思えない。実際知らぬうちに被害に遭っている可能性も無いとは言い切れないだろう。もし自分しか知り得ないような大切な記憶に蓋をされてしまえば、一生気づかないまま過ごす事だって有り得る。

「どうやって記憶取り戻したんだろう…自力?」
「そこまではお姉ちゃん知らないみたいで…」

 清音は言い終えた後にまずい、と口を抑える。初めて噂を聞いたときからやけに詳しいと思っていた。四番隊の副隊長となれば、救護棟へ運ばれた被害者の状況もよく知っている上その後の話だって入ってくるだろう。
 あまり口外しないように言われていたのも姉が出どころだったからなのだろう。確かに詳細が広まれば困る。

「やっぱり勇音さんが出どころだったんだ」
千世さんこれ、内緒ね…絶対誰にも言うなって言われてて…」
「大丈夫、言わないよ」

 焦った様子の清音の様子に千世は笑う。
 すっかり長椅子の上へ居座る彼女へ茶でも出そうかと立ち上がり、湯呑を取り出すため茶箪笥へと向かった。戸を開き客用の湯呑を取り出した後、ふと奥に鎮座する鮮やかな青磁色の湯呑が目に入り思わず手を止める。
 以前浮竹から譲られたものだった。京楽から現世の土産物として送られた夫婦湯呑で、片方は彼が所持している。初めは何も言わずにただ譲られただけだったが、後に京楽から聞かされた話によればひとつは千世にと元々伝えて浮竹に送ったのだと言っていた。
 湯呑をうっすら指先で思わずなぞる。この所、何かしらを思い返す度に靄がかったような違和感が広がるのを感じていた。それは喉の奥に小骨が刺さったような違和感で、実に不快だった。気のせいだと思いたい所ではあったが、時々その違和感が膨満するような気分の悪さを呼び吐き気を覚える。
 彼に薬を届けた後も暫く同じだった。空腹が理由かと思っていたが、結局何を見ても食欲が湧かずその日は昼も夜も食事を取らなかった。今も似た気分の悪さが身体の奥で燻っているのか、嫌な予感を感じる。
 茶箪笥の前で立ち尽くしていた千世を不思議に思ったのか、立ち上がった清音が横へ立ち戸の中を同じように覗き込んだ。あ、と声を上げ青磁色の湯呑を指差す。

「それ、浮竹隊長もよく似たの使ってるよね」
「…そ、そうなんだ…」
「よく机の上にあるの見ない?あの色は普通の青磁じゃないと思っててさ」

 よく似てる、と清音は笑う。湯呑に指先を触れたまま、千世は暫くその青磁色を呆然と見つめていた。
 青磁の色はもともと好きだった。これは特に澄んだ色味で、塗りむらは一切無く、見つめるほどにまるで深い湖を覗き込むような印象を与える。気に入ったものは良く使う性分だったが、こうして戸棚の奥にしまい込んでいたのはもし落として割ってしまう事を恐ろしく思ったからだろう。
 先程から燻っていた気分の悪さが、また増してゆくのが分かる。頭がやけに熱っぽく、左手から聞こえる清音の声がやけに耳の奥で反響した。無理矢理に閉じたかみ合わせの悪い箱のような居心地の悪さに、突然込み上げるような吐き気を感じ思わず口元押さえる。先日よりも酷い気分の悪さに動揺した。
 急な様子に驚いた清音に身体を支えられ、そのまま引きずるように長椅子へと運ばれる。しかし横になった所で吐き気は収まらず、冷や汗が垂れるのを感じながら大きく息を繰り返した。
 突然のことで訳が分からず、頭の中で昨日から今日の昼に掛けての食事を思い出すが生ものや腐ったものを食べた覚えはない。口元を手で抑え、鼻で浅く呼吸を繰り返しながらごめん、ともごもご彼女へ伝える。
 やはり彼の屋敷の帰り際に急に感じた気分の悪さに良く似ている。まだあの時は我慢できる程度のものだったが、今のこれはとても耐えられそうにない。

「どうしたの、千世さん急に…平気?救護室連れてこうか」
「…いや、大丈夫」

 心配そうな清音の表情にまたごめん、と一言呟いた。湯呑を見つめていて急に吐き気で冷や汗を垂らされれば何事かと思うだろう。
 見上げる天井に、また妙な脳内の不快感が蘇る。慌てて視線を逸したが、机上に乱雑に置かれた書類や、この長椅子に身体が沈む具合や、もはやこの執務室の香りすら気持ちが悪い。記憶の遠い所で何かが引っかかり、それが頭の内側を執拗にくすぐるようだった。
 まるで身体が覚えている記憶を、頭が否定しているようだった。そのちぐはぐな感覚がきっとこの込み上げる吐き気の原因になっているようにしか思えず、満杯に詰まった箱の中を引っくり返すように目まぐるしく記憶を辿っていた。

「何か、何かとても大切なことを忘れてる気がする」
「…大切なこと…?どうしたの千世さん、なんかさっきから…変だよ」

 そうなの、と千世は良く分からないまま呟く。不思議そうな表情で見下ろす清音に何がとは答えられず、一人で何度か頷く。暫く前から感じていた頭の違和感や不快感がその一点に通じているように思えた。忘れてはならないものをまるで忘れている。だが、それが何かは分からない。
 ああ、と溜息に似た声を漏らす。ぼんやりと開いていた目を力なく閉じてみると、僅かに気分の悪さは和らいだ。眠くはなかったというのに、どうしてか今すぐにでも意識の深くへ手を伸ばせそうだ。名前を呼ぶ声が遠くで聞こえたが、うまく返事もできないまま意識の深い場所へと身を沈めた。

 

 目を開くと部屋は真っ暗で、縁側からは涼しい風が吹き込んでいた。横になっていた身体には清音が掛けてくれたのか薄手のひざ掛けが乗っている。暗い中時計を見れば、恐らく二時間ほどは此処で眠っていたようだった。
 秋の虫の音が心地よく、千世は部屋の明かりもつけないままひざ掛けを引き摺りながら縁側へと進んだ。今夜は上弦の月だ。夜空を見上げると半分に欠けた月が青白く輝いている。
 縁側へ腰を下ろし、そのまま月をぼうっと見上げる。身体に残る違和感はまだ止まず、先程よりも増しているようにすら思えていた。そわそわと落ち着かず、だがその理由が分からないのではどうしようもない。ただ、それが何か大切なことなのだろうという事は感じている。
 涼しい風が頬を撫で、手にしていたひざ掛けを肩へと掛ける。時折浮竹とは此処で茶を飲みながら何ということもないような会話をしていた。以前よく彼は茶菓子を手にこの執務室へ顔を出してくれていたが、それも最近は無くなった。
 それは彼に大切な相手が出来たからなのだろうか。確かに、いくら副官とはいえ女性と二人きりで過ごされるのはきっと相手からしてみれば良い気分ではない。そう一人で納得をしながら、胸の奥が掴まれるような痛みを感じる。
 十三番隊の書庫で彼の姿を初めて見たときから、随分と長い時間が経った。あの時彼とあの場所で会うことがなければ今此処には居なかったのだろうかと千世は思う。だがあの場所で出会わなくとも、いずれ何処かで出会った時に惹かれていたようにも思う。
 千世はふと思い立ち、立ち上がるとひざ掛けを適当な場所に掛けそのまま暗い執務室を出た。深夜近くとなりもう隊舎からは人の気配がすっかり消えている。廊下の灯りも最低限しか灯されておらず、身体の記憶のみで歩を進めた。
 隊舎の西側にそこはひっそりとある。みっしりと並んだ本棚には虫が食い日焼けしたような古書ばかりで、物好きしか訪れないような場所だ。軋む引き戸を開くと、途端にむせ返るようなかびと埃、そして古書の混ざったにおいに顔を顰める。格子窓から差し込む月のぼんやりとした灯りを頼りに、本棚で身体を支えながら進んだ。
 暫く掃除もされていないようで、千世が歩く度に床の埃が舞い、僅かな月の灯りを反射してきらきらと光る。深夜の書庫に灯りも持たずに来た所で読書も何も出来ないというのに、適当な本を一冊手に取るとそのまま床に腰を下ろしぱらぱらと捲る。
 途端にまた舞った埃に千世は思わずひとつくしゃみをした。決して良い香りとは言えないというのに、しかし包まれるとどうしてか安心をする。暗くて全く文字の見えない本を千世は暫く開いたまま見つめていた。

「読めないな」

 何一つ音がしない部屋の中、一人呟いた。薄っすらと文字が確認できるが、読めるほどの明るさは無い。適当に手にとった本だが、こうして読めそうで読めない文字というのはどうしてか躍起になって読んでやろうと思ってしまう。
 その時、引き戸が軋む音が耳に入り千世は顔を上げた。ぎし、と近づく軋む板張りの足音がする方へ顔を向ける。その姿が現れることを知っていたかのように心は凪いでいて、暗い中で目が合うと思わず口元が緩んだ。

「此処に居ると思った」

 夜風のような優しい声に、千世は頷く。埃を立てながら彼は千世のもとへと近づくと、その近くで同じように腰を下ろした。開いていた本を閉じ、僅かな月明かりの中で彼を見る。

「こう暗い中じゃ読めんだろう」
「そうですね、何も」
「それにカビ臭いし埃っぽい」
「でも、こんな中で居眠りされてたのは隊長ですよ」

 そうだったか、と浮竹は笑う。優しく響く声は耳に入り込み、頭の奥の違和感を少しずつ解いてゆく。錆びついた蝶番から鳴り続けていた軋むような不快な音が、徐々に薄れてゆくのが分かる。
 先程までの胃がひっくり返るような気分の悪さはいつの間にか消え、穏やかな感情だけが今胸の中に広がっていた。暗がりの中交わる視線をよく知っている。一時たりとも逸らすことが惜しいと思うほど優しいものだ。
 布の擦れる音の後、膝に置いていた手の甲へと彼の掌が重なった。その体温を千世は確かに知っており、その流れ込むぬるく心地よい温度に息を潜める。何か閉じ込めていた箱の蓋が僅かに開いたかのように、その隙間からまるで煙が流れ出すように一瞬で体中へと満ちる。
 ああ、と千世は声を漏らす。どれが切欠であったのかはまるで分からない。におい、体温、声、眼差し全てが決して忘れるはずのないものだと思っていた。それは止めどなく溢れ、空になっていた凹みを一杯に満たしてゆく。

「君の未来を思った時、そこに俺は居るべきでないと思っていた」

 彼は静かにそう言うと、垂れた細い髪を耳に掛ける。初めて出会った時には格子窓から漏れ入る太陽の光に反射して美しい白髪だと見惚れたものだが、月明かりで浮かび上がるまるで白金にも映る絹糸のような髪にまた目を奪われた。
 あの時から今まで、ひとときも憧れない時は無かった。それは思いを結ぶ前も、そしてその後も変わって居ない。

「私の未来は私が決めます」
「…その通りだな。違いない、本当に」

 二人の間にある埋めようのない時間を今更どうしようとは思わない。そう思ったことすら無かった。この先においてもそれは決して変わらないものだと知っている。
 彼の思い悩みがどれほどのものであったのかを千世は知らない。千世にとってはそんな取るに足らないことをと笑い飛ばしそうな事を、彼はその胸に長い間留めていたのだろう。あまりにその優しい重みを今になって知り、それ以上に何も言うことが出来ずただ熱い息が漏れた。
 目を細める彼を見上げ、千世は笑う。

「此処へ来れば、千世と会えると思った」
「それは私もきっと、同じだったんだと思います」

 そうか、と笑った彼を見つめる瞳が揺れた。自分だけが知る、自分だけへ向けられた笑みは長く望んでいたものだった。今思い返せばたった十日ほどの出来事だったが、その十日はきっと今までで最も長い十日だった。
 歯抜けの部分を取り出した記憶で埋めながら、膝の上で重なる手の甲を見下ろし瞬きをする。何度繰り返しても伝わる熱は変わらず、確かにこの瞬間が夢でないのだと安堵した。
 千世、とささやくような声音に呼ばれ顔を上げる。彼の瞳の中に映る自分を食い入るように見つめていれば、その薄い唇が再び開いた。

「この先も傍に居て欲しい」

 急な言葉に千世はしばらく彼の目を見返したまま何も答えられず、息を止めた。
 どう答えようかと考えあぐねる間に、瞬きを忘れていた瞳を潤すように雫が溢れる。頬を伝う涙を彼の指先に掬われると、また同じようにひとつ零れた。抜け落ちていた数週間を埋めるかのように涙が止まらず慌てれば、彼は眉を曲げて笑う。
 いつものように柔らかい声音で名前を呼ばれ瞬きをすると、浮竹は目を伏せ僅かに口ごもる。珍しい様子に千世はまじまじと見ていれば、少し顔を上げ上目がちのまま口を開いた。

「…いや、その前に聞いておくべき事があった」
「その前に…何ですか?」
「そう、つまり…また、俺を好きになってはくれないか、と」

 瞳が揺れる。何を今更、と千世は思わず笑うと頷いた浮竹も口元を緩めた。その全てに、ひとときも焦れない時なんて無かったというのに。

 

未必の恋
2020/10/24
(台詞リクエスト「何か、何かとても大切なことを忘れている気がする」)