未必の恋-4

おはなし

 

 少し前から頭の奥で何か軋むような違和感が続いていた。かみ合わせの悪い箱を無理閉じたような、錆びた蝶番から鳴る音のような不快感がずっと頭の中に残るようでひどく気分が悪い。
 霊術院での臨時講師の授業を終えた千世は、執務室に早々に戻り記録を残していた。十二月には試験も控え、その後には評定を出さなくてはならない。生徒一人ひとりの名前と顔も一致するようになり、回収した実習記録に目を通しながら名簿の横へ評価を付けてゆく。
 霊術院に居た頃はまさか自分が評価を下す側に回るとは思いもしなかった。朱肉を取り出すために引き出しを開くと、千世はその中に無造作に入れられた手のひらに収まるくらいの鍵を見つめる。
 その鍵に気づいたのは一週間ほど前だった。寮のものでもなければ、隊舎のどこの錠前とも噛み合わず思い当たる節がない。何処の鍵か誰のものであるのかも分からず、ただ忘れ物として届けるのも違うような気がしていたからずっとそのままにしていた。
 酔った時に拾って、仕舞い込みでもしただろうか。酒癖の悪い自覚があった千世は、充分に有り得る話だとひとつため息をつく。
 引き出しを開く度にその鍵を目にして、なんとも言えない気まずさを感じていた。その鍵を探しているかもしれない誰かへの罪悪感なのだろう。

「入るぞ」
「もう入ってきてるじゃないですか…」

 廊下を踏みしめる足音が近づいてきていた時点でもう身構えていたものの、実際どたどたと騒がしく部屋に入ってきた小椿の姿に千世は何ですか、と声をかける。

「忙しいとこ悪ぃが、四番隊の卯ノ花隊長のとこ行ってくんねえか」
「え?どうしてですか」
「隊長が具合マズそうで今さっき屋敷帰って貰ったんだけどよ、薬届けて欲しいんだ」

 えっ、と突然の状況報告に思わず声を上げる。それなりに彼の病状の度合いを知っている者がまずい、というのはよっぽどのことだろう。握っていた筆を千世は机に転がし、立ち上がった。

「丁度清音の奴が流魂街の討伐任務で、俺もこの後研修入ってて手が離せねえんだ」
「ああ、そうなんですね…卯ノ花隊長にはもう連絡は…」
「連絡は済んでっから、薬受け取って隊長の屋敷まで届けてくれ」

 頼んだ、と一言残して慌ただしく部屋を出て行った半開きの襖を千世は暫く見つめていた。いくら忙しかろうが、何より浮竹の体調が第一であるというのは千世も同じ考えだ。だが僅かに戸惑いを感じてしまうのは、先日の一件のせいだろう。
 実に勝手なものだと分かっているが、数十年の片思いをああも見事に退けられてしまえばそれなりに整理がつくまでには時間がかかるというものだ。しかし今はそんな事を気にしているような場合ではない。ふう、とひとつ息を吐き出すと散らかった机を多少片付ける素振りもせず部屋を出る。
 先日からやけに体調の優れない様子である事は僅かな会話の中でも分かった。昨日も確か早退をしていた筈だったのだが、今朝は何時も通り雨乾堂で仕事をしている様子だったから多少持ち直したかと思っていた。
 先日千世も体調を崩したばかりだったが、自己管理云々と怒られた覚えがある。あの時は図星を指されて逆上したような態度を取ってしまったものだが、果たしてどう謝ったのだったか肝心な所の記憶が霞んでいた。つい最近の出来事だというのに、忙しさの所為かところどころそうして歯抜けのような記憶になっている。
 千世の気の緩みが招いた体調不良とは違い、彼のそれは持病だから比べるような事柄ではない。いつもならば湿度の高い雨乾堂で療養して数日で復帰となるものだが、わざわざ彼の私邸にて養生となるとやはり様子が心配だった。
 四番隊までの道を早足で進みながらふと、彼の恋人はその傍には居はしないのだろうかと思う。その相手が誰であるか千世には全く検討もつかないが、彼の屋敷で甲斐甲斐しく看病でもしているのだろうか。じわりと広がった雨雲のような鈍い暗さを持つ感情を振り払うように、ぼやけていた焦点を合わせた。

「卯ノ花隊長、お忙しいところ…」
「あら日南田副隊長、流石お早いですね」
「え?…ええ、はい」

 案内された部屋はツンとした薬草の匂いが漂っていた。丁度調合を終えたような様子の卯ノ花は藥袋の中身を多少確認するように覗くと、それを千世へと手渡す。

「ありがとうございます、お忙しい中」
「いいえ、そろそろかと思っていましたので」
「そろそろ…ですか?」
「季節の変わり目ですから」

 なるほど、と千世は頷く。夏の暑さが引き、急激に朝夕冷え込むようになって体調を崩すものは増える。特に湿度が落ち始めるから、肺に患いのある浮竹にとっては十分に注意しなくてはならない時期なのだろう。

「隊長はすぐご自分を後回しにされるので…」
「ええ、よく存じておりますよ」
「さすが長いお付き合い…」
「ですから、貴方がしっかり見て差し上げて下さい」

 その言葉に千世はぼかんとした表情を向けたが、いつもの読めない笑みで会話は締められた。千世はあまりピンと来ないまま帰路を辿る。ただ彼と同じ隊の副隊長というだけで、そこまで任されるのは烏滸がましい。彼をしっかり見る、なんて実際にしたらきっと彼の恋人が良く思わないだろう。
 そうしてまた現れた実態のない浮竹の恋人の姿に、千世は目をぱちぱちと瞬いて頭の中から追い払う。彼への思いが軸となり生きていた千世にとって、その事実は正直な所胸を抉るようなものだった。きっと浮竹は千世からの思いに気づいていた。それに、あの時きっと彼が千世へ聞いたものと同じ問いを千世が返す事を彼は分かっていた。
 どうして聞き返してしまったのか、それはほんの僅かな期待をしてしまったからなのだろう。彼に与えられていた優しさや眼差しが他の者とは少し違うと思ってしまっていた。結局それは見事な勘違いで、浮竹にはいつの間にか最愛の人が傍にいた。
 一体それが誰であるかなんて、その場で更に聞ける筈もなかった。彼の年齢を考えれば、人柄を考えれば彼が共に歩む女性が居るというのは何ら不思議ではないことだ。きっと自分はその女性の足元にも及ばぬ未熟さなのだろうと、ひたすらに恥じ入るような思いだった。思い出すほど、まるで血液が蒸発しそうなくらいに恥ずかしい。
 つまらない石畳を踏みしめ進みながら、自然と溜息を吐く。彼に優しく突き放された後の世界というのは、初めて見る色をしていたように思えた。時間が経つにつれてそれにも多少は慣れてきたものだが、しかし時折蘇るあの抉るような感覚は身体の動きを一瞬鈍くする。

「…あれ」

 気づけば一軒の屋敷の前に着いていた。ここが浮竹の私邸であることは、過去一度訪れたことがあったから知っている。特に意識をしていなかったが、身体が良くこの場所を覚えていたものだ。
 門戸の前で暫く立ち尽くしていたが、すみません、と一言声を上げてみる。もし彼以外の者が居ればきっと開けてくれるだろうと思い大きめの声を出してみたのだが、その気配はなく僅かにほっとした。
 少し戸を押してみると、蝶番の軋む音と共に開く。どうやら戸締まりはされていないようで、まあ不用心だと思いながらもその隙間に身体を滑り込ませた。屋敷の引き戸も同じく施錠されておらず、緊急事態だからと言い聞かせながらその中へと足を踏み入れる。
 しんとした屋敷の廊下を歩きながら、微かに聞こえた咳の音を頼りに襖を静かに開けた。

「…隊長、お邪魔してます」
千世…どうして」

 千世の姿に少し身体を起こした浮竹は、またすぐに咳き込み布団へと戻る。ひどく苦しそうな様子に、千世は傍へ寄ると薬を藥袋から取り出す。突然の来訪の理由に気づいたのか、細い声でありがとうと浮竹は呟いた。

「台所お借りして良いですか」
「ああ、勿論」

 流石に粉の薬を何もなしに飲ませる訳にはいかず、千世は部屋を出るとそのまま台所へと向かった。土瓶を取り出し水を注ぐと、そのまま火を掛ける。微かに湯気を上げ始めた所で、茶箪笥から取り出した湯呑へと注ぎ込んだ。
 部屋へ戻ると身体を起こした浮竹が悪いね、と力なく笑っている。湯呑を手渡すと、慣れたように薬を口に含み飲み下した。

「台所、良く分かったな」
「え?ああ…確かに、何となく…」
「土瓶の場所も、湯呑も」
「台所なんて、どこも同じですから」

 そうだな、と浮竹は笑うとまた敷布へと身体を倒した。確かに台所へ向かう時、まるで間取りを知っているかのように迷わなかった。だが屋敷の造りなどどこも似たようなものだから、別段不思議には思わない。
 まだ浮竹の咳は続いているが、じきに薬が効き始める事だろう。小椿の深刻そうな様子で相当ひどい有様を想像していたものだが、意識もあり会話をして笑えるくらいだから少し安心をした。
 一度この屋敷に来た時の彼は高熱な上にほぼ意識も無く、激しい咳で酷いものだった。副隊長へ上がるずっと前のことだ。懐かしい、と思いながら僅かに開いた障子の隙間から庭を見る。あの時は、溜まった洗濯物をひたすら洗っては干す役目を卯ノ花から命じられたのだった。

「どうした、庭に何かあったか」
「ああ、いえ…以前一度此方へ来た時の事を思い出しておりました」
「卯ノ花隊長が出張で来てくれた時の事かい。悪かったなあの時は」
「とんでもない事です。少しでも隊長の為に働けるのは、嬉しいですから」

 千世は言い終えてから、内心ため息をつく。振られたにも関わらず、まだ凝りない女だと思われたに違いない。勿論彼の表情を確認するような勇気があるわけもなく、その微妙な空気を誤魔化すように立ち上がった。

「もう、帰るのか」
「ええ…はい…」

 もう、という言葉に千世は戸惑う。まるでまだ早いとでも言いたげな口調が、凝りもせず心拍を上げた。しかしそれもまたきっと勘違いなのだろう。彼の優しい言葉を真っ直ぐに受け取り、思いを勝手に募らせてゆく。
 実に感情は愚かなもので、一度は屋敷を出ようと思っていた気が簡単にその声音で萎えた。布団へと横たわる彼を見ると、目線が合う。優しく弧を描くその目はしっかりと千世を捉えている。

「庭を見ても良いですか」
「勿論。俺の自信作があるから、見てやってくれよ」
「自信作ですか?」

 縁側の方へ歩みを進めながら振り返って浮竹を見ると、横になったまま一つ頷いた。障子を押し開き、縁側へと出ると風の涼しい秋晴れだ。縁側近くの踏石の上には大きさの異なる二組の下駄が置かれており、思わず息を止めた。
 不意に現実を突きつけられると、まるで心臓が止まりそうになる。多少は受け止めはじめていたかと思って居たが、全くそんな事は無い。この屋敷で恋人と二人慎ましやかに過ごす時間があるのだろうと、僅かに頭に浮かぶ想像が妙に生々しい。
 お借りします、と聞こえないくらいの声で呟きながら小さい方の下駄を引っ掛ける。涼しい風が丁度良く頭を冷やしてくれるようで心地よい。うろうろと特に目的もないまま歩いていれば、塀に近い木製の花台に並べられた盆栽が目に入った。
 ああ、と近づきながら彼の言っていた自信作とはこのことかと合点する。松や梅、恐らく皐月などの中、僅かに色づき始めた赤子の手のひらほどの紅葉が風に揺れていた。盆栽の良し悪しというのが千世には分からないが、彼も確か良く分からないのだと言っていた。ただ何となく良い具合に剪定が出来ると、満足なのだという。
 どこで聞いたのだったかよく覚えて居ないが、ふと思い出して笑った。彼の自信作とやらがこのいくつか並ぶどの盆栽の事かは分からないが、どれも等しく愛情を受けて育っているように見える。もしかすればこの全てを自信作と言っているのかも知れない。
 そのままぐるりと庭を一周し、再び縁側へと戻る。また元の通り踏石の上へ下駄を戻すと、彼の伏す部屋へと戻った。

「隊長…あれ?」

 寝息を立てている様子に、千世は口を噤む。早くも薬が効いたのか、穏やかに眠っているその傍へと千世は腰を下ろした。これでは自信作の感想を伝えることも出来ない。
 薬も届け、これ以上この場所に居る理由もないというのに、枕元で寝顔を眺めている事が知られたら気味悪がられそうなものだ。
 振られてしまった恋なんてさっさと諦めてしまうべきだと分かっているが、そう直ぐには上手くいかない。自分と同じ歳くらいの人を好きになり、運良く思いが実って恋人になれたのならば年相応の付き合いをすれば良いのだと、時折吹っ切れたように思いはする。
 しかし一瞬は思うものの結局は彼に心がべったりと残ったまま、そうすぐ身軽に動けるはずがない。あまりに自分からかけ離れてしまった人へ、長い間恋し続けてしまったのだろう。その傍に置いてもらい、勝手に期待を募らせ夢を見すぎてしまった。
 何度目かのため息をつく。それにしてもこの家の匂いは、どこか懐かしい思いをさせる。きっとその理由は木造と畳の香りなのだろうが、それならば隊舎だって同じようなものだ。だがこの家の香りは、妙に記憶の何処かに引っかかるような気がしてならない。
 気のせいだと言われればそうなのだろうが、やけに胸に引っかかった。香りの記憶というのは強いもので、例えば冬の日の朝や雨の日の匂いには様々な思い出を引っ張り出されるものだ。やけにそれに似た感覚であったが、しかし何も思い当たる節は無かった。
 その香りを胸いっぱいに吸い込むように深く吸い、そして細く吐き出す。いつまでもこの場所に居るわけにはいかない。起こさないよう、布団を彼の首元までそっと掛け直し立ち上がりかけたその時、ふと名前を呼ばれた。
 聞き間違えか、とも思ったが確かに千世、と呼ばれた声が耳に残っている。まさか起きているのかと思わず固まって彼の様子を見守っていたが、再び穏やかな寝息が戻る。
 寝言か、と自分を納得させるために呟いたがやはり凝りずに心臓が脈打つ。まさかあまりに強く思いすぎる余り、彼の夢に現れてしまったのかと思うとひどく恥ずかしい。熱が顔まで上がり頬を染め、動揺でぐらりと揺れる視界にこれ以上耐えられず、千世は重い腰をようやく上げるとそそくさと部屋を出た。
 振った女が夢に出てくるなんてさぞ気分が悪いに違いない。申し訳ないような思いと、だが彼の意識の中に自分が居るという事が単純に嬉しいと感じてしまった。やはり、すぐに断ち切れるほど簡単な思いでは無い。
 静かに襖を閉め、一人廊下で大きく息を繰り返す。息を詰めていたせいか、酸欠のように気分が悪い。それに胸のあたりがむかむかと、味わったことのないような違和感が広がる。ああそうだ、昼食を取っていないからきっと腹が減りすぎて気分が悪くなっているのだ。
 そうに違いないと言い聞かせ、どこか知ったようなよくある廊下を抜けた。

2020/10/19