未必の恋-3

2021年6月26日
おはなし

 

 あれから数日が経っていたが、未だ彼女本人には尋ねてはいない。日毎に増す確信は胸にぼんやりと掛かっていた靄を不本意にも晴らしてゆくものだった。
 副隊長である彼女と顔を合わせることは少なくなかった。書類受け渡しや前日出撃の状況報告等、今まで特に意識をしていなかったが平時であればこうも一日に対面していたものかと今更ながら思ったものだ。
 多忙な時期は隊舎を離れる事や雨乾堂に籠もる事も多く書面で報告を受ける場合もあるが、この数日においては特にそういった事はない。報告の為部屋の外から彼女に呼びかけられる度妙な緊張が走るのは、どこかでまだ彼女の記憶の件を気の所為だと思いたいからなのだろう。
 彼女の対応は特段変わり無い。確か彼女と付き合い始めてからも同じように思ったことがあった。恋人となっても業務上での態度が特に変わるような事はなく、適度な距離を保つ姿勢に安心をしたと同時に多少の拍子抜けをしていたものだ。

「昨日の報告は以上ですが、何かありますか」
「いや、特に無いよ。ありがとう」

 報告を一通り終えた千世は、浮竹に報告書の束を手渡す。一つ頭を下げた彼女はそのまま執務室を出ようと立ち上がったが、その姿をつい呼び止めた。
 はっとしたように目を見開いた彼女は再び畳の上へと戻る。何かを話そうと呼び止めたわけではなかったから、その目線を向けられながらどうしたものかと顎へ指先を伸ばし一つ撫でる。いつもならば此処で一言二言多少の世間話でもして彼女はまた仕事に戻る事が多く、それを少なからず業務の合間の息抜きと思っていたものだ。
 彼女の瞳の光彩は睦み合っていた頃と変わることはなく、それを見つめるほどにもの寂しさが通り抜ける。

「どうかされましたか?」
「ああ、いや。…そうだ、檜佐木君とは最近会うのかい」
「檜佐木君とは、先月の月末書類の提出の時に会ったと思いますが…どうかしましたか?」
「そうか、…いや、ふと気になってね」

 無理に話題を作っている事が彼女にも伝わっているのか、様子を窺うような表情を向けられている。素直に彼女の後ろ姿を見送れば良かったというのに、癖というものは扱いが難しい。

「…もしかして、檜佐木君との噂の事ですか?」
「噂……」

 そういえばそんな噂が流れていると聞いた事を思い出す。適当な話題を拾い上げただけだったが、そこへ繋げられるとは思いもしなかった。噂は嘘ですから、と念を押すように言う千世に浮竹は笑う。
 彼女の記憶の一部が失われている事は確実だったが、しかし一体どの部分が消えているのかというのはその頭を覗けるわけではないから明確に分からない。日常業務や日常生活に関わる事には恐らく影響が出ていないのか、何ら不自然な事はないように見えた。だからこそ、浮竹への対応が顕著だった。
 彼女の変わらない日々の中に取り込まれたように、まるで時間の波は凪いでいた。それはもの寂しくもあったが、だが今まで胸の奥に隠していたわだかまりが融けるようにも感じていたのも確かだ。

「じゃあ、他に好い人は居ないのか」
「好い人…ですか?」

 何を聞いているのだと内心思ったものの、つい口を衝いて出た。職務に何ら関係のない個人的な事、ましてや男女関係の話題など持ちかける上司がどこに居て良いものか。千世は眉を曲げたまま、考えたように視線をじっと宙へ浮かせる。
 あれから京楽が十二番隊への調査依頼を掛けたと聞いていた。総隊長への報告はご丁寧にも千世の件を除いて済んでいるという。先の被害者である二名については技術開発局でより詳しい検査を行っているとの事だったが、記憶の行方までには至っていない。話によれば、下手人が見つからない以上は永劫記憶が戻らない可能性もあるという。
 戸惑った表情の千世は、ようやくその小さな口を開く。

「いえ、私にはそのような方は未だ」

 そうか、と浮竹は少し間をおいて軽く頷いた。予感から確信へと変わったが、案外穏やかである事が妙だった。千世がさっと伏した目は戸惑いながらも、僅かに何か期待するように庭から差し込む初秋の光を写し揺れる。
 ここ数日で見る彼女の反応は実に愚直なもので、良く見つめる割には目が合えば慌てたように反らし、声を掛ければ嬉しそうにその頬を緩ませて表情を明るくさせる。以前はそこまで意識をしたことがなかったが、一喜一憂という言葉がまるで当てはまるその様子をひどく懐かしく思った。
 数十年前、彼女が純粋に向ける好意に初めは戸惑ったものだった。年の離れた娘ほどの子に向けられた想いほど遣り場に困るものは無い。どう傷つけずにその想いを収めさせることが出来たものかと時折考える事もあった。
 しかし気づけば、目は自然と彼女を追うようになっていた。誰よりも素直に向けられたその感情がいつの間にか居心地の良いものとなっていた事に気づくのは、そう難しいことでは無かったはずだ。いつか隣へ立つためとひたすらに自身を顧みず力を得ようと藻掻く姿から、次第に目を離せなくなっていたのだろう。彼女の強い思い通り着実に力を付け、その足音が近づいてくるのを自然と待ち侘びていた。

「…いや、悪い。個人的な事だった」

 浮竹が言うと、千世はいえ、と頭を下げた。そのまま暫く動きを止めた彼女の細い髪を見つめる。僅かに吹き込む風にふわふわと頬をくすぐるように揺れた。

「…隊長には、その…いらっしゃるのですか」

 ようやく震える声に尋ねられ、浮竹は息を止める。恐る恐る顔を上げた千世は不安を混じらせたような目線を向ける。手にとるように分かるその感情の波を受け止めてしまえばきっとまた同じ事を繰り返す。
 胸の奥で消えずに残っていたわだかまりは間違いなく彼女の未来に対する後ろめたさだった。何度もそれを思っては自然と彼女へと向く感情を手折ろうとしたものだ。しかし彼女からその素直な想いを伝えられれば、まさか首を振れる筈もなく烏滸がましくも受け取りそして図々しくも返した。
 単なる彼女の上司であり、それ以上にもそれ以下にもしてはならなかったというのに、こうも揺さぶられる事になるとは出会った当初は思いもしなかった。まだ幼さを残した何も知らない表情は昨日のように思い出すことが出来る。
 浮竹は少し考えたように無言の後、彼女の問へ一つ頷き答える。瞬間に笑みが消え、そうだったんですか、と慌てたように作った硬い笑顔の口角は引きつった。
 浮竹の想いなど欠片も覚えのない彼女は、額面通りに受け取ったのだろう。長く想っていた相手には自分ではない好い相手が居たのだと知ったならば、それはどれほどのものか分からない。一寸も動かない彼女の固まった表情から、庭へと目線を移動させる。
 この先の季節を共に過ごすことになるのだろうと、少しは思ったものだった。まさか二人過ごした記憶がまるで消されるなどとは誰も予想出来る筈がない。彼女に二人過ごした時間を滔々と語れば思い出してくれるだろうかと僅かでも思ったが、失われたものが戻る保証もないというのに突拍子もない事を語られればこじれるだろう。
 かといってこのままのらりくらりと事実に目を向けないまま過ごせば、何れ必ず彼女はあの時と同じように想いを伝えようとする筈だった。あの時少なからず後悔をしていた選択を今やり直すことが出来たのだと、靄がかった頭を納得させるように繰り返す。
 初めて彼女の思いを明確に突き放した身体は、どこか自分のものではないように浮ついたような感覚に思えた。ああそうだ、と浮竹はふと思い出して懐に手を伸ばすと巾着を取り出し、その中にしまい込んでいた彼女の髪留めを手にする。千世に差し出すと、あ、と小さく声を上げた。

「拾った。千世のものだったな」
「ええ…はい、私のです。ありがとうございます。でも、どうして」

 答えずに笑い、彼女が差し出した手のひらに載せるとそれを大切そうに包んだ。何度も触れたその手や頬にもう手を伸ばすことも無いのだろう。頭を下げ、目線も合わせずそそくさと部屋を出てゆくその背中を見送りながら静かに息を吐き出す。
 自らそう決めた事だというのに、実際彼女の表情を見るのは思っていたよりも倍ほど息苦しいものだった。自分の中だけに残った彼女との記憶がより息を詰まらせる。
 あの日会う約束をしなければ、彼女は記憶を無くさずに済んだのだろうかと、そう思い返した所で何が変わるという訳でもない。今この状況を選択したのは自らの意志だと言うのに、湧き出すのは紛れもない後悔の感情だった。後悔を清算する為に後悔を重ねるなど、全く意味のわからないことだ。
 参ったな、と一人執務室の中で呟きながら再び庭へと目を遣る。夏の間青々と伸ばしていた木々の葉は、いつの間にかに色を失っていた。

 

 その夜はどうにも帰る気も起きず、雨乾堂でぼんやりと本を眺めながら過ごしていた。元より屋敷へ帰ることは少なかった事を今になって思い出す。彼女と恋人となってから初めて自宅としての機能を果たしていたように思う。それまで棚には埃が積もり、布団はうっすらかび臭かったものだ。
 いかん、と思わずこめかみを押さえる。決して長い時間を過ごした訳ではなかった筈だが、あまりに深く思いを受け取りそして与えすぎていたのだろう。
 過去形となった彼女の思い出を払うように浮竹は一つ息を吐き、手元の本を閉じる。立ち上がり部屋から顔を出し視線を横へとやると、見慣れた姿が柱の影に背をもたれていた。

「気づいてたの」
「当たり前だ。いつ入ってくるかと思ってた」
「それなら早く声かけてくれればいいのに。意地悪だねえ」

 着流しの姿の京楽は部屋へ入るとどっかりと畳の上へ腰を下ろす。特にもてなすものも無いから座布団だけを渡したが、それを敷く事無く膝の上に載せた。

「例の件だけど、下手人が見つかったって話聞いた?」
「下手人…?死神だったのか」
「そう、技術開発局の元局員だったみたいだよ。先日十二番隊の内部のごたごたで脱退になった子が居ただろう」

 京楽の言葉に心臓が自然と脈打つ。思っていたよりも早い結末だった。
 前回の隊首会で十二番隊で一名が脱退との報告があった事を覚えている。詳細は語られなかったが例の通り特別監理棟へ送られたと聞いていた。京楽が言っているのは恐らくその者の事だろう。
 噂が囁かれ始めた頃特別監理棟から脱走していたようだが、混乱を避ける為に一番隊と隠密機動との間で秘密裏に捜索が行われていたのだという。ようやく捕縛に至ったようだが、あまりに遅い。
 特別監理からの脱走となれば、すぐさま隊長格に通達すべきような事態だというのに、噂が広まってでも内密に処理を行った所を見ると相当に焦っていた様子が伺える。そのまま発見に至らなければ、脱走自体が無かった事として片付けられていた可能性もある。

「その子は記憶の操作に手を出して、晴れて危険因子扱いになってた」
「…成程、色々と納得したよ。隊首会で仔細が語られなかった理由も」
「まあ、とにかく良かったじゃない。これから聴取だっていうから、記憶戻せるのも時間の問題かもしれないよ」

 そうか、と浮竹はその言葉に素っ気なく頷く。一瞬は揺らいだが、覆すようなつもりは今更ない上にもう遅い。彼女のこの先については常に頭の片隅にあった事だ。
 いくら愛しく思い合っていたとしても、時の流れが止まる事は無い。長く幸せにしてくれる相手を彼女はいずれ探すべきだった。そう頭の中で、今日は何度繰り返したことか知らない。間違いなくそれは後悔という二文字でしかなかった。
 失恋よりも辛い事など、過去に幾度となく経験している。比べるのも大概だとは思うが、やはり何かを失うという事には慣れないものだ。慣れるわけがないと、わかってはいるのだが。

千世ちゃんに何か言ったの」
「ん?いや…そうだな」

 心ここにあらずといった様子で答える浮竹に、京楽は深くため息を吐く。察したのか案の定呆れたような表情を向けられ、気まずく顔を逸した。

「まさか記憶を戻させる気が無いって訳かい」
「…ずっと考えてた事だった。丁度良かったよ」
「あのねえ」

 思った通りの京楽の反応に、浮竹は目を瞑った。だからあまり言いたく無かったのだ。何れは伝えるべきだとは思っていたが、耳の痛い言葉を返される事に今はあまり気乗りしなかった。少なからず覚悟をしていたが、こうも予想通り呆れた様子をされると胸の中に残る後悔に引きずられる。
 恥ずかしながらこの歳になっても恋というものは悩みは付き物で、京楽には恐らく本心に限りなく近い言葉を時折漏らしていた。それがようやく落ち着き何だかんだと順調な交際を続けていたというのに、彼からしてみれば浮竹の今までを翻す決断にいい加減にしてくれと溜息の三つや四つを吐き出したいところだろう。

「いい年したおじさんに説教なんてしたく無いのよ」
「説教なんて、してくれと頼んだ覚えはない」
「いや、しないよ。しないけどね」

 色々と言いたげな様子は嫌というほど分かる。ああも悩んだ結果自身の思いを選択したというのに、結局今はそれを覆して状況を理由に彼女を突き放した。常々考えていたなどと耳障りの良い言葉を並べている自覚はある。
 しかし、彼女のこの先を思えば決して間違った選択ではない筈だ。老い先の短い男より、同じだけ共に時を過ごす事の出来る相手を見つけるべきだ。何度も後悔をしかけては、そう頭の中で繰り返す。

「変わんないねえ昔から。恋愛となると特に」
「…説教したくないんじゃなかったのか」
「説教じゃあないよ。ただ浮竹に振り回される千世ちゃんが、可哀想だと思っただけ」

 その言葉に浮竹は眉をひそめて京楽を見る。振り回すという言葉がやけに引っかかる。
 京楽は座布団を畳の上に置き立ち上がると、そのまま部屋を出た。軽く手を上げたその背中を浮竹は呼び止め掛けたが口を閉じる。じゃあお前ならどうするんだと聞いた所で参考にするような気も無いというのに。
 再び一人となった部屋の中で、手元の本の頁をぱらぱらと捲る。こうして過ごしている時、よく外から彼女の呼びかける声が聞こえ、申し訳無さそうな様子で覗かせる姿を招き入れたものだ。彼女が消えたわけでもないというのに、指先まで広がる冷たい感覚は喪失感なのだろう。
 まるで彼女が二人いたようだ。一人は今も執務室で明かりを灯すその姿、そしてもう一人は姿を消した。年甲斐もなく恋をしていた彼女は手の届かないところへ消え、それならばあの日々は長い夢だったのだと思えば良い。
 しかし心地よい夢だったにしては、随分と寝覚めが悪いものだ。

2020/10/15