未必の恋-2

おはなし

 

 彼女が約束を反故にする事は今までに一度としてなかった。それが彼女の性なのかそれとも多少の努力を持ってしてのものなのか、恐らくそのどちらでもあるのだろう。二人の約束はその殆どが口頭だけで結ばれたものだ。時折書き置きを残すような事もあったが、互いにすぐ処分をするようにしている。
 そうして逢瀬は幾度となく繰り返していたが、立場のこともあり息苦しい思いもさせていた。あの頃の歳になれば周りでも恋人だなんだと話がよく出るようになるのだろうが、恐らく彼女は自分のことになれば口を噤んでしまうのだろう。
 時折ふと申し訳ないと思う事がままある。それは彼女に対して失礼である事は違いないが、しかし二人の間の歳の差を思うと若い彼女の手を引く自分がどうしようもなくひどい大人だと後ろめたい気になる。
 いくら考えた所で彼女の手を取ったのは自分の意思であり、あの時点で多少なりとも覚悟は決めたものだ。だが時折臆病になってしまうのは彼女の未来の輝かしさをありありと感じてしまうからなのだろう。いくら彼女からの有り余る想いを受け取ろうと、きっとその事実には囚われ続ける。
 恐らく彼女が傍に居る限りは、時折その遣瀬のない思いを何度もぶり返しながら過ごす事になるのだろう。それがまさか苦痛というような事はない。ただ、もし自分と恋人の関係を続けることで彼女のいくらかの可能性を潰してしまっているのかと思うと、それで良いのかと息苦しく思う事がある。
 だがそれも、結局は彼女の姿を見れば影を潜めてしまう。いつもそうだ、彼女の姿が無い所でばかりそうして不安は勝手に増長する。歳を取ると涙脆くなると言うが、あながちそれが嘘でない事を身を以て感じていた。
 昨夜の約束をすっぽかされ、千世の行方が分から無いまま昼を迎えた。今日は互いに休日だからというから彼女に家の鍵を渡していた筈だったのだが、彼女の身に何かあったのだろうかと微かな不安が過る。
 休日まで仕事を持ち越さない為、昨日は夜分まで雨乾堂で残務処理をしていた。千世も暫く執務室に残っていたようだったが、途中で気配が消えたから恐らく先に帰ったものだろうとばかり思っていた。
 だが帰宅してもその姿はなく、家に入った形跡すら無かった。深夜を過ぎても帰らない為、一度隊舎に戻り彼女の執務室を覗いたが勿論姿はない。流石に寮まで足を運ぶことは夜分とは言え人目もあるからと断念し、何か急用でも思い出したのだろうと昨晩は無理に納得をさせた。
 しかし朝を迎え、そして昼を越えようとしても千世の姿は一向に現れない。部屋で退屈な本を読んでいたものの、そわそわと落ち着かず結局死覇装に着替え隊舎へと向かった。隊舎に彼女が居なくとも、同じ寮に住まう清音からならば何か話が聞けるかも知れない。
 彼女がわざと約束を放るような真似をするわけが無い上、連絡も寄越さないとなるとやはりその身が心配になる。しかし隊舎が近づけば彼女の気配を感じ、不安は疑問に変わった。

「…千世、ここに居たのか」

 声掛けもせず襖を開け放つと、死覇装姿の千世が何らいつもと変わらない様子で机に向かっており、浮竹の姿へ目線を向けると驚いたように目を見開く。

「隊長…今日お休みだった筈では」
「ああ、いや…そうなんだが…千世も休みだったろう」
「ええ、そうなんですが…特に予定も無いので、残った仕事でも片付けようかと」

 千世の言葉に浮竹は首をかしげる。予定が無い、はずがない。彼女に鍵を渡したのは昨日の午前中だ。今日は先に帰っていてくれと、そう言って渡したはずだ。彼女はいつも通り嬉しそうに緩む口元にぎゅっと力を入れ、頷いてそれを確かに受け取った。
 まさか当日話した予定を忘れるような筈がない。しかしその表情は特にとぼけている訳でも嘘を吐いているようにも見えない。至っていつも通り変わらない様子だ。

「昨日の夜、一体何処に居たんだ」
「自室におりましたが…何かありましたか」

 襖を閉め、彼女の机へと近づく。訝しむような表情に一瞬、まさか千世によく似た誰かかと思った。書類の隙間に手を付き腰をかがめて彼女の顔をまじまじと見つめたが、いつもとその瞳の輝きも肌の白さも変わらない。ふっと漂った甘い何かの香りは、間違いなく彼女のものだ。
 ただ少しだけ違和感を感じるとすれば、近づくと彼女は少し身体を遠ざけその顔を真っ赤に染める。いつもであれば、確かに頬を染めはするがそこまで抵抗するような様子は無いはずだった。
 身体を固くしてじっと息を詰める千世を見つめていたが、彼女はうろうろと目線を泳がせ瞳を潤ませる。どこか懐かしい様子のように思えた。まだ恋人となった自覚もあまりないような頃、よくその恥じらうような表情を見たものだ。

「隊長…どうされたんですか」
「…千世
「…浮竹隊長…ち、近いです」

 鼻先が触れそうなほど近づいた時、彼女はとうとう立ち上がり焦ったように近くの書類を意味もなく持ち上げて整理するような様子を見せる。
 明確に拒んだようにも思えるその振る舞いに僅かながら動揺した。暫く机に手を付いたまま彼女の横顔を見ていたが、一つ息をつき身体を起こす。

「今日のこれからの予定は」
「今日は…休日ですし、この後少し次の授業の準備をしようかと思っていますが…どうかされましたか。先程から…」
「いや……何でも無い」

 何度か浮竹は頷き、そのまま部屋の襖へと歩を進めた。様子がおかしい事は確かだったが、まるで理由がわからないようではどうしようもない。
 まさか昨日の記憶が抜けているのかとも思ったが、頭を打った訳でも無いだろうに理由も無くそんな事が起きる筈ない。彼女自身、昨夜は自室に居たと言っている。恐らくそれは嘘ではない。つい今しがたまで、実際に机上に重なる書類を昨日と変わらず処理し続けている。
 記憶が無くなるなど、まさかそんな事が急に起こる筈があるまい。一瞬でもそう思った事を多少突飛すぎたかと反省をした。ある期間の記憶だけを丸々失うというのならばまだ分かるが、約束の記憶だけが抜け落ちるなどそんな妙な事は流石に無いだろう。
 浮竹の知らぬ所で約束すら忘れるような出来事があったのだろうと思う他ない。どう見ても彼女が嘘を吐いているようには見えないし、もしかすれば約束自体浮竹の夢の中での出来事だったのかも知れないとすら思うほどだ。
 はっきりと尋ねればよいものの、どうしてか憚られた。

「帰られるんですか?」
「ああ、休みだからな。千世も無理せず早めに上がりなさい。休みだろう」
「ええ、はい…ありがとうございます」

 千世はそう答え、はにかんだように笑う。やはり気のせいか。つい先程の喉に何かつかえるような違和感はただの気のせいだったのだろう。

「屋敷へ先に帰るよ」
「お屋敷に?珍しいですね、隊長がご自宅に帰られるなんて」
「ん?ああ…まあ、最近は忙しかったというのもあるが…」

 襖に手を掛けながらそう答える。確かに最近は雨乾堂で過ごすことが多くなっていたものの、しかし珍しいと言われるようなものでもあるまい。かみ合わせの悪い歯車が立てる耳障りな音のような不安感だ。
 仕事を終えたら来なさいと、その意味合いで伝えた言葉は恐らく届いていない。おかしいと思いながらも、何がおかしいのかはっきりとした証拠がない。こうも動揺をするならばあの時点で彼女にはっきりと尋ねておくべきだった。拭い去れない靄に険しい表情のまま早足で帰路を辿る。
 その時、背後から突然両肩に手を置かれ珍しく大きな声を上げた。
 驚いて振り返れば笠をかぶった京楽がつまらなそうな顔で立っている。考え事をしていたせいか、全く近づく気配に気づかなかった。

「何だその顔は」
「やっぱりおじさん相手じゃ反応、面白くないなあと思ってさ」
「勝手に驚かせておいて何だその言い草は…」

 まさに驚き損だった。京楽にじっとりとした視線を向ければ、やけにやらしい笑みを浮かべた。それが大抵ろくでもない事を言い出す前触れであることはよく知っている。

「昨日はお楽しみだったんだって?」
「お楽しみ…?何の話だ」
「やだね、とぼけちゃって。昨日千世ちゃん屋敷へ先に帰らせてたじゃない」
「…どうして京楽がそれを知ってるんだ」

 思わぬ言葉に浮竹はぽかんと京楽を見た。話を聞けば、昨日同じようにこの辺りで千世を見かけ声を掛けたのだという。この道は住宅街に通じており、その先には浮竹の屋敷も在る。となれば、昨日の夜帰宅の時点までは間違いなく約束を覚えていたのだろう。
 しかし、余計に混乱する。彼女が帰ったのは定時から少し経った頃、浮竹よりも二時間は早かった筈だ。その時点で覚えていた約束をまさか忘れるとは考えがたい。

「それで、千世はその時何と言ってた」
「行き先をはっきりは言わなかったけど、途中まで送ったよ。丁度この先の丁字路辺りまで」

 そうか、と浮竹は頷く。しかし彼女が帰った形跡はまるでなかった。彼の話が事実だとして、恐らく昨日彼女は屋敷まで辿り着いていない。

「昨日、千世は屋敷に帰っていなかった」
「あれ、そうなの?ボク暫く千世ちゃんの背中見送って、確かに浮竹の屋敷の方向かってたと思うんだけど」
「…ついさっき顔を合わせたが、まるで覚えてない。約束自体忘れた様子だよ」

 自然と軽い溜息が出る。約束をした事が自分の夢であったという方がまだ納得ができたものだ。京楽の話と重ね合わせれば何か見えてきそうなものだが、今の所検討もつかない。途中で姿を消したわけでもなく、勿論暴漢に襲われたという訳でもない。

千世ちゃん、他の事は覚えてるのかい」
「他の事…まあ、仕事をしていたくらいだからな。臨時講師の件も覚えているし、俺の事も忘れちゃいないよ」

 記憶喪失ともなれば、まさか残った仕事の整理をする為に出勤をする筈がないだろう。一瞬でもその可能性を浮竹も思い浮かべなかった訳ではないが、そうして矛盾が生じる。
 このまま此処で話を続けていたとして、彼女が約束を思い出すわけでもない。適当に切り上げ軽く手を挙げ浮竹が立ち去ろうとすると、彼はやけに神妙な面持ちで呼び止めた。
 そのまま語りだしたのは近頃瀞霊廷で噂をされているという人型虚の件だった。随分噂になっているとは言うが、浮竹が耳にしたのは今が初めてだ。今までに被害者と思われる死神は二名、そのどちらもある特定の記憶をまるで無くしてしまっているという。
 昏倒している所を発見されたが外傷は無く四番隊の検査でも何ら異常はない。唐突な話だとは思わなかったのは、その一件と千世の話に重なるものを感じたからだろう。

「何だ、つまりその虚に千世が襲われたという事か?」
「どうだろう。その虚を見かけたのは襲われた二人だけだからまだ調査にも至ってないらしい。でも、もし千世ちゃんが三人目って事なら調査に乗り出すかもしれないねえ」
「…だが」

 彼の話と状況を照らし合わせれば確かに矛盾はない。考えられるとするならば、京楽の目が離れた後その人型虚とやらに襲われ記憶を無くしたのだろう。千世に限って、と俄に信じがたい話ではあるが暫く感じていた違和感がすくような気がしているのは確かだ。
 今までの二名の被害者は愛猫、唯一の肉親の記憶をそれぞれ無くしているという。どちらも恐らくその者にとって大切な記憶だった。もし彼女が約束の記憶を奪われたとするならば、あの何時もと変わらぬ様子に説明がつく。
 しかし約束をした記憶だけを無くすというのは、その丸々記憶を失っている二件と比べてあまりに軽微なものだ。浮竹の存在を失っていたというのならばまだ分かるが、そうではなかった。となれば、あれは。距離を詰めた時に逃げ出した彼女の後ろ姿を思い出す。あの時の彼女の様子は、唯一何時も通りではないと明確な違和感を感じた。

「何か心当たりでもありそうだけど」
「…いや、そうでもない。俺は一旦帰るよ」
「良いの?総隊長に報告上げておこうか」
「良いよ、報告すれば俺と千世の事を明かさなきゃならんだろう。…大体、瀞霊廷に虚が棲み着く訳が無い。ただ頭でも打っただけかもしれないよ」
「まあ、そうかもしれないけど」

 溜息を吐いた京楽はじゃあ、と一言残しそのまま飲食街の方向へと立ち去った。このまま会話を続けた所で無駄だと早々に判断したのだろう。
 確かに京楽の言う噂とやらに千世の件は限りなく近いように思う。あの約束がすっぽりと抜けたような様子は記憶が無くなったという事であれば実に納得がゆく。だがそれを京楽の前で咄嗟に誤魔化したのは、あまり考えたくはない事実に薄っすらと勘付いていたからだ。
 屋敷までの道を歩きながら、やけにこの道のりが長いように今日は思えた。一向に収まらない胸騒ぎの中、目線の先で光を反射する何かを見つけ、近づくと浮竹は屈んでそれを手に取る。よく見覚えのある小さな髪留めだ。執務室に居る時、千世はよくこれで前髪を留めていた。
 立ち止まったまま暫くその髪留めを見つめる。昨夜から何度かこの場所を通っているが気づかなかった。彼女の手のひらで包めば隠れてしまうほどの小ぶりなものだ。恐らく千世が昨夜、何かの拍子に落としたものだろう。浮竹は手のひらに載せていたそれを包み握る。
 この広がる靄を晴らしたいのならば、ひとこと千世に尋ねれば済む。そう難しい話ではない。普段の彼女であれば、急に何ですかと笑って返すだろう。しかし隊舎に戻り彼女と再び顔を合わせるような気にはなれず、再び屋敷の方向へと歩を進めた。
 一人顰め面で考えるほど、単なる憶測が確信に変わってゆくようだった。彼女との会話で感じていた違和感は、確かに京楽に聞いた一件に酷似している。まるでその記憶だけが抜け落ちたかのような様子、それは一瞬過去に戻ったようにも感じた。
 職務上、彼女と顔を合わせる機会は多い。きっと近いうちに事実を突きつけられる時が来るのだろう。言いようのない不安を感じるのは確かだったが、しかしかと言ってそれを避ける術もない。記憶を奪うとされるその何者かが分からない以上、動く事も出来ない。大体、記憶を取り戻す事が出来るとも限らないだろう。
 と、なれば。浮竹はふと立ち止まり懐から巾着を取り出すと、左の手のひらで包んでいた髪留めを仕舞った。

2020/10/11