未必の恋-1

おはなし

 

 近頃瀞霊廷で実しやかに囁かれているという噂を聞いた。死神のふりをした虚がうろついているらしいなんて、誰かが面白半分に流したようにも思える噂だ。
 瀞霊廷において虚が万が一にでも入り込めばすぐさま十二番隊で捕捉され、速やかに討伐なり何なりされる筈だ。その噂を清音から聞かされた千世は良くある混乱目的の根も葉もないものだろうと笑った。
 しかし彼女が言うにはその虚の被害者が実際に居るのだという。一人は三番隊の一般隊士が寮の近くで、もう一人は十番隊の席官が隊舎近くでそれぞれ襲われ四番隊へ運ばれたらしい。
 怪我の状況を聞けばその両名とも外傷は何ら無く、翌日には復帰しているようだ。その二名によれば何かしらに襲われ気を失い、気づけば救護棟に運び込まれていたのだという。加害者については記憶がなく、ただ死神らしき姿だったという点で二人の証言が一致していた。

「まだ話は終わりじゃないの」
「何だか眉唾ものだけどな…」
「そのうちの一人が、飼っていた猫の記憶をすっかり無くしてるらしくて」

 はあ、と千世は頷く。目に入れても痛くない程飼い猫を可愛がっていたようだが、その一件以降猫など飼っていないと言い始め、ついにはその飼い猫を部屋から追い出してしまったのだという。
 見かねた同僚が猫を引き取ったようだが、丸っきり猫の事など生まれてこの方飼ったこともないかのような様子のままの今に至るようだ。不思議なことに飼い猫の事以外は全く何時も通り変わらないのだという。猫の記憶だけがすっかり抜け落ちたかのような様子が不気味だ。
 あまりに不自然な様子に同僚が四番隊での再検査を受けさせたものの、やはり何ら問題はなかったらしい。

「頭でも打ったとかじゃないの?」
「一時的な記憶喪失、みたいなね。私も最初はそう思ったんだけど、もう一人の被害者についても同じ状況みたいで」
「猫の記憶なくしてるの?」
「ちがうちがう、もう一人は妹の記憶が無くなってるんだって」
「妹…?」

 初めは単なる下らない噂話かと思っていたのだが、話が進むごとに妙に興味をそそられる。気になるでしょう、と清音は身を乗り出して千世に続きを話して聞かせる。
 そのもう一人の被害者は流魂街の出身で、入隊するまでは妹と二人で身を寄せ合って暮らしていたらしい。入隊以降は週末の度流魂街へと出掛け、妹と時間を過ごす事を楽しみに過ごしていたのだという。
 しかしその一件以降週末流魂街へ向かうことはなくなり、これまた不思議に思った同僚が尋ねると、どうやら妹の存在を欠片も覚えていなかったのだという。一人目と同じで、それ以外は異変がなく妹の記憶だけが抜け落ちている妙な状況のようだ。
 同じく四番隊で再検査となったが得に何の問題もなく、今後状況によっては技術開発局で詳細の検査が検討されているらしい。二件も同じような記憶喪失まがいの事が続けば、流石に不審だ。

「それ本当なのかなあ…」
「あんまり大っぴらにはなってないけどね」

 ふうん、と千世は頷いた。初めは眉唾ものだと思いながら耳を傾けていたものだが、しかしそれにしては話が具体的過ぎる。恐らく突き止めようと思えば被害者二名を特定する事だって出来るのだろう。
 もし記憶を奪う事がその人型虚の能力だというのならば大事だ。既に調査が始まっていてもおかしくない筈だが、清音の話によればまだ詳細の調査には至っていないのだという。同じような事件と症例が続いているとはいえ、まだたった二件というような認識なのだろうか。これ以上その不気味な事件の被害者が増えることは望まないが、しかしこのまま放置され続けるというのも気味が悪い。
 いずれにしろあまり関わりたくない事件だ。清音は姉が作ってくれたという弁当の空箱を閉じて立ち上がる。昼食を取り損ねたから場所を貸して欲しいと執務室に彼女が現れてもう一時間がいつの間にやら経っていた。
 あまり噂話に敏感な方ではないから、こうして時折清音から聞かされる話には驚かされる事が多い。しかしどれもこれもやはり噂止まりで、その後どうなったかなどは聞いたこともなければすっかりその話を忘れていることがほとんどだ。
 今回の話に関しては噂、という割には話が具体的だ。交友関係の広い彼女の事だから、詳しい者から話を聞いたのだろう。噂と言っておけば出どころを聞かれた所で暈す事が出来る。

「じゃあ、お邪魔しました」
「いいえ、面白い話ありがとう」
「面白かったなら良かったけど、千世さんも気をつけてね」
「気をつけようが無いような気もするけど」
「兎に角、怪しい人には近づかない事だよ!あたしも気をつけよっと」

 あっと去り際に振り返り、これ噂だから、と最後念を押すように彼女は言った。
 だが確かに清音の言う通り怪しい姿には近づかないに限る。それは別に今回に限った話ではない。瀞霊廷とは言ってもこれだけの組織となれば得体の知れない者もいる。
 再び一人になった執務室で積み上がった報告書を数枚手に取った。毎度あまり代わり映えのない報告を読みながら、今さっき聞いたばかりの話を思い出す。二名の被害者の様子からすると、何かしらの記憶を奪われるようだ。丸っきりその記憶だけがすっかり抜け落ちるというのは果たしてどのような気分なのだろう。
 その時の心情も何も、記憶自体が抜け落ちてしまっていれば特に普段と変わることは無いのだろうか。その消えた記憶以外については何ら異常がないらしいと清音が言っていた。
 周囲が認識している事実が自分の中で突然消え去るというのは、到底想像をし難い話だ。実際に記憶を失ったことが無いという事もあって、実体を持たず脳内だけで保持されるものを何らかの方法で消されるという事があまり現実味を帯びない。
 もし清音の言う話が本当だとして、自分にとって当たり前だった何かが知らぬうちに消えるというのは、きっとその恐怖すら感じないのだろう。もしかすれば今この時点で既に何かの記憶が消えている可能性だってあり得る。もちろん記憶が消えていることすら知らないから気づかない。もしも周囲が知らないような秘めた記憶が失われたならば、それは永遠に何処かへ消えてしまうのだろうか。
 筆を持ったまま、嫌なことを考えてしまったと顔を顰める。こうして何も変わらないと思っている日々は、知らぬうちに何か失われていた日々なのかもしれないと、そんな事を考えるほど下手な怪談噺よりずっと恐ろしい。先程清音に「面白い話」なんて言ったことを後悔する。こうキリの無い話はあまり深く考え無い方がきっと良いのだろうと、振り払うように頭を横に振った。

「…もうこんな時間か」

 定時の鐘が鳴って暫く、千世は時計を見て手元の書類を纏める。
 明日が休みということもあり、今日の夜は浮竹の私邸へ帰る約束をしていた。とは言ってもまだ浮竹の気配を雨乾堂に感じる。定時を過ぎているとはいえまだ多くの者が隊舎に残っている中、様子を見にわざわざ離れの雨乾堂へ向かうというのもあまり気が進まない。
 昼間の様子ではあまり立て込んでいるようでは無かったが、急な仕事でも増えたのだろうか。四十六室が機能をしていない現在、山本総隊長へと権限が下りてきている。それに伴い通常は一番隊で処理しているような業務を各隊長が請け負っているようだ。
 機密事項も含まれる為かあまり詳しい話は聞いていない。ただ少しばかり疲れが見える事がこの所多くなり心配している。今日も早めに上がるようにすると先日口では言ってはいたが、果たしてどうか分からない。
 どちらにしてもこのまま残業を続ける気にはならない。屋敷の鍵は渡されているから先に帰り風呂でも用意をして待っていれば良いだろう。
 そうして少し悩んだものの手荷物を纏め、部屋の灯りを消す。部屋の襖を締めそのまま隊舎を後にした。
 帰宅時間を過ぎた通りは人通りがまばらになっている。遠くに見える飲食店街から賑やかな声が聞こえ、思わず足を止めた。この道を通り過ぎれば昼間でもひっそりとした住宅地となる。
 妙な時に夕方の清音との会話を思い出した。人型の虚と言うが、記憶を奪うなどと言われると虚のようにも死神のようにも思えない。ただ得体の知れない幽霊や妖怪のような恐ろしさがあるものだ。
 灯りといえば月明かりと屋敷から漏れる程度の薄暗さの中千世は進む。余計なことを思い出してしまったものだ。斬魄刀も下げず、万が一その得体の知れないものと出会いでもした時、咄嗟に対処できる気がしない。
 
「わっ」
「ぎゃあっ!」

 突然両肩へ置かれた手に千世は住宅街に響き渡るほどの悲鳴を上げる。身体を固くしたまま暫く立ち尽くしていると、無精髭の男が顔を覗き込んだ。吹き出すような冷や汗をかきながら、千世は怒ったような視線を京楽に向ける。

「ごめんごめん、そんな驚くとは思わなくって」
「止めて下さい…怖い話聞いたばっかりだったんですから…」

 先程飛び跳ねた心臓を落ち着けるように、一つ大きく息を吐く。薄暗い道で急に肩を叩くとは案外悪趣味だ。
 こんな所でどうしたのかと尋ねると、居酒屋で一杯引っ掛けた帰り道なのだという。確かにあの歓楽街から京楽の屋敷までとなれば丁度この道を通るはずだ。気分の良さそうな彼は少し口角を上げて千世を見る。

「寮は逆だけど、どこに帰るんだい」
「お分かりのくせに…」
「敢えて聞きたくなっちゃうのよ」

 そう言って笑う彼に千世は一つため息をつく。途中まで、と言い歩き出したその横に着いて再び歩を進める千世は、僅かだがほっとする。浮竹の屋敷までの帰り道はいつもひたすら人と出会わない事を願っていたが、今日に限っては有り難く感じるものだ。
 幽霊や妖怪よりも恐ろしいものなんてよっぽど経験してきたというのに、記憶を奪われるという全く想像の出来ない恐怖に怯えているのだろう。今自分の中に記憶される何もかもを失いたくはないと思うのはきっと誰もが同じだ。一つでも欠けてしまうというのは、やはり恐ろしい。

「さっき言ってた怖い話って?」
「ああ…それは私も今日聞いたばかりなのですが、人型の虚が瀞霊廷に紛れ込んでいると…」

 言い終えた後に、あ、と口を閉じた。清音からあまり広めないでと言われていたことを思い出した。確かに彼女の話はまるでその場に居合わせたかのように詳細であったから、あまりそれを口外されるのは困るのだろう。しかしすぐに京楽はああ、と思い当たる節があるように声を漏らした。

「人型の虚…記憶を消すってやつかい」
「なんだ、ご存知だったんですか」
「たまたま噂話をね」

 隊長位である彼が噂だというのだから、やはりまだ正式に事件としては把握されていないという事なのだろう。

「…その、被害者の方は本当に記憶を消されてしまっているんでしょうか」
「分かんないねえ。ただ、そのどちらも襲われた時に頭を打ってるって聞いたよ。その衝撃による一時的な記憶喪失じゃないかって話もある」

 昏倒していた所を発見されたというのだから、確かに頭を打って一時的な記憶喪失というのは納得がいく。しかし見事に特定の記憶だけが消えるという部分が妙だ。京楽も噂止まりで詳細は知らないのか、ふわりとその話は終わった。
 初めは噂話を他人事のように聞いていたものだが、自分事に置き換えると落ち着かない。暗い夜道を歩いていると余計にそう感じる。斬魄刀を持たない無防備なこの状況を襲われ、咄嗟に対応できるものか分からない。
 丁字路へ差し掛かり、千世は身体を京楽とは違う方へと向けた。

「送っていこうか」
「いえ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「さっき驚かせちゃったから、そのお詫びと思ったんだけど」

 平気です、と千世は笑って頭を下げる。この先に伸びる道の薄暗さを見ると、断ったことを多少後悔するがそう遠くはない。屋敷にたどり着いてしまえばあとは部屋という部屋の灯りを付ければ多少は気も紛れるだろう。
 京楽に背を見送られながらまた一人歩き出す。徐々に目的地へと近づくその時、あっと思い出し立ち止まると懐を漁った。

「…あれ……鍵…」

 着物の袖も手荷物もすべてひっくり返したが家の鍵がない。恐らく執務室の引き出しの中だ。昼前に彼から預かったものを引き出しに仕舞いそのままにしていた。部屋を出る時に色々と考えていたせいですっかり忘れていた。
 屋敷に入り込むだけならば塀を乗り越えるだけで一瞬だが、しかし彼からわざわざ預かった鍵を隊舎に置きっぱなしというのはあまり褒められたものではない。
 はあ、と千世は一つ息を吐くともと来た道を渋々引き返す。折角途中まで京楽の付添があったというのに、また一人でこの道を歩かなくてはならないのか。屋根の上を伝ってというのもまだ目立ってしまうような時間帯だ。もう少し夜が更ければそういった事も出来るのだが。
 俯き気味に薄暗い道を一人早足で進みながら、意に反して遠ざかる目的地から後ろ髪を引かれる思いだ。一日ももう終わるというのに運が悪い。いや、一日の終りで良かったと思うべきだろうか。
 しかし運の悪い出来事というのはどうしてか連鎖するものと相場が決まっている。あまり余計な事をしないよう、さっさと鍵を取り寄り道せずに戻るのが一番だ。薄暗い夜道、千世はまた一つ足を早めた。


2020/10/07