月見

2021年6月26日
おはなし

 

 終業後に彼の執務室へと呼ばれていた。偶然廊下でのすれ違いざまだったから、理由までは聞けずどこかぼんやりとした思いのまま過ごすこととなった。終業後、とわざわざ言うからには業務関係なく個人的な呼び出しだろう。
 しかし彼の執務室へとは珍しい。勤務中も離れの雨乾堂に居る時間が多く、隊舎内の執務室に居る事というのはあまり見ない。よっぽど切羽詰まっているような時期は執務室で籠もっているものだが、そういう訳でも無いだろう。何より今日は一日雨乾堂で過ごしているはずだ。
 終業後にわざわざ彼の執務室で集合するのが不可解で、何か嫌な話でもされるのだろうかと勘ぐる。廊下で呼び止められた時は何時も通りの柔らかい笑みだったから、まさかそんな筈は無いとは思うのだが。
 終業の鐘が鳴り、千世ははっと目線を上げる。考え込みながらひたすら書類と見つめ合っていた。まだぼんやりと考えながら手元の書類を軽く纏める。明日も出勤だから、多少散らかっていても問題はないだろう。
 部屋の明かりを消し、廊下へと出る。終業直後ということもあり多少人が多かったが、丁度流れの途絶えた隙を見計らって彼の執務室の襖を僅かに開け身体をねじ込んだ。
 部屋の灯りは無く、まだ早かったかと千世は行灯を探して見回す。しかし間もなく、縁側の方から名前を呼ばれ飛び上がった。

「悪い、驚かせたか」
「部屋の灯りくらい、つけておいてください…」
「ああ、灯りは要らないよ。おいで」

 行灯に近寄った所を呼び止められ、手招きされる。不思議に思いながらも手荷物を適当な場所に置き、縁側へと近づいた。浮竹の腰掛ける横には皿の上に団子が積み重ねられ、一輪挿しの簡単な陶器の花瓶にすすきが刺さっている。
 その光景を見て、ああ、と空を見上げた。僅かに薄い雲が伸びる合間に、真円の月が昇っている。どうりで庭のほうが明るく見えた。おいで、とまた声を掛けられ彼に促されてその隣へと腰を下ろす。
 確かにこの明るさであれば灯りは要らないなと、再び見上げながら納得する。

「雨乾堂より、ここからの方が良く見えるんだよ」
「成程、だからわざわざ此方に」

 浮竹はどこか得意げに頷く。団子をわざわざ購入し、すすきまでしっかり用意する様子が微笑ましく口元が緩んだ。月見をしようなど一言も言っていなかった所を見ると思いつきか、もしくは突然呼んで驚かせようとでも思ったのだろうか。
 そうだ、と呟いた彼は盃を取り出し千世へと手渡す。

「月見酒だよ、気が利くだろう」
「はい、丁度呑みたいと思っていたんです」

 図々しくそう言えば、彼は笑いながらその盃へと酒を流し込む。浮竹が手酌になった事を多少申し訳ないと思いながらも、二人の盃が満たされたのを見届けると一口含む。
 思えばこうして二人きりで酒を呑む機会というのはあまりなかった。虫の音に混じり帰宅で賑わう様子が微かに塀の外から聞こえ、それがより一層この空間を特別なものだと認識させる。互いに空になった器を再び千世が満たし、また一口を煽る。
 中秋の名月を眺めながらの月見酒を、二人きりで楽しむことなど滅多に無い事だ。団子の乗った皿を差し出され、千世は一つを手に取る。団子を酒のあてにしたことは無かったが、中々団子の甘さが際立って癖になりそうなものだ。

「また来年もこうして眺められると良いんだが」
「もう来年の話ですか?早すぎますよ、まだ今年が三ヶ月近くもあるのに」
「俺くらいになると、三ヶ月なんて千世にとっての三分程度の感覚だよ」
「流石にそれは言い過ぎです。だって、そんな事言ったら隊長と出会ってまだ一時間も経ってないって事じゃないですか」

 ああそうか、と浮竹は笑う。千世の倍は生きている彼からすれば、時の流れの感じ方というのは千世と違うものなのだろうが、流石に三ヶ月が三分というのはあまりに短すぎる。ふたつ目の団子を口に含みながら、横の彼を見る。

千世と過ごすようになってからは、余計に早く感じるんだ」
「そうなんですか?」
「ああ、毎日飽きないからだろうな。いつも思う相手が居るというのは、飽きないものだよ」

 月を見上げたまま、何とない様子でそう言う横顔を見つめながら大きく脈打った心臓を落ち着けるように細く長く息を吐き出す。まだ大して酒を呑んでいないというのに、急にどうしたものかとつい今しがたの言葉をもう一度頭の中で繰り返して頬を染めた。
 時折、恥ずかしげもなくそういう言葉を漏らすから気が抜けない。

千世はどうなんだ?」
「わ、私ですか」

 突然向けられた視線に、千世はたじろぐ。欠片になっていた団子を口に放り、もぐもぐと咀嚼しながら逃げるように視線を月へと向けた。

「私は、逆かもしれません」
「逆?」
「隊長と過ごす時間が待ち遠しくて、毎日が長いんです」

 なんて、と千世は言い終えた後茶化したように笑った。彼の視線が横顔に刺さるようで痛い。ちらっと目線だけで確認をすれば、穴が空くほど見つめられているのが分かった。盃を持ち上げたまま固まった様子が流石に気になり、とうとう千世はなんですか、と浮竹を見る。
 目線がかち合うと、彼はそのまま何も言わず目を細め微笑んだ。聞いておきながら何の感想も言わない浮竹の表情に、千世は自然と口を尖らせる。その唇を、優しく攫われた。暫し重なった後、名残惜しそうに離れる。

「酔ってますか?」
「まさか。素面だよ」

 そう笑う彼の頬が僅かに赤らんで見えるのは気のせいだろうか。仄暗い月明かりではあまり分からない。いや、分からなくて良かった。自分の頬の熱を手のひらで計るようにしながら、千世はふうと息を吐く。
 こんなに穏やかな夜ならばずっと夜でも良いなんて浮ついたような事をふと考えたが、さすがに馬鹿な考えだと一人笑って秋の穏やかな夜風に乗せて消した。

2020/09/30