曇りのち曇り

おはなし

 

「現世に?」
「はい、ですから…日南田殿にもご同行頂けないかと…」
「それは分かったんだけど…どうして私を…」
「総隊長殿からは信頼できる人選をと申し遣っておりまして、それならばと」

 突然の話に千世は目を丸くする。
 現世で藍染の動きが活発化し始めた為、特別小隊を編成して現世へ向かうことが決定されたというのだ。現世の死神代行とも親しく空座町に詳しいルキアが選ばれ、どうやら彼女を中心に編成されるらしい。
 既に六番隊の阿散井と、十一番隊の斑目が加わっている事をルキアから今しがた聞いた。

「いや…でも私阿散井君とか斑目さんとあんまり喋ったことも無いし…少し怖いし…」
「そこはさして問題ではありません!殿に是非食べて頂きたい現世の菓子もありますし…」
「お菓子…」
「あっ、い、いえ!それだけでは有りません、浮竹隊長にもお話はしておりまして、日南田殿ならば十分に力を発揮して下さるに違いないと…」

 人の口から彼の名前が出ると心臓が跳ねる癖を直したいのだが、なかなかうまく行かないものだ。まさか既に浮竹にまで話が通って居るとは思わなかった。彼が頷いているというのならば、後は千世次第なのだろう。

「でも、霊術院の授業もあるから…」
「それに関しては、何とかして下さると総隊長より聞いております」
「そ、そうなの…?でもちょっと話がちょっと急すぎて、少し考えさせて欲しい」

 随分用意周到なことだと千世は感心する。現世で今何が起こっているかの詳細は聞いていないが、恐らく急を要するのだろう。臨時講師の件まで何とかすると総隊長から言わせる辺りに、その様子が伺える。
 正直な気持ちでは彼女からの申し出は嬉しかった。暫くは実戦からも離れ、机仕事や授業など自分が護廷隊である事をすっかり忘れかけるような毎日を過ごしていた。時折稽古場に顔を出し身体と斬魄刀が鈍らないようにはしていたが、実戦と比べれば勿論劣る。
 しかしこうも急な召集ともあれば危険が伴う任務であるというのは想像に難くない。彼女の話ではもう少しばかり人員を集めて現世に向かうようだ。力になりたいと思うが、しかしあまりに話が急過ぎる。つい今しがたも次の授業の準備をしていた所だった。

「大変急なのですが…今日中にお答えを頂きたいのです」
「ああ…そうなんだ、随分急いでるみたいだね」
「本当はもう少し早くにお願いをしたかったのですが…申し訳有りません」
「いや、大丈夫。今日中にまた連絡します」

 千世が一つ頷くと、ルキアは深く頭を下げて執務室を後にする。彼女が無事に復帰をして暫く経つが、回復の速度は驚くべきものだった。肩慣らしにと何度か任務にも出ているが、見事というまでの実力でこなしている。
 以前から席官同等、いやそれ以上の実力を持っていながらも決して彼女が席官へ上がることは無かった。不思議に思う者も多かったが、彼女の義兄である朽木白哉が手を回していると噂されていた。しかしあの様子を見れば、いくらその権限で阻まれようと近い将来席官入りは確実だろう。
 清音たちが済ませてくれていた書類を軽く確認しながら、千世はぼうっと考える。もし現世へ向かうとして、その間にも溜まるこの書類たちを清音と小椿へ頼む事になるのだろう。
 恐らく二人は慣れているし難なくこなして、隊は滞りなく回る。つい先日松本にも言われたばかりだった。誰かが抜ければその穴は他の誰かが埋める。それが組織なのだと、言われてみれば確かにその通りだ。
 だが分かってはいても、自分の抜けた場所をあっさりと埋められるというのはやはり何処か寂しいものがある。だがそれは単なる感情論であって、護廷隊としてはいち副隊長の思いなど関係のないことだ。
 その時、軽く襖を叩く音がした。今日は朝からやけに来客が多い。どうぞ、と声を掛けるとまさか現れるとは思わなかった姿に、思わず千世は立ち上がる。

「た、隊長…あの、先日はすみませんでした…」
「ああ、いや気にしないで良い」

 つい先日松本と十番隊舎で呑んだ日の途中から記憶がない。ただ、気付くと浮竹の屋敷の寝室で寝かされていた。また失態を犯してしまったのだろうと容易に想像がついたが、しかしどういう訳であの屋敷まで運ばれたのか全く分からなかった。
 おそらく浮竹に運ばれたのだろうが、運ばれた経緯が全くわからない。呑んでいたのは十番隊舎の日番谷の執務室だ。彼が現れるような理由が分からない。
 しかもご丁寧にも千世が屋敷に置いていた寝間着に着替えさせられていた。隣の布団で眠る彼を起こして訳を聞ける筈もなく、鈍い頭痛に顔を歪めながらその明け方目を瞑った。
 次に目が覚めるともう昼過ぎで勿論彼の姿は無く、その日は休日を自室に帰り過ごした。それ以来、約一日ぶりに顔を合わせる。

「朽木さんから聞きました」
「現世任務の件か。勿論了承したんだろう」
「ああいえ…まだ迷っておりまして」

 千世の言葉に、浮竹は珍しいなと目を丸くする。

「久しぶりの現世任務だ」
「それは分かっているのですが…授業もありますし」
「総隊長殿が手を回すと聞いているが」
「それも分かっているのですが…」

 千世はなんともうまく言えずに口ごもる。確かに久しぶりに舞い込んだ任務の打診に内心浮足立つような気持ちだった。だというのに、どうしてかすぐに頷くことを躊躇ったのは何か胸に突っかかるようなものがあったからだ。
 隊を離れる事への不安があるわけではない。業務は三席の二名が居れば十分に回るし、松本の言う通り千世が一人が少し抜けた所でどうという事は無い。それに関しては自分の中である程度咀嚼できているつもりだ。

「何か気にかかる事があるのか」
「…一番は講師の件です。授業らしいものをようやく出来ていますし、生徒とも少しずつですが話すようになってきましたので」
「そうかい。確かに前に比べて、最近は元気そうに見えていたよ」

 少し照れたように千世は笑う。初めはあれだけ疲れ果てていたものだが、授業の要領を掴み始めてからは余裕を持って過ごすことが出来ている。
 年が比較的近いお陰か、距離も近く生徒とは良い関係を築けていた。居眠りをする生徒は減り、授業後には質問を受ける事も最近は増えたように思う。単なる千世の気の所為で勿論構わないのだが、新たな居場所が出来たかのような感覚がどこか嫌ではなかった。
 確かに業務も心労も以前に比べれば増えたものの、それ以上に新たに得る知識や経験が心地よく感じていた。しかしそれは護廷隊の一副隊長として身命を賭する姿から多少離れた位置にあるものだ。
 だからだろうか、言いようのない雑多に混じり合った感情をうまく言葉にすることが出来ない。戸惑いながらも、今ある状況に馴染みそれを心地よく感じている事は確かだった。

「まだ気がかりなことがあるんだろう」
「…いや…ええと…」

 何故もう一つの理由の存在を彼が勘付いたのかは分からないが、図星である以上誤魔化す事は難しい。

「…もう一つは、その…呆れられると思います」
「呆れることなんて無い。言ってみなさい」

 浮竹に促され、千世は迷ったように目線をうろうろと移動させる。

「その…隊長のお傍に居たいと…大変、自分本位で勝手な話なのですが…」

 徐々に消え入りそうな声で言う千世の言葉に、そうかと浮竹は笑う。
 口に出した事をやはり後悔した。あまりに身勝手な私情が十割を占める言葉だ。彼女に向けられた信頼を無下にするような思いだろう。
 今回の件に関してはあくまで依頼だった。もちろんそれが命令であれば、千世は勇んで向かうことだろう。彼女の力になりたいと思う反面、選択権があるならば彼の隣に居る事の出来る場所を選んでしまう。
 しかしそれは間違いなく言い逃れの出来ない身勝手な感情そのものであり、口に出すなどよっぽどの恥知らずだろう。だが覆水盆に返らず、伝えた言葉を今更撤回することは出来ない。

「…呆れましたか」
「呆れる訳無いさ。今回は命令でもない、君の思うように決めると良い。俺はその気持ちを有り難く受け取るよ」

 優しい言葉だと思う。千世の言葉を過剰に肯定する訳でも、突き放すわけでもないただ受け止めるだけの言葉だ。本人が決めた事であれば、彼は決してそれを否定することはない。そう至った道程を慮り、選択の正誤は無いのだと言うかのようにゆっくりと瞬きをした。

「私が命を落とす時は、隊長のお傍でと決めています」
「急に縁起でも無い事を言うなよ…」
「思っているだけですから」

 瀞霊廷だけは安全であると過去に千世も思っていた。しかし日々何が起こってもおかしくない今、もし自分が離れている間彼の身に何かあればそれは生涯の後悔となるだろう。その逆においてもそうだ。出来るならばその盾となって死にたいと思う。
 それがいつの話になるか分からない。もしかすれば、どちらかが先に病に伏すかもしれない。自然と将来に思いを馳せることが多くなったのは、彼から余りある思いを受け取る事が事に増えたからなのだろう。
 だがただの軽口だ。千世が茶化すように笑ったが、しかし浮竹はやけに神妙な面持ちで視線を向ける。

「思うのは自由だが、俺より先に死ねるとは思うな」

 その言葉に、寸刻ばかり周りの空気が止まったかのように感じた。小さく口を開いたままその真っ直ぐな視線をじっと見返していた。
 胸がどくどくと鳴っている。今までのどんな優しい抱擁や口づけよりも強く揺さぶられる言葉に、何も答える事が出来ず静かに呼吸を繰り返す。
 その言葉の意味を尋ねようにも、きっとその言葉通りの意味でしか無いのだろう。彼の眉間に寄っていた皺が緩み、千世はふっと体の力を抜く。自然と息を潜めていた。

「さ、早めに朽木へ伝えたほうが良いんじゃないか。今後の人員編成にも関わるだろう」
「…ええ、はい。そうします」

 千世は立ち上がりながら徐々に心拍が落ち着きを取り戻してゆくのを感じる。先程の緊張に似たあの揺さぶられるような感覚は何だったのだろうか。いつも通りに微笑む姿を見ると、彼の先刻の言葉がまるで夢の中の出来事のように思える。
 時折その感情の中身を割って覗いてみたいと強く思う。不可能なことは分かっているが、手の届かないものを求めたくなるというのは人の欲深い習性なのだろう。千世は力の抜けていた汗の滲む手のひらをぎゅうと握りしめた。

 

曇りのち曇り
2020/08/26