手折れないもの-後日談1

おはなし

 

 千世が上ずった声で呼びかけたあと、入りなさいと襖の向こうから柔らかな声が返る。あまり力の入らない手でそっと開き顔を覗かせれば、急須から茶を注ぐ浮竹の姿が目に入った。

「どうした、今日は休みだった覚えがあるが」
「はい、そうだったんですが…小椿さんと清音さんからの引き継ぎが間に合わず、午前だけ出勤と思いまして」
「先日も同じような事を言っていた気がするが…それにもう午後をとっくに回っているよ」

 心配そうに眉根を寄せた浮竹に、千世は少し視線をずらして笑う。彼の言う通り、先日の休日も同じような理由で急遽出勤としていた。
 三席の二人が今までに負っていた仕事の数々を順番に引き継いでいるものの、あまり机仕事に慣れていない千世にとって目が回るような日々だった。教えられる業務をひたすら帳面に記しながら頭へ叩き込んでいるものの、近頃は早くも限界を感じている。
 三席の二名は事務仕事も業務の一つではあったものの同等に出撃要請も多く、後回しにしても構わないような書類は山のように放置されていた。副官執務室の至る場所に積み上がった未処理の報告書を初めて目にした時は、一瞬とはいえ副隊長への昇進を後悔をしたものだ。
 副官不在の点でどうやら一番隊からは書類の提出期限に関しても多少の目こぼしを頂いていたようだが、千世が就任した今後はそうもいかないようで恐らくこの報告書に関しても随時提出を求められるだろうと小椿は笑って言っていた。

「でも、昨日は午後に半休を取りましたので」
「とは言え、明日からまた暫く予定が立て込んでいたろう」
「それは、何とかなります。…多分」

 疲れは感じていたが、特に不服を感じている訳ではない。三月の頭には完全に業務の引き継ぎを終え、新体制へと持っていかなければならない。現在の進捗状況は清音にとって心許ないようで、焦らなくて良いよと千世には言いながらも彼女自身が焦っている様子が手にとるように分かる。
 三席の二名ともが出撃などの通常業務の合間を縫って引き継ぎをしてくれているのが心苦しく、今日も朝目が覚めて結局出勤をしてしまった。自室に居ても落ち着かないというのもあったが、隊舎に顔を出さなくてはならない予定があった。
 軽い説教の予感がした千世は、隊長、と彼の溜息を遮るように呼ぶ。手にしていた紙袋から小さめの桐箱を取り出すとそっと畳の上を滑らせ彼の方へと差し出した。

「これは?」
「昨日、乱菊さんの自宅でおはぎを作ったんです」
「なるほど、そのお裾分けという訳かい」
「ああ、ええと…何と言いますか…」

 何と答えればよいか分からず千世は曖昧な返事をした。好物にぱっと顔を明るくさせた浮竹は、箱を手に取るとそっと蓋を開ける。同じものばかりでは面白みがないだろうと桐箱の中には味違いを四つ入れていた。
 満足気に少し見つめたのち、顔を上げありがとうと浮竹は笑う。それ以上に何も無い様子に、自然と千世はがっくりとするような、安心するような妙な感情であった。
 というのもこの日に菓子を渡すというのはどうやら現世で近頃流行りだした行事のようで、バレンタイデーと言うらしい。千世も勿論松本に聞くまではバレンタインのバの字も知らなかった。
 まさか知っていますかとは聞けない。どんな行事なのかと聞かれれば、さて何と答えれば良いか分からない。松本からは女性が男性にチョコレートを贈り好意を伝える行事なのだと聞いたが、それは互いにバレンタインという行事を認知しているから成り立つのであってそれは浮竹相手には絶望的だろう。それに、彼へ思いを伝える事は望んでいない。
 だから松本からチョコレート菓子づくりに誘われた時は自分は手伝うだけで良いと言っていた。だが昨日の午後、仕事上がりに彼女の家に訪ねてみればもち米やらあんこなど菓子作りとは言えない材料が並んでいて、何かと聞けば千世の分だという。
 どこからか浮竹の好物を聞いてきたようで、思い立って買い足してきたと笑う彼女の好意を無下にする事は出来ず、甘いチョコレートの香りが漂う彼女の家の中でもち米を蒸していた。
 チョコレートを贈る行事におはぎで良いのかと困惑して彼女に聞いたが、甘ければ何でもいいのよと笑って答えられ、そんなものなのかと更に困惑したものだ。

「松本君がおはぎというのは中々珍しい組み合わせだな」
「はい、仰る通りで乱菊さんは洋菓子を作っていましたよ。私がおはぎを」
「そうなのか?でもどうしたんだ、彼岸でも無いだろう」

 浮竹は立ち上がると、部屋の隅にある茶箪笥の戸棚を開く。何やらごそごそとすると、漆塗りの銘々皿と湯呑を手にしてまた座布団の上へと戻った。

「丁度茶も入れててな、千世も一緒に食べないか」
「一緒にですか」
「折角の戴き物だが、一人で食うより二人のほうが倍うまいだろう」

 そう言いながら桐箱の蓋を開くと、適当な一つを箸で取り出し皿の上へと載せた。店で売っているようなものと比べれば多少形がいびつだが、良い皿の上へ載ると和菓子の体裁を保っておりなかなかそれらしく見える。
 昨日一つは味見をしていたから味に問題がないのは分かっているが、どうにも自分で作った物を二人で食すというのは妙に気恥ずかしかった。うまいと頬をほころばせる様子を上目でちらと見ながら、どこか気まずい思いで茶をすする。

「どうだ、副隊長へ上がって」
「まだ引き継ぎで手一杯で…実感は全く無いです」
「暫くはそうなるだろうな…申し訳ないと思ってるよ」
「謝られないで下さい、大変ですが楽しんでいますので」

 まだ昇進となって一週間と少しが過ぎたばかりだからというのもあるだろうが、特にこれといった実感は無い。ただ腕に巻いた副官証の重みが時折その事実を思い出させてはっとする。
 隊花である待雪草の花言葉は希望だと聞いた事がある。それを知ったのはまだ入隊したばかりの頃で、誰から教えられたのかというのはもう記憶が定かではない。ただこの隊になんと相応しい花言葉だろうかと、やけに誇らしいように思ったことをよく覚えていた。
 今その隊花を身につけるようになり、その花言葉に果たして相応しいだろうかと時折思う。あの時の誇らしさは、間違いなく浮竹や海燕の背を見て感じたものだった。自分が果たして、と考えた時恐らく海燕に及ぶことは永劫無いだろうと思う。
 しかし前ほど気が滅入るような思いをしないのは、誰と比べる事も思うこともしなくて良いという浮竹の言葉を思い出すからだった。望まれているのは海燕の抜けた穴を埋める事ではなく、千世千世として副隊長としての責務を果たすことだ。
 彼に一生及ばずとも、彼と護廷隊から選ばれたものとしてこの副官証を身に着けていれば良いのだと今は思う。
 胡麻衣のおはぎを口に含みながら、二つ目を手にした浮竹の姿に自然と口元が緩む。話を聞けば今日はまだ昼を取っていなかったというから、ちょうどよい腹の足しになったようだ。

「…だが、今日はやけに菓子を受け取る気がするな」
「…そうなんですか?」
「ああ、ほら。この箱と包みと、雨乾堂にもいくつか置いてある」

 浮竹の言葉に、緩んでいた口元が固まる。ほら、と見せられた机上にはいくつか箱が重なり、紙袋も複数目に入る。複数受け取っておきながらも誰からもバレンタインという話を聞かされていないのか、頭に疑問符を浮かべた様子だ。
 まさか此処まで流行を迎えているとは思わなかった。松本の話によればバレンタインという現世の行事が瀞霊廷へと入ってきたのは数年前からだという。横文字の行事が馴染まず知名度は低かったが、「女がお菓子作って気になる男に渡すなんてなんか可愛い」から松本は初期から二月十四日の為に洋菓子を作っていたようだ。
 だが特に気になる男が居るわけでもないから適当に世話になっている相手に配り、殆どは自分で食べていたのだという。確かに千世も受け取ったことがあったと思い出していた。

「最近は女性の間で菓子作りでも流行っているのか」
「い、いやあ…どうでしょう…」
「だが洋菓子ばかりでな、それも美味いんだが…俺のような年寄りは和菓子のほうが安心するよ」

 松本の草の根運動が実を結んだのかは分からないが、その数を見るに密かに女性の間でバレンタインが広まっている事は確かだ。果たしてどのような思いを胸に浮竹へ渡したかは分からないが、多少質の良さそうな紙袋や箱を見ると胸がそわそわと落ち着かない。
 松本のようにお世話になっているからと渡している者も居るだろうが、しかし全てが全てそうではないだろう。秘めたる思いを菓子に込め、震える手で渡した者もいるかも知れない。それは千世は勿論浮竹も預かり知らない所だろうが、そう勝手に膨らむ想像を前に千世は自然と顔が険しくなるのを感じていた。
 浮竹はおはぎを喜んでくれているようだが、その洒落た箱を見るほどにおはぎを贈った事がこっ恥ずかしくなる。照れくさいとは違う、自分の彼への思いが愚直に可視化されたようで、それがどうにも恥ずかしかった。これが小洒落たチョコレート菓子であれば、少しばかりこのこっ恥ずかしさも緩和されたかも知れない。
 恐らくバレンタインの詳細が浮竹の耳に入るのは時間の問題だろう。行事の真意を知った時、チョコレートではなく彼の好物を贈った事がやけに本気っぽく感じられはしないだろうか。
 自作のおはぎの最後の一欠を咀嚼しながら、色々な感情が入り混じり胸焼けがする。流し込むように茶を口に含んだ。

「美味かったよ。もしまた余らせた時は声を掛けてくれないか」
「は、はい、それは勿論」

 にこりと微笑む浮竹に、千世は思わず視線を下げる。やはりまだ慣れない。副隊長となって浮竹と会話をする頻度が格段に増したが、自分だけに向けられる言葉や表情に中々慣れない。
 これまでは大勢の中の一人だったというのに、夢でないかと思う時がある。しかし副官章に触れる度にこれが夢でないと、この鮮やかな視界が心地よかった。

「今日はもう帰るのかい」
「はい、今日は一段落しましたので」
「それは良かった。今日は帰って、熱い風呂に入って早く寝ると良い」
「そうですね、最近はもっぱら烏の行水でしたから、今日くらいは湯船に浸かろうと思います」

 洗って返すためと借りた湯呑と、二枚の皿を手にして千世は立ち上がる。結局バレンタインという行事を楽しんだのか何なのか一体分からないが、無事に彼の腹を満たした事は満足だった。ひとつ懸念としてはバレンタインの正体を知った時だろう。
 だが妙なものだ、菓子に載せて思いを伝える行事だというのに知られたくないというのは渡した手前矛盾をしている。きっと、あわよくばという事なのだろう。気付かれなければそれまでで、もし気付かれあわよくば受け入れられたならツイている。

「では失礼します」
「ああ、また明日」

 また当たり前のように明日顔を合わせることを知っている。今日は良く眠れそうだと、カラの紙袋を揺らしながら廊下を軽い足取りで進んだ。

2021/02/16