手折れないもの-3

2021年6月26日
おはなし

 

 千世は歩を進めながら紙袋を畳む。恐らくもう昼過ぎだろうか。元旦の翌日ではまだ瀞霊廷内の店の多くはその戸を締めており、賑わっているのは神社とその付近の出店くらいだろう。

「正月から悪かったな、手伝わせて。助かった」
「平気だよ、今日は任務も少ないから。毎年思うけど、正月っていつも暇だよね」
「十二番隊が調整してんだろ。あいつらも休みたいだろうし…実際、いつも三日くらいなら放置しても平気な雑魚ばっかりなんだろうな」

 気だるげにそう言った檜佐木の言葉に、千世は頷く。
 一月の二日である今日千世は当番だったが、特にこれといった仕事も任務も無く一度隊舎に出勤したものの寮での待機へ切り替え帰ろうとしていた。その道すがら偶然大荷物を抱えた檜佐木と出会ったのが数時間前になる。
 話を聞けば瀞霊廷通信で去年寄稿して貰ったり世話になった方々への御年賀を渡して回っているのだという。それは正月恒例でいつもは隊長の東仙と二人で回っているようだが、今年は生憎東仙の都合がつかず彼一人となってしまったらしい。
 大きな紙袋を合計で三つ程手に持った檜佐木とそのまま別れるような気にもなれず、紙袋の一つを手伝うことにした。隊舎や店舗に立ち寄って手渡したり預けるだけであった為、量の割には一時間足らずで終わった。その礼に昼食を御馳走してくれるというから、今は蕎麦屋へと向かっている。
 多くの店が正月休みを取っている中、飲食店街で今営業しているのはこの蕎麦屋と少し先にある定食屋くらいだ。
 がらんとした席に着くと檜佐木は早速せいろ蕎麦、千世はかけ蕎麦を注文する。この寒い中凍える思いで瀞霊廷を練り歩いていたというのに、冷たい蕎麦を食べるとは健康なことだ。

「蕎麦は一番せいろが美味いんだよ」
「それは分かるけど、寒くないのかと思って」
「いや寒い。でも、寒いからかけ蕎麦にするのも、なんか逃げてるみたいだろ」
「別に逃げてないと思うけど…」

 そうこう話しているうちに早速運ばれてきた蕎麦の前で二人して手を合わせる。この飲食店街でも一二を争う回転率とだけあって、提供までの速さには驚く。
 七味をぱらぱらと振りながら、ふと檜佐木の腕に巻かれた副官証を見た。彼が副隊長に上がってから少し経つ。霊術院では主席、入隊をしてすぐ席官に就くほどの実力であれば妥当だろう。
 食わねえのか、と蕎麦を一口啜った後檜佐木は不思議そうに言う。ああ、と千世ははっとして七味の瓢箪を戻すと箸を手に取る。まるで目の前に蕎麦があった事を今思い出したような反応が妙だったのだろう、訝しむような視線を檜佐木は千世へ向けた。

「なんかあったのか」
「…なんかというか、何というか」

 蕎麦を一口啜ったまま、汁に沈む麺を見つめる。なけなしの葱が七味を纏いながら水面で揺れるのを少し眺めてから顔を上げ、つい二日ほど前に浮竹から持ちかけられた昇進の打診の件を口にした。
 別に口外するなとは言われていない。既に隊でも三席の二名には伝えたと聞いている。檜佐木は一瞬驚いたように眉を上げたが、蕎麦を啜り終えておめでとう、と一言伝えられた。

「…それがまだ受けるとは答えてなくて」
「何でだよ、受ければいいだろ。断る理由もねえし」
「私にはどうも…向いてないような気がして」

 謙遜などではない。一人考え込むほど過去の失敗や考えの浅はかさが脳裏に蘇り、その未熟さは自己嫌悪に近いものとなりぐるぐると巡っていた。
 昨日は大晦日から引き続き行われていた女性死神協会の新年会に参加していたが、あまり酒を呑む気にもなれずおせちや刺し身をつまみながら浮竹との会話を自然と思い返していた。自己評価がどうであれ、彼から一定の評価を得ている事は素直に嬉しい。だが、だからといって副隊長になってくれと言われ頷けるかというのは別の話だ。
 今まで胸の内で留めていたものをようやく口に出してみれば、喉のつかえが取れたような清々しさがあった。この悶々とする思いを吐き出したくて、昨日も常々松本に相談が出来ないものかと様子を伺っていた。しかし呂律の回らない彼女にまさか話せるはずがなく燻っていた。
 回答の期限が二日後に迫る中、一人で思い悩めば結局受け止めきれずに断る事となるに違いない。

「何が向いてないと思うんだよ」
「自分が志波副隊長みたいに動く想像がつかないというか…志波副隊長みたいに隊の全ての信頼を得る事は、私には出来ないと思って」

 なるほどな、と檜佐木は頷き残ったわさびの山を蕎麦つゆへ溶かす。千世は再び蕎麦を持ち上げたまま、自然と頭に浮かんだ海燕の背をぼうっと見つめる。姿を失ってもなお、思い悩んだ時には彼ならばどう答えてくれるだろうかと思いを馳せてしまうのはきっと自分だけでないのだろう。
 いつか抜け出さなくてはならないという事は分かっては居るが、しかし彼の抜けた場所を埋める大役が自分に務まるとは思えない。そう考えを巡らせる度に、断ろうという意志が固まる。浮竹の眉を悲しげに曲げる表情が目に浮かぶがしかし仕方ない。

「海燕さん抜きに考えたらどうなんだ。副隊長、受けたくないのか」
「それがなかなか考えられなくて…私の中であの方だけがずっと副隊長だから。多分、隊の皆そうだと思う」
「そこなんだな、引っかかってるの」
「んー…」
「おい早く食わねえと。蕎麦伸びるぞ」

 ああ、とまた気付いたように千世は持ち上げていた乾いた蕎麦を口に含んだ。檜佐木の指摘通り、まだ汁に浸かっていた部分は独特のコシが失われつつある。ようやくまともに蕎麦を啜り始めた千世の目の前で、もうせいろの上が空となった檜佐木は蕎麦湯を手に取るとつゆの中へと流し入れた。
 湯気の立つ蕎麦ちょこをふうと冷ましながら、そうだ、となにかを思い出したように姿勢を直し机上へ蕎麦ちょこを置いた。

「副隊長になって良かった事教えてやるよ」
「うん」
「まず、給料が上がった。あとモテる」
「ああそう…」

 聞いて損したとでも言うようにじっとり目線を遣れば、檜佐木は笑う。

「深く考えすぎてるんじゃねえの。別に浮竹隊長はお前を海燕さんの代わりにしたい訳じゃないだろ」
「それは、そうだろうけど」
「隊の奴らがどう思おうが、いつまでも空位って訳にはいかねえだろ。ま、その辺りは俺が憶測でどうこう言える立場じゃねえけど」

 蕎麦湯で割った汁を口に含むと、飲み込み満足そうに息を吐く。
 檜佐木の言う通りだろう。浮竹の真意は分からないものの、彼はそのまま副隊長が空席であることを望んでは居ない。いずれ誰かしらをとは考えていたのだろう。その空席を埋める事に対して隊の者が思うことを浮竹が分からぬ筈は無く、勿論昇進の打診により千世が何を思うかも承知の上に違いない。
 千世もようやく器の中の蕎麦を全て腹に収め、一口汁を喉へ流した。さっぱりとした鰹出汁の風味が鼻に抜け、檜佐木と同じようにふうと息を吐き手を合わせる。
 カランと盆の上に端を置くと檜佐木は何やら紙袋をごそごそと漁りはじめ、先程散々渡して回った御年賀をひとつ取り出し千世へと差し出した。どうしたの、と手を伸ばして千世は尋ねる。

「浮竹隊長に渡してくれるか」
「私瀞霊廷通信にあんまり関わりないけど、良いの」
「良いんだよ。九番隊、ってしっかり熨斗紙に書いてあるだろ」

 そう言って、筆文字を指差す。九番隊からという事が分かれば良いのだろう。
 瀞霊廷通信で連載を持つ浮竹に御年賀が無いのは別で郵送でもしているからだろうかと思って居たのだが、単に千世へ託そうとしていたからなのだろう。そういう事かと受け取りながら、今更中身が何かと尋ねると手ぬぐいだという。檜佐木が選んだのだと聞き、まあ無難なのが彼らしいと笑った。
 笑われた事が不本意だったのか、眉間に皺を寄せたまま彼は立ち上がると伝票を手にする。じゃあ、と支払いを済ませた檜佐木はそのままさっさと店を後にした。最後に一口湯呑のほうじ茶を飲み込み、彼から渡された手ぬぐいの入った紙箱を手に店を出る。
 隊舎までの道のりを進みながら、浮竹と顔を合わせるのはあの大晦日以来かと思い返す。昨日から今日の朝まで彼との会話を延々と回顧していたからか、そのような気がしない。
 次に顔を合わせるのは三が日が明け、答えを伝える時だと思っていた為どこか気まずい思いが有るが、きっと千世だけだろう。恐らく彼はいつもの通り雨乾堂で過ごしている。隊舎の門戸をくぐると、特に迷わずそのまま隊首室へと向かった。

「入りなさい」

 部屋の中から聞こえる声に促され、千世は顔を覗かせると途端に暖かな空気に包まれた。休日にも関わらず隊長羽織に腕を通した姿の浮竹は、くるりと振り返り柔らかい笑みを向ける。

「どうしたんだ、わざわざ此処まで。珍しいな」
「九番隊の檜佐木副隊長から、預かりものがありまして」
「預かりもの…ああ、いつものかな」

 浮竹は箱を受け取り、熨斗紙の九番隊の文字を確認すると中を開く。手ぬぐいであることも毎年の事なのか、広げて地味な柄を確認すると文机の上へと置いた。
 それを渡すことだけが彼への用事だったから、これ以上この部屋に滞在する理由もない。折角こうして顔を合わせる事が出来たにも関わらず一分にも満たないような会話で終わることがどこか惜しい気もした。
 顔を見るまでは多少気まずいような気さえしていたのだが、実際柔らかく笑んだ表情を向けられればいとも容易く解れる。では、と内心渋々と千世は立ち上がりかけたが、待ってくれと一言声を掛けられ動きをそのままぴたりと止めた。

「まあ、座りなさい」
「は、はい」
「そう固くならんでくれ。折角だ、少し話さないか」

 話そうなどと言われるとまた身体に自然と力が入る。再び千世は畳の上へ膝を折ったが、正面であぐらを組む彼の顔を見ることが出来ずに居た。それは単に照れ隠しなのか、若しくは彼と視線が合うとくだりの件を持ち出されそうな気がしてそれを避けたいのか。
 元旦に何をしていたとか、浮竹はそんな他愛もないような会話を千世へ持ちかける。その話題に一つ一つ言葉を返しながら、何とも言い難い浮ついたような空気に違和感が募った。
 決して持ちかける話題に興味が無い訳では無いのだろうが、しかし何かを探るような雰囲気を感じる。本当に彼が聞きたい話は女性死神協会の宴席の状況ではなくて、恐らく保留となっている昇進の件についてなのだろう。
 三が日が明ける頃に答えを、と言った手前まだ期限内である今その話題に触れる事がやはりきまりが悪いのか、そのまま当たり障りのない会話が続いた。

「先日の話なんだが」

 浮竹がようやく触れたその件に、ようやく千世は視線を上げる。二人の間に空白が生まれ、とうとう話題が尽きたかと思った時だった。
 はい、と一つ乾いた声で返せば、彼はようやくその話題へ辿り着き安心をしたのか少し姿勢を崩した。

「断ろうと思ってるだろう」
「え!?い、いえ…」
「良い、良い。分かってる」

 図星の千世が口ごもると、浮竹は笑う。
 元々、浮竹と出会い強い憧れを抱いてからというものの、彼の傍で身命を賭す事が出来るならばと強く思い過ごしてきた。席次が上がるほどそれは強くなり、副隊長への昇進は本来であれば思っても居ない機会に違いなかった。
 しかし実際打診されてみれば強く動揺をした。目指していたものを突然無防備に目の前へ差し出された事に対するものだったのだろう。途端に夢は生々しい正夢となり、海燕が姿を消した場所を自身が埋める事への不相応が湧き出し恐ろしく思えた。
 暫く浮竹との間に再び空白が生まれたが、しかしそれは不思議と気まずさを感じないものだった。何かを待つような様子に千世はじっと俯き畳を見つめていたが、ようやくその視線を上げその目を見る。

「永く空位だった場所に、身を置く者が私で良いのでしょうか」
「それなら、千世は誰なら良いと思う」

 浮竹から返された言葉に千世は唸る。誰が良いという訳ではない。彼の抜けた場所を満足に埋めることが出来るのは、彼以外誰にも出来ない。千世は何か言葉を返そうとしていた口を閉じ、僅かに肩をすぼめた。

「海燕の後任として君を選ぶ訳じゃない。副隊長として適正があったから推した」
「…それは、何と申し上げたら良いか」
「素直に受け止めてくれれば良い。何に忖度せず、千世の思いのみで考えて欲しいんだよ。誰とも比べず、誰を思うでもなく」

 真っ直ぐ向けられる視線を返しながら千世は一つ無言で頷く。その静かな言葉はそっと自分の中へと染み込むようだった。

「引き止めて悪かったね」
「いえ、ありがとうございました。少し、つかえの取れたような気がします」

 そうかい、と彼は笑う。千世は深く頭を下げると、立ち上がり部屋を後にした。恐らくものの数分の滞在だったが、それ以上に感じた。
 隊舎へと伸びる板張りの廊下の途中、水の跳ねる音にふと立ち止まる。雨乾堂を囲む池で優雅に泳ぐ鯉が、千世の影を餌やりに勘違いして寄ってきたのだろう。口を開いて寄ってきたその姿を見下ろす。
 浮竹の視線を思い出すと言い得ぬ感情が込み上げた。それが一体何であるか分からない。ただ彼の流れ込むような思いが心地よく、素直な言葉が嬉しかった。ぼうっと揺れる水面を見つめながら、不意に滲んだ視界を誤魔化すように目を瞬いた。

2021/01/25