手折れないもの-2

おはなし

 

 彼女が首を横に振る事は予想がついていた。それを加味して早めの打診だったとも言える。三日後までには決めて欲しいと彼女には伝えていたが、実際にはまだ一月ほど猶予は有った。
 総隊長からは副隊長の推薦を行うよう度々言われていたが、適任が居ない事や三席の二名で現状は問題がない事を理由に不在を続けていた。前任の海燕を失い数年が経っていたが未だにその実感は無く、恐らくそれは隊の者にとっても同じ事だろうと思う。
 副隊長が空位のままで在る事は、どこか平穏であった。またその場所へ彼がふと戻るような気がしてしまうからなのだろう。決して有り得ない事だと分かっては居ても、心の何処かで皆またあの姿が突然現れやしないかと無謀な期待を抱いている。
 しかしそれは彼を失った事実を受け止めているかどうかとは違う話だった。決して皆その事実を受け入れていない訳ではない。受け止めた上でしかし実感は無く、彼の後任が就かない事をそっと安心している。数年の時間を経てもなお彼の存在は深い場所に残り続けていた。
 さて、と手元の帳面を浮竹は閉じる。元旦ということもあり隊舎は一日ひっそりとしていた。当番隊士の多くは仲間内や家族で賑やかに正月を過ごしていることだろう。
 浮竹も昼間は射場副隊長から呼び出された為男性死神協会の集まりに顔を出していた。終わる気配が見えない宴席から夕方頃早めに抜け出し、帰りがけ十番隊舎の日番谷にお年玉を渡した。雨乾堂へと帰ってからは時折うつらうつらとしながら読書や残っていた仕事に手を付けるなどしていたからか、普段と特に変わらず正月という気分は薄い。
 時計を確認し、そろそろだろうかと茶箪笥の戸を引き盃を二枚取り出す。もう間もなく元旦が終わる時刻だというのに今から酒盛りの準備とは、今日唯一正月らしい怠惰かも知れない。
 年末になかなか珍しい銘柄の日本酒をある伝で手に入れたのだが、それを何処で知ったのか京楽が味見をさせてくれと言い出したのだ。彼のお家柄か元旦は挨拶回りが忙しいようで、この時間でないと都合がつかないのだという。そう多忙な中無理に今日でなくともとは伝えたのだが、よほど早く味が見たくて仕方がないようだった。
 茶箪笥の戸を閉めた頃、丁度背後で呑気な声が聞こえる。顔を出した京楽は既に随分な酒が入っているのか何時も以上にご機嫌な様子だった。

「遅くなっちゃって悪いね」
「いや、俺も丁度纏める書類が残ってた」
「元旦から仕事?物好きだねえ…」

 京楽は半ば呆れたように言いながら文机へと目線を流す。この歳ともなれば元日を過ごすのも飽きてくる頃だろうに、毎年同じように満喫をしている彼は多少羨ましくもある。勿論この正月独特の雰囲気というのは何度迎えても良いものだとは思うが、しかし毎年朝から晩まで浴びるように酒を飲む気にはなれない。
 敷いた座布団の上へどっかりと腰を下ろした京楽の前へ酒瓶を置けば、彼は待ってましたとばかりに手を伸ばす。

「あれ、もう呑んだの?」
「昨日、…千世と少し」

 千世、と京楽は記憶を辿るように名前を繰り返すと、探り当てたのか眉を上げて口元を緩ませた。一瞬彼女の名を出すことを躊躇ったが、やはり誤魔化せばよかったかと後悔する。

「ああ、浮竹お気に入りの子」
「やめてくれ、そういうのじゃない」

 その言い方には語弊が有ると咄嗟に否定したが、ふと今までの言動が頭を過り確かにそう感じられても致し方ないかもしれないと浮竹は視線を外す。
 同じ瀞霊廷内に居てもこうして膝を突き合わせて二人で呑み交わすというのは一月に一度あれば多い方だ。時たま鉢合わせた際に流れで昼食や間食を共にする事もあれど、それもそう頻繁なことではない。
 思えばその度に彼女の話を一度は持ち出していた。それもここ数年、彼女の成長が著しかったからだろう。入隊時から普段の性格に似合わずがむしゃらな子だと思っていたが、実力が伴って来てからは特に目を瞠るものがあった。
 まだ未熟な部分も多いがその成長がまるで雨後の竹の子のようで、眺めていて飽きる事がなかった。そう自然と目につく様になっていた彼女の話を、京楽との会話で持ち出すことが多くなるのは至極当然ではある。
 だから彼にお気に入りと評されても完全に否定が出来ない。急かすように盃を手にする京楽に、浮竹は酒瓶を持ち上げ流し込む。

「で、彼女とどうしたの。二人で酒呑むような仲だったっけ」
「…ああ、副隊長昇進の打診でな」
「…あれ、そうなの」
「だがしっかり断られたよ」

 ああそう、と京楽は頷くと盃を傾ける。味は期待通りのものだったのか、満足げに口元は弧を描いた。朝から呑み続けているにも関わらずまだ酒が美味いとは恐れ入る。
 だが今思い出してみても見事な即答だった。予想していた事とはいえ、考える素振りすら無く断られるというのは多少傷つくというものだ。一旦は三日までに答えるようになっているが、あの場の浮竹の体面を慮っただけで恐らく三日後も答えは変わらないのだろうと思う。
 浮竹も勿論軽い気で伝えた訳ではない。昇進の話自体は少し前から上がっており、いつ彼女にどう話そうかと考えあぐねていたものだった。時折彼女の様子を伺っては気が引けて、そう繰り返している間に多少時間が経ってしまった。
 昨夜、彼女の任務が長引いている事を知ったのは定時を過ぎた頃だった。帰り際に出撃記録に軽く目を通していれば当日最後に千世の名前が記されており、帰隊時刻の記入がない。図らずも大晦日だった隊舎の人気はほぼ無く、いよいよ頃合いかと彼女の帰りを待った。
 予定を大きく過ぎて日付が変わる間近に帰ったその気配が待機所で留まる事を確認し、口実の酒を手に持ち向かったのだった。
 ばっさりと切り捨てるような彼女の言葉を再び思い出し、自然と溜息が漏れる。目の前の男は笑い、でもさ、と続けた。

「もし彼女が受けたとして、浮竹平気なの」
「平気って、どういう意味だ」
「だって君好きでしょう、あの子のこと」

 思わず飲み込みかけていた酒で咽る。突然何を言い出すのかと、濡れた口元を指先で軽く拭った。

「待て、あの子は部下だし檜佐木君と同期だぞ」
「部下で年下だから、そんな気起きないって?」

 何を根拠に言い出したのかは知らないが、気紛れで言った訳ではないらしいという事は分かる。唐突な指摘に心拍が異様に上がっているが、それを知ってか知らずか京楽は何かを見透かしたように口元を緩ませた。

「今どき年齢の差なんて関係ないって。別に彼女が子供って訳でもあるまいし」
「問題はそこじゃなくてだな…」
「でも浮竹、実際自覚有るんでしょう」

 その言葉がしんとした部屋にぽつりと響き、浮竹は押し黙る。否定の言葉が出ないのは、彼の言うことがあながち外れていない事を自白しているようなものだった。
 気になっている事には違いない。理由はどうあれ現に彼女の話題をよく無意識に持ち出していたのだから、京楽がその度に確信を深めていたとしても仕方ない。図星を指されたように暫く手を止めていたが、一つ息を吐き盃に再び口をつけ僅かに残った水分を口へ垂らす。

「まだ、良く分からないんだよ自分でも」
「良く分からない時点でもう異変だと思うけど」
「…まあ、そうなんだが」

 明確な異変に気付いたのは彼女が長期遠征から帰還した姿を迎えた時だったように思う。不審に大量発生した虚の殲滅を目的とした三ヶ月に渡るものだったが、浮竹は元より異議を唱えていた。敵勢力に対して戦力が心許なく、多くの死傷者を出す事が容易に予想される任務へ自隊の隊士を向かわせようとはまさか思わない。
 しかし異議は虚しく、千世を含んだ百名に満たない小隊は遠征へと発った。日々の報告で増えるばかりの負傷者数に気が休まる事は一日として無く、しかし浮竹の憂いと比例するように彼女の働きは眼を瞠るばかりのものだった。
 三ヶ月近くが経ち、ひどくやつれ髪や肌の艶も消えた彼女の姿を迎え声を掛ければ、途端に柔らかく微笑んだあの表情が暫く経った今も忘れられずにいる。脳裏にこびり付く淡い何かを表す言葉を知っていながら、しかし今まで口に出したことは無かった。この歳になってその言葉を自身に当て嵌める事が烏滸がましく思えたのだろう。

「どうなの、あの子のこと」
「もう良いよその話は…」
「だってこうせっつかないと、浮竹すぐ拗らせるじゃない」

 京楽の言葉に過去が脳裏を掠め、気まずく顔を逸らす。気紛れに盃へ酒を注ぎ口元へと運んだが、せっかくの酒もどうにも今日は苦く感じる。心の内を見透かすようなじっとりとした視線を浴びながら、浮竹は居心地悪く溜息を吐き出した。

「…お前の言う通り、気にはしているよ」
「へえ、好きなんだ」
「すぐそういう事を……」

 とうとう口に出してしまった事を早くも後悔する。耳の先まで自然と熱くなる感覚を指摘され、酒のせいだと見え見えの言い訳をした。秘める内はまだ気の迷いだと誤魔化す事も出来るが、口に出せば途端に逃れられない事実としてのさばる。
 胸焼けに咳払いをすると、何度目かの溜息をまた吐き出した。

「まあそれはそうと、今は彼女が昇進を受けるかどうかなんだろう」
「…ああ、受けてくれそうには無いけどな」
「それなら口説き落とすしかないねえ」
「無理にというのは気が進まん」

 しつこく迫れば彼女の性分だからやがて折れそうなものだとは思うが、そうしてまで置きたいかと言われれば違う。彼女の意思でもって選択をしなければならない。長らく空位だった副隊長へ推された事実を彼女自身が理解し受け入れる事に最も意味がある。
 しかしあの様子では、期限とした二日後に再び無理だと頭を下げられるだけだろう。その分かりきった答えをただ待つだけというのも、虚しい思いがある。

「待つのも良いけどさ、後悔しないように少しは押してみたら」
「後悔か、…そうだな。考えてみるよ」

 そう答えて浮竹は軽く笑った。部屋の端に置いた火鉢で、炭がぱちんと小さく弾ける。ひどく穏やかな元日の終わりだった。

2021/01/13