手折れないもの-1

おはなし

 

 日も変わろうかという深夜、千世は隊舎のがらんとした待機所でぐったりとうつ伏せになっていた。というのも、急遽舞い込んだ流魂街外れでの討伐任務からようやく帰還したのがほんの十分ほど前になる。
 通常この時間であってもだらだらと駄弁り過ごす者や深夜の任務を控える者などでぽつぽつと人は居るのだが、今は千世以外の気配は無い。もう間もなく年が明けようとしているのだからそれも当たり前だろう。流石に大晦日ともなれば緊急以外の任務は翌朝以降に回される事が多く、よっぽど急務の場合は自宅で待機中の当番隊士へ地獄蝶が飛ぶ。
 本来であれば今夜は女性死神協会で夜通し行われる宴席に出席をする予定だった。今向かっても未だ間に合う時間帯だが、任務上がりの血なまぐさい身体で顔を出すのは気が引ける。かといって今から風呂に入る元気もない。討伐自体は早々に終わったものの、帰路で迷ってしまったのが失敗だった。
 畳に頬を押し付けたまま千世はどこを見つめるでもなくぼうっと眠い目を開けていた。これからこの怠い体を引きずり風呂に入るというのは討伐任務よりも気が重い。このまま軽く仮眠を取り、明け方寮へ帰ってからでも良いだろう。
 冬の凍える風で髪の水分は奪われ、至る所で絡まっているのが分かる。とても人に見せられた様子ではないが、幸いにも今はこのがらんどうの部屋でひと目を気にしなくても済んだ。
 だが、寂しい年越しになってしまった。ここ数年は幸いにも大晦日と元旦共に午後は非番が続き、同僚と過ごす事が恒例となっていた。死神に休みは無いという事は百も承知だが、やはり年越しそばを食い年を越し、満腹の中おせちをつつきながら酒を飲む瞬間というのはこの上ない怠惰で幸せな時間だった。
 勿論任務で大晦日を過ごすのは千世ばかりでは無い。遠征中の者や現世駐在任務に当たっている者も居る。日付が変わるまでに帰る事が出来ただけマシな方だというのに、人というものは幸福な誰かと比べて自分は不幸だと嘆きたくなるものだ。
 昨年までの正月を思い返しながら仮眠を取ろうかとうっすらと目を閉じかけた時、目線の先にある襖が乾いた音を立て開く。廊下から入り込む風に肌が粟立つのを感じ顔を顰めた。
 このだだ広い部屋を独り占めするのは中々良い気分だったが、それも三日天下だったか。年越しの間際だというのに今から待機所へ出勤とはご苦労な事だと、うつ伏せのまま頭の中でぼそぼそと独り言を呟く。しかし次の瞬間目に入った白い羽織の姿に、一瞬でぼやけた目が覚めた。

「う、浮竹隊長」
「そう幽霊でも見たような顔をするな」

 不本意そうにする浮竹に、千世は飛び起き正座をする。まさかもうとっくに隊舎からは去っているとばかり思っていた。十三番隊では浮竹を含め恐らく今年最後の仕事納めとなった事を自負していたが、まだ死覇装である姿を見るとこの時間まで執務に勤しんでいたのだろうか。
 慌ててぐっしゃりと崩れた髪を手ぐしで整え、乱れた着衣を簡単に直す。たまたま通りがかっただけだろうか。それにしては、迷うこと無く千世の方へと近づいた。
 背筋を伸ばし正座をする千世の前に浮竹は腰を下ろすと、目の前へ酒瓶をとんと置く。重ねて手にしていた朱塗りの盃を一つ差し出され、千世はぽかんとしたまま受け取った。

「これは…」
「嫌いか?」
「いえ、好きです」

 促されるままに盃を差し出し、酒瓶からなみなみと注がれた酒を溢れないよう慌てて口を付け吸った。かさついていた喉へと流れ込む酒の味に、はあと息を吐く。空になった盃を畳の上へと置くと、今度は彼が差し出した盃へと千世は酒を注ぐ。
 一口に飲み干したその様子を見ながら、あまり脈絡のない状況に改めて千世はまさか夢かと疑った。この十三番隊へ入隊をして数十年、さらに五席になって久しいが二人きりで酒を飲む幸運な場面など一度として無かった。この状況でそれが訪れるとは思わず、あまり信じられずに居た。
 空になった浮竹の盃に、再び千世は酒を注ぐ。千世は酒は好きだが銘柄までは詳しくはない。だが、それなりに良いものなのだろうという事が分かる良い香りが鼻をくすぐる。

「どうされたんですか、もう零時も近いですが」
「その…なんだ、残務処理を少しな」

 大晦日にですか、と千世が聞けば一瞬間が空いた後ひとつ頷いた。珍しいことだ。隊長格ともなれば大晦日や正月三が日は休みを取る事が多い。浮竹も年末年始は休みを取る事が多かったと記憶しているが、それは体調を崩していたからだったか。
 記憶は定かではないが、しかし大晦日に残務処理というのはよっぽど差し迫った状況だったのだろうか。差し迫った状況だったにしてはあまり緊張感のない様子には違和感を感じるが、何をしていた、などと聞ける筋合いは無い。
 だがそれ以外にも他にも色々と尋ねたいことはあった。残務処理の件は納得したとして、酒と盃を二人分手にして待機所へ訪れた理由だ。眠気がようやく覚めてきたのか、次々と疑問が浮かび自然と眉を曲げていたようで浮竹はどうした、と顔を覗く。

「どうして隊長が待機所へいらっしゃったのかなと思いまして」

 千世がおずおずと尋ねれば、浮竹は笑う。

「いつも帰り際、その日の出撃記録を確認するようにしているんだよ」
「…今日は私が最後だったからという事ですか」

 大晦日だというのに瀞霊廷から多少離れた地区の任務を宛てがわれた事が気になっていたのだと言う浮竹に、千世は自然と口元が緩むのを感じた。一席官が何時どこまで任務へ出ようとそれが職務であり隊首が特別気にするような事では無いというのに、身に余る優しさに恐縮する。
 恐らくこれが他の誰かであってもきっと彼は同じことをしたのだろうと、そう分かって居ても嬉しいことには変わりない。一年最後の任務へ恨みがましい独り言を呟きながら夜の森を飛び回ったものだが、今は感謝さえしたい気持ちだ。
 落ち着いた優しい声音が自分だけに向けられている空間が心地よい。いつもは誰かしらが傍に居て、二人きりで話すことなどそうそう叶わないことだ。

「しかし難儀だったな、一年の最後に。手間取ったのか」
「ああ、いえ…討伐自体は早々に済んだのですが、帰り道で迷ってしまって」
「成程、どうりで遅いと思った」

 そう微笑んだ浮竹に、どうりで、と彼の言葉を頭の中で繰り返す。彼の言うことを繋ぎ合わせれば、残務処理を終えた後に出撃記録の帰隊時刻を確認してから待機所に訪れたとばかり思っていた。
 だがまるで帰隊を待っていたかのような言いように、いやまさかそんな筈は無いと目をぱちぱち瞬く。暫く水分補給をしていなかったから、そう呑んでも居ないというのに早くも酒が回りはじめたか。気が大きくなり都合の良いように解釈をし始めるのは悪い酒癖だ。
 だが、もし千世を待っていたと仮定すれば、彼がわざわざ大晦日に残務処理をしていた事にも、この待機所へ酒を持って現れた事にも理由がつく。いやだがそんな筈はない、と千世はもう一度脈が上がり始めた心臓を落ち着けるように深く息を吐いた。
 手にしていた盃を畳の上へと置いた時、彼が一つ咳払いをした。下に向けていた視線をふと上げると、浮竹は何か言いあぐねるように顎を軽く擦っている。

千世に…一つ伝えないとならない事がある」

 はい、と上げた声が裏返った。普段の様子とはどこか違う、深刻そうにも見える表情を見てまた更に心拍が上がるのが分かる。何を言い出そうというのか全く想像も及ばないが、しかしこの二人きりの空間が妙な期待を勝手に高める。
 そんな突拍子もなく都合の良い話がある訳ないと分かっているというのに、もしかしてを考えただでさえぼうっとしている頭が更に逆上せたように靄がかった。しんとした部屋の中で、互いの呼吸する音が聞こえる。
 緊張に息を潜めながら、手汗を誤魔化すように袴を自然とぎゅうと握り掴んだ。

「副隊長へ推薦した」
「は……」

 間の抜けた声を漏らす。何度か彼の言葉を反芻し、ようやく理解した頃には酔いなどとっくに抜け顔が青ざめていた。

「私には無理です」
「そう言うと思ったよ…」
「だって私、まだ五席ですよ…小椿さんも清音さんも居るのに…」

 はあ、と困ったようにため息を吐く浮竹に千世は縋るようにその袖を掴む。あまりに唐突な話で動揺に手が震えている。五席から副隊長への昇進など聞いたことは無い。通常ならば四席三席と順を追ってゆくもので、五席の千世に心の準備が出来ている筈無かった。
 千世が都合よく考えていた事は案外正しく、浮竹は確かに千世の帰りを待っていたのだろう。この部屋へ来てからも、いつ話を切り出そうかと考えあぐねていたに違いない。二人きりで甘い時間を過ごしていると少しでも勘違いしていた自分の能天気な頭にはため息が出るというものだ。

「先の長期遠征任務の功績が認められた。俺も適任だと思う」
「あれは偶々、…まぐれのようなものです」
「まぐれで無い事は千世が一番分かっているだろう」

 千世は口を噤んで押し黙る。確かに遠征任務では自分のことながら良い働きをした自負はあった。突如大量に発生した虚の殲滅任務にて部隊長を努めていた上位席官が相次いで死傷し、崩れかけた部隊を代わって指揮を執った千世が立て直し無事完遂に至った。
 だが副隊長への昇進の切欠となるかと言われればそれは分からない。浮竹は淡々と推薦に至った理由を説明しているが、内心あまりにもそれは買いかぶりすぎだと頭を抱えたくなる。
 確かに、浮竹の隣へ立つ事は霊術院時代からの目標だった。それが今ようやく叶おうとしているというのに嬉しさの欠片も覚えないというのは、自分が目指す姿へまだ辿り着けていないと感じているからだろう。
 それはそうだ、前任の副隊長を近くで見ていたのだから彼と比べ自身が如何に未熟であるか痛いほど分かる。

「仙太郎と清音にも話はしている」
「そうですか…」
「きっと千世は嫌がるだろうと二人共言っていた」
「それはそうです、だって」

 志波副隊長の代わりは務まりませんと、そう言い掛けたが途中で止めた。代わりだなんて口に出すどころか、思うだけでも烏滸がましい。
 言葉を飲み込み一つため息を吐くと、その暗澹とした様子に浮竹は困ったように笑う。恐らくこの状況を予見していたのだろうが、実際に此処まで落ち込まれれば困ることだろう。

「断る事は可能だが、俺の思いとしては出来れば受けて欲しい」
「…それは何時までにお答えすれば良いのでしょうか」
「三が日明けた頃には、答えをくれるかい」

 三が日、猶予は僅かあと三日ほどということか。出来ることならば即答で断りたいものだったが、しかし推薦してくれた彼の思いもあるからそう無下には出来ない。九割九分千世の中では断る事を決めて居るものの、しかし三日猶予があるというならば念の為考えてみようかと思う。
 分かりましたとひとつ頷いた時、丁度鐘をつく音が遠くでぽーんと響いた。そうこうしている間に、いつの間にか年が明けてしまったようだった。その音を聞き二人で宙を見上げながら、あ、と小さく呟く。

「ともあれ、今年もよろしく頼むよ」
「はい、今年も…よろしくお願いいたします」

 こんな年明けになるとは思いもしなかった。本来ならば新年はじめの挨拶を手に入れたことを喜ぶはずが、今は何とも形容し難い靄がかった気持ちだ。深く下げた頭をゆっくりと上げれば、何時もと何ら変わらない彼の優しい笑みを向けられる。
 かち合った目線をさっと千世は自然と逸しながら、なんて正月を過ごすことになるのかと眉をハの字に曲げるのみだった。

2021/01/05