或る日

2021年6月26日
おはなし

 

 珍しく熱を出し二日ほど勤務を休んだ。怪我や疲労などで穴をあける事は副隊長へ上がってから過去数回程度あったが、こうしてしっかり体調を崩すというのは実に数年ぶりのことだったように思う。薄ら寒い秋の夜だというのに、布団を剥いで眠っていたのが恐らく原因だろう。独特の悪寒と熱で頭がぼうっとする感覚というのはやはり慣れないものだ。
 長く戸棚に眠っていた解熱剤を飲み、丸二日間食事と風呂以外は布団の中で過ごした甲斐があり三日目の朝には身体がすっきりと軽くなっていた。まだ全快とは言えないものの、机仕事をするには全く差し支えないほどだ。
 幸いにも休んだ二日間で特に変わった事は無かったようで、執務室の机上は多少書類が載せられているだけで整然としていた。早朝の爽やかな風が時折通る。まだあまり出勤している者が少ない時間帯の為か、隊舎はしんとしていた。
 清音が代わりに纏めてくれていた日報を二日分目を通し、重なった書類をぱらぱらと捲る。あまり量も無いから、今日多少残業をすれば休んだ分は取り戻せるだろう。
 とその時、部屋の襖を軽く叩く音が聞こえ千世は視線をそちらへと向けた。現れた姿に、思わず立ち上がる。浮竹は千世の姿をその視界の中央に入れるとどこか安心したように微笑んだ。

「二日間申し訳ありませんでした」
「気にしないで良い。それより、体調はどうなんだ」
「お陰様で今朝からもうすっかり熱も下がりました」

 ありがとうございます、と千世は軽く頭を下げると再び椅子の上へと腰を下ろす。二日間とも丸々寮の自室で過ごしていた為、浮竹はただ清音から千世が体調不良で休むという話を聞いていただけだったのだろう。
 浮竹はつかつかと机の前まで来て机上に手をつく。腰をかがめ千世と視線を合わせるようにするとその顔をまじまじと見つめた。

「まだ顔色が良くないんじゃないか」
「平気ですよ、本当に」

 心配そうに眉を曲げる浮竹に、千世は笑って答えると顔を反らした。
 万全とは言い切れない体調だという事に恐らく彼も気づいているのだろう。突然額にひやりと何かが触れる感覚に千世は慌てて飛び上がる。何かと思えば彼が伸ばした手のひらが千世の額を捉えており、その体温を比べるように浮竹はもう片方の手を自身の額へあてている。

「まだ熱いじゃないか」
「私は平熱が高いんです」
「この前だって、大丈夫だと言いながら無理が祟って倒れただろう」

 頭をぶんぶんと左右に振り、彼の手を額から振り払った。

「あれは寝不足が原因で…」
「だから、自己管理をしっかりしなさいと言っているんだよ」

 浮竹の言葉に千世は眉をぴくりと動かす。自己管理が大切なことくらい分かっている。日々重なってゆく書類を処理しながら、霊術院の臨時講師として授業も行い恋人との時間だってしっかり割いている。仕事も含め充分自己管理には気を遣っているはずだ。
 時折、たしかに体調を崩す事は確かにあるものの、そう頻繁というわけではない。たまたま前回倒れた時と、今回の風邪とが時期が近くなってしまったという事もあり浮竹はそう感じるのだろう。
 だがまさか、そう強い口調で指摘されるとは思わず、珍しく苛立ちのような感情が湧いた。

「…お言葉ですが、隊長の方がよっぽどお身体気をつけられたほうが良いと思います」
「…俺は…最近は体調も良いし、ほら、実際にこの所休んでないだろう」
「いえ、雨乾堂でよく仮眠を取られてるのは知ってますよ。夜だってよく咳されてます」
「それは…だが熱を出すまで体調を崩すことはここ一ヶ月一度もない。今は千世の方が俺よりよっぽど休みがちだ」

 ぐっと千世は口を結ぶ。ここ一ヶ月で見れば確かに彼の言う通り千世の方がよっぽど体調不良が多い。だが多いと言っても二度程度だ。千世にしては珍しく、という事ではあるのだろうが、だとしても酷い時には半月は隊舎に出てこない時もあった浮竹に言われるのは腑に落ちない。
 目いっぱいの不満げな表情を浮竹に向けるが、彼は素知らぬ顔で書類の山の上に手をつく。

「後の事は清音や仙太郎に任せて、今日は帰りなさい」
「ですから、大丈夫だって言ってるじゃないですか」
「いいや、だめだ。そうやって前も…」
「ああもう、私に構わないで下さい!」

 思っていたよりも声が響き、千世は僅かに後悔したもののもう遅い。浮竹は眉間に皺を寄せたまま息を一つ吸い、わかった、と一言低く呟くと踵を返した。いつもの擦るような足音ではなく、踏みしめるようなそれで部屋を出ると、ぴしゃりと襖が閉められる。
 暫くその後姿が消えた場所を千世は見つめていたが、足音が戻ってくることは勿論無い。やってしまった、と呆然としたまま、勢いよく閉められた襖をまだ見つめていた。
 彼がただ純粋に心配をしてくれているのは分かる。恐らくそれは上司として、そして恋人としてどちらの意味も含んでおり、それが千世をやけに苛立たせたのかも知れない。上司としてものを言いながら、その実恋人として個人的な感情が込められているような違和感につい苛立った。
 それならばいっそ初めから、体調管理は死神としての基本だ莫迦者、とでも叱ってくれた方がよっぽど納得ができるというものだ。もしくは恋人として君の身体が大切だからもっと労ってくれ、とでも言われた方が良い。
 後悔は僅かに募りながらも、しかし自分が全て悪いとは思わない。上司相手にあの態度は流石にどうかとも思うが、私情を持ち込んでいるのは彼自身だろう。

「それって惚気けてるの?」

 昼時が近い頃、千世の療養中に仕上げてくれていた報告書を持って清音が現れた。部屋の陰鬱な空気に気づいたようで何かあったのかと尋ねられ、簡単に浮竹との朝のやり取りを説明したのだがまさか惚気と評されるとは思いもよらなかった。
 清音は浮竹との関係を知らないはずなのだが。千世が余計に顔を顰めると清音は慌ててちがうちがう、と顔の前で手を振り否定する。

「いやあ違うのは分かってるんだけど、なんかそう聞こえちゃって」

 そう言って笑う清音に、千世は相変わらず顰めた顔のまま軽く息を吐く。話している間にまた苛立ちが蘇り、眉間から皺が取れない。

「でもそれは千世さんが悪いよ」
「わ、私?だってこれ以上休んだって二人に迷惑掛け続けるだけだし…」
「平気平気、日常業務くらいだったら小椿と分ければそこまでじゃないし」

 第三者からはっきりと悪い、と言われると募った苛立ちが徐々に萎む様子が分かる。

「だって実際全快ってわけじゃないんでしょ?隊長の言う通り、顔色良くないよ」
「…まあ、うん…何時も通りという訳じゃないけど…」
「ほら、やっぱり。無理すると後でぶり返して、余計長引いたりするって」
「いや、でも普通に仕事は出来るくらいだし、薬も飲んでるから…」

 と言い訳のように答えながら、その冷え始めた頭で朝のやり取りを思い返す。彼が言っていたのは至極当たり前のことで、そこに反論の余地など何もない。だというのに、浮竹の体調不良の件を持ち出して言い返すなどあまりに今思えば幼稚な思考回路だった。
 色々と苛立ちの募った理由がある事にはあるが、しかし元はと言えばまだ万全でもないのに出勤をした自分が浅はかだ。清音の言う通り今日の出勤でまたぶり返して高熱を出しでもすれば、更に二日は休む事になるだろう。良く考えなくても分かるような事を、どうして意固地になって突っぱね続けたのか。
 浮竹の去り際の珍しく怒ったような表情を思い出しながら、今更反省を始める。

千世さんは、多分迷惑掛けたくないって気持ちが強すぎるんだよ」
「それは、迷惑は掛けないに越したことは無いから」
「そりゃそうなんだけど、誰しも仕方のない時ってのはあるよ。あたしもあるし、隊長だってよく倒れるし」

 何を答えても言い訳がましく聞こえると思い口を閉じた。結局穴を開けて迷惑を掛けたくない、なんて思いは独りよがりなもので、万全でない状態で無理に出勤されたほうがよっぽど周りは迷惑だろう。
 何より自己管理が出来ていればこう色々と悩むような事も無かったのだが、その点に関してはもう飽きるほど後悔をしている。深く吐いた溜息がどんよりと部屋へ広がった。

「…やっぱり私が悪かったです」
「あたしじゃなくて、謝るなら雨乾堂へどうぞ」

 後はやっておくから、という清音に千世は身体を小さくして深々と頭を下げる。やはり未だ全快ではないようで、頭の熱が朝より増してぼうっとする。後悔もそれに伴って増幅してゆくようで、胃の奥がずっしりと重い。
 手荷物を纏めながら、結局清音が持って来てくれていた書類をまた彼女へ手渡すこととなった。彼女と廊下で別れ、そのまま雨乾堂の方へと向かう足取りが重い。それは熱のせいか、それとも気分の問題か。
 きっとそれ見たことかと思われるだろう。だから朝言ったじゃないか、とまた説教されるだろうか。されて然るべきだから不満を言える立場では無いのだが、あの眉間に皺が寄った険しい顔というのはあまり見たくないものだ。
 池の中のひっそりとした佇まいを眺めながら、一人唸る。ごめんなさい帰ります、と一言そう伝えるだけで良いのだろうが、朝のあの自身の態度を思い出すと土下座でもしないとならないような気もしている。
 みし、と一歩踏みしめるごとに板張りの廊下がしなり、きっとそのゆっくりと歩を進める音は既に彼の耳にも届いているのだろう。ようやく部屋へと近づいたものの、その手前で立ち止まり中々声を掛けられず暫く立ち尽くす。第一声を何と言おうか考えあぐねているうち、部屋から顔を覗かせた姿に息を呑んだ。ゆっくりと見上げれば、いつまでそこにいるんだと呆れたように笑った。
 入るよう促され、既に用意されていた座布団の上に腰を下ろす。正面に同じように腰を下ろした浮竹の顔をあまりよく見れず、俯いたまま畳を見つめていた。

「…まず、その…朝の態度…申し訳ありませんでした」
「過ぎたことだよ」
「あと、その…隊長の仰った通り帰ります」

 どうしてもその言葉が気まずく、早口でぼそぼそと言い終えた。そうか、と浮竹は頷くとまた朝と同じように千世の額へと手をのばす。ひやりとした手のひらが千世の前髪をくぐり額を捉え、どきりと視界が揺れた。

「朝より熱が上がったんじゃないか」
「…す、すみません、隊長の仰る通りでした。反省してます…非常に」

 しゅんと身体を縮めながらそう言うと、浮竹は笑う。過ぎたことだと彼は言ったが、結局この熱が下がらない限りは胸の靄が晴れることは無いだろう。額から離れた手が、膝で握っていた手の甲へと移る。額の熱が残った手のひらの温度にはっとして浮竹を見ると、そのまま引かれた。
 急に手を引かれ、倒れかけた身体を支えられそのまま彼の膝を枕にするように寝転された。天井を見上げる視界の中、覗き込む彼の表情は何時も通りに優しい。

「隊長…」
「少しここで休みなさい」
「でも、お仕事中では」
「部下の体調管理も、上司の仕事のひとつと言うだろう」

 そう得意げに言うと大きな手のひらで頬を包まれ、千世はその心地よさに目を瞑る。何処から取り出したのかひざ掛けを身体に掛けられたようで、体温が緩やかに上がり眠気が増すようだ。
 未熟さをまた許されたような感覚が多少悔しく、そして恥ずかしく思う。優しさという言葉だけでは表せない彼の温情に触れる度、自分がいかに稚拙であるかに気付かされる。しかしその事実から目を逸らさず、受け止め自省出来るのは何より彼が何より真っ直ぐにその眼差しを向けてくれるからなのだろう。それは千世だけでなく、この隊に居る者全てに対しても変わらない。
 頬に触れていた手が離れ、髪を撫でる。その表情を見たいと思いはするが重い瞼は言うことを聞きそうにはなかった。池の鯉が立てる水音とすぐ間近で聞こえる彼の呼吸の音を耳にしながら、徐々に意識が落ちてゆく。
 おやすみ、と微かに聞こえた言葉は耳の奥で柔く溶けて消えた。

 

或る日
2020/10/03
(台詞リクエスト「私に構わないで下さい」)