恋と上澄み

おはなし

 

 ここ一週間ほど、業務量が格段に増えていた。事務仕事も勿論だったが、以前よりも確実に隊士の出撃回数も増えており負傷者もそれに比例している。
 十番隊舎に出向いた帰り道、千世は偶然伊勢の後ろ姿を見かけた。立ち話が出来るような余分な時間があったわけではないが、しばらくぶりの姿が嬉しくてつい呼び止める。
 はっとした伊勢は、眼鏡を一つくいと上げその奥の目を細めた。

「お久しぶりです」
「本当に。時々千世さんの姿を見かけてはいたのですが、中々声が掛けられなくて」
「なんだ、声ぐらい掛けて下さればよかったのに」

 互いにいくつかの封筒や書類を腕に抱えている。十番隊は隊長副隊長両名が現世へ破面の調査へ出ており、本来十番隊が処理するはずの報告書や任務などが他隊へと渡っていた。
 隊長が不在の隊には回せない分、八番隊や十三番隊など欠けの無い隊が可能な限りで請け負うようにと先日の副隊長会でも伝えられていた。十番隊は現在三席が指揮を取っており、最大限隊内で回そうとしているようだが流石に限度がある。
 先程も三席からは随分と申し訳無さそうな顔をしながら多少ずっしりと重みのある書類を渡されたばかりだ。他隊の業務となれば放置する事も出来ず粛々と処理を続けては居るが、この状況が続くというのはあまり考えたくない。

「七緒さんも随分お急がしそうですね」
「ええ、千世さんと同じですよ。十番隊もですが、十一番隊も似たような状況ですからね」
「仕方ないとは分かっているんですが…前に比べて虚の出現も増えてませんか?もう承認の押印にも飽きて来ました」

 千世の言葉に伊勢は笑う。彼女の言葉で思い出したが、十一番隊も確か三席の斑目と五席の綾瀬川が先遣隊として現世へ向かったと聞いていた。所々でそういった人員の抜けが発生して、それが回り回って来ているのだろう。
 連日の事務処理に千世はぐったりとしていたが、伊勢はいつもとあまり変わらない様子だ。流石京楽の下で長く努めているだけあってこの程度で音を上げることは無いのだろう。

「でも、千世さんは充実してるんじゃないですか?」
「あ…臨時講師の件ですか?」
「ええ、それもありますが…」

 急に何を言い出すのかと千世は疑問符を浮かべて彼女に視線を返す。伊勢は少し辺りを見回すようにすると、千世の方へ一つ身体を近づけた。耳打ちをするような仕草に、あまりピンと来ないまま顔を近づけた。

「好い方が出来たらしいじゃないですか」
「…えっ!?」
「あら……違いました?」

 急な話に、思わず千世は素っ頓狂な声を上げた。予想通りの反応とでも言うように、彼女は珍しくにやりと笑うような表情をする。
 心当たりは勿論十二分にあったが、伊勢の言いようではまるで噂が広がっているかのような様子だ。まさか浮竹の屋敷に出入りしている姿を見られたか、それとも執務室での会話を盗み聞かれていたか、雨乾堂へ夜分出入りしていたのを見られたか、と思い出せば心当たりばかりが過ぎり冷や汗が垂れる。
 時間が経つに連れて警戒がなおざりになっていただろうか。十分用心をしていたつもりだったが、あまり慣れてしまうと徐々に気が抜けてしまうものだ。
 どきどきと脈打つ心臓を落ち着けながら、千世は一つ静かに深呼吸をする。思い出すほどに、何処かで誰かに見られていてもおかしくなかった。最近は気が緩んでしまっていたかと、遅まきながら反省をする。

「最近やけに噂されてますよ。私の耳に入るくらいですから」
「…その、それは一体…私は誰と噂されて……」

 こうなれば浮竹にも正直に話すしか無いだろう。伊勢の耳に入るほど広く噂になっているというのならば、もう止める術も無い。恐らく暫くは周りの目が痛く感じるだろうが、辛抱をする他ない。
 念の為に伊勢に聞いたものの、その口から彼の名前が出てくる事がひどく恐ろしい。一体どんな反応で返せば良いのかふと考えては見るが、どれも正解では無いように思えた。

「九番隊の檜佐木さんと聞いてますが」
「えっ!?……えっ!?」

 思っても居なかった名前に、千世の思考が固まる。心の準備を少なからずしていたというのに、まさか大きく外されると拍子抜けをするというものだ。

「それは…誰から聞かれたんですか?」
「勇音さんです」
「ああ、勇音さん……」

 ああ、と千世は思い出す。先日食堂で昼食を取っている時に偶然檜佐木と出会ったのだ。互いに休憩時間にも余裕があり、暫く話し込んでしまったのだが確かその時に勇音の姿を見かけていた。慌てたように食堂から出ていった後ろ姿がやけに印象に残っていたのだが、まさかそういう事だとは思わなかった。
 恐らく食堂の一番隅の、目立たないような場所で話し込んでいたのが悪かったのだろう。よっぽど親密な様子に見えたのか、それを早とちりされてしまったとは不覚だった。

「違う違う、檜佐木君とは何も無いです。ただの同期ですから」
「あら、そうだったんですか…お似合いだと思ったんですが」
「いやいや、檜佐木君はもっとこう…ほら、大人の女性、って感じの方が好みですし」
「そうなんですか?…まあ、彼にあまり興味は無いですけどね」

 伊勢はなんだ、と残念そうな様子で一つ息を吐いた。色恋沙汰の噂話に珍しく食いつくなど、よっぽど隊舎で息が詰まっているのだろうか。それとも仲が良い千世の噂話だから多少興味があったのかも知れない。
 勇音には次会った時に一応説明をしておく必要はありそうだが、根も葉もない噂ならば放っていてもいずれ消えてゆくだろう。どの程度広まっているか分からないが、檜佐木には暫くの間噂が静まるまで我慢をしてもらう他無い。
 少し話し込んでしまったかと千世が書類を抱え直していると、建物の影からふっと現れた浮竹の姿に思わずびくりと跳ねた。千世の様子に不思議そうな顔をした伊勢が振り返ると、彼と目線が合ったようで一つ頭を下げる。

「浮竹隊長も十番隊帰りですか?」
「いや、俺は京楽に用事があってな」
「京楽隊長、隊舎に戻られてたんですね。昨日からずっと見当たらなくて」

 伊勢の冷たい声に千世は思わず浮竹と共に背筋を伸ばす。まさかここで浮竹が現れるとは思っても居なかった千世は、先程の伊勢との会話を思い出し早々に立ち去ろうと手に持っていた書類を抱え直す。
 あまり居座ると話をぶり返される可能性がある。では、と口を開きかけたが伊勢の言葉に遮られた。

「そういえば浮竹隊長はご存知でしたか?」
「ん?何の話だ」
「いえ、大した話じゃ…」
千世さんの好い人のお話ですよ。最近そのようなお話を耳にしたので」

 何を言い出すのだと千世はすぐにでも伊勢の口を押さたいものだったが、書類で手がふさがっていてどうにもならない。興味津々と言った様子の浮竹に千世はどうする事も出来ずただ横で慌てるだけだ。
 今すぐにでも浮竹を引っ張って帰りたいものだが、下手に焦っても不自然だ。やけに饒舌な伊勢に必死で視線を送るが、気づいていないのか気づかない振りなのか顔を見ない。

「いや、初耳だな。一体誰と好い仲なんだ」
「い、良いじゃないですかそんな話…」
「九番隊の檜佐木さんですが、たった今否定されてしまった所です」
「七緒さん…!」

 千世の必死な表情を見て伊勢はふっと笑う。数秒前に戻れるならば伊勢の口を力づくでも塞いでやりたい。疚しい何かがあるわけでは無いものの、根も葉もない噂を恋人に聞かされる様子を目の前で繰り広げられるというのは心臓に悪いものだ。
 また彼女は眼鏡をくいと上げると、では、とやけに爽やかな表情で口を開く。

「では私はこの辺りで。浮竹隊長、もし千世さんのお相手がお分かりになったら私にも教えて下さい」
「七緒さん!」
「冗談ですよ。それでは」

 軽く腰を折り、伊勢はくるりと背中を向けて八番隊舎の方へと去ってゆく。事務仕事ばかりでよほど息が詰まっていたのか、でなければああも千世の事をからかう事は珍しい。
 浮竹と二人で彼女の背中が消えるまで見送っていれば、帰るか、と一言を横で呟かれ千世は頷いた。

「そんな噂が出ていたのか」
「私がこの前檜佐木君と昼食を取ってたので…そこからみたいです」

 諦めたように千世は話すが、どこか彼の表情を見る気になれなかった。もし浮竹も同じように千世以外の女性との噂が出ていた想像すると、決して良い気分では無いと思ったからだ。
 もしかすれば彼は特に気にも止めていないかもしれないが、勝手に気まずい気分が広がり押し黙る。
 暫く特に会話もないまま十三番隊舎までの道を歩いていたが、ふと立ち止まった浮竹に名前を呼ばれた。彼の数歩前で千世は立ち止まると、不思議に思いながら彼を振り返る。
 浮竹はそのまま千世の方へ歩みを近づけると、腰を折り見上げた千世へ顔を寄せた。

「なっ、なんですか…!?」
「駄目だったか」
「誰か居たら!…誰も居ないですけど…」

 まだ唇に残る柔らかな感覚に千世は心臓をばくばくと鳴らしながら、顔を真赤にして訴える。周りに人が居ないとは分かっていても、いつ誰が通りかかってもおかしくないような場所だ。白昼堂々と危険を楽しむような性格では無いというのに、全く予想外の出来事だ。
 伊勢といい、浮竹といい今日は何時もと変わっている。仕事に追われ疲れた精神のやり場に困っているのだろうか。いずれにしろ、色々と運が悪かった。
 すまん、と笑う浮竹に千世はまだ赤い顔のままがっくりと頭を垂れる。外だからと完全に油断をしていた。いや、元より警戒などしては居ないのだが。

「…そういうのは、二人きりの時にして下さい」

 前を歩き始めた浮竹に聞こえるか聞こえないかくらいの声で千世は呟く。軽く振り返った彼はまた立ち止まり、千世もそれにつられた。
 暫く黙っている姿に思わず声をかける。何かまずい事でも言ってしまっただろうかと少し様子を見ていたが、何でも無い、といつもと同じ笑みにほっとした。
 ただの伊勢との立ち話のつもりが、妙な噂を聞かされさらに浮竹に伝えられるなどとは思っても居なかった。偶然というのはどうしてか重なるものだ。まだ多少浮竹が気がかりではあったが、その表情を見るに千世が思うほど特に気にはしていないのだろう。
 手にした書類を持ち直し、ふわりと髪の靡く背を追いかけた。

 

 

恋と上澄み
2020/08/30