忘憂のゆうづつ

おはなし

 

 袴の帯を締めながら壁の時計に目を遣ると、もう昼時だった。
 朝一番で四番隊のこの診察室に来た筈だったが、途中うとうととして居眠りをしてしまったせいで全く昼時のような気がしない。
 今日は月に一度の検診だったが、毎月のことながらあまり好きな時間ではなかった。ほぼ全裸に近いような格好で寝台に転がり、卯ノ花の小さな溜息を聞くたびに薄っすらと不安が広がる。結局毎回特に問題はなく今後も現状維持という事で終わるのだが、都度寿命が縮まっているような気がしなくもない。

「体力が落ちてらっしゃるようですから、滋養強壮のお薬をお出しします」
「はあ…すみません。この所立て込んでいたもので」
「頑張られるのも良いですが。あまりご無理をされると貴方は回復までに時間を要しますから、程々に」

 すみません、と一つ頭を下げる。あの一件から事後処理やその後は調査などで立て込んでいた為あまり満足に休暇も取っていなかった。忙しくしている間というのは己の体調にあまり気が回らないもので、まあ言われてみればここの所特に疲れやすいような気もした。
 羽織に腕を通して身支度を整えていれば、珍しく卯ノ花が何と無い様子で口を開いた。

「この所良く四番隊で日南田副隊長の姿を見かけますよ」
千世ですか…?」
「ええ、伊江村三席と親密な様子で」

 は、と思わず声が漏れ咳払いで誤魔化す。思っても居なかった名前だ。
 全くそんな話を彼女から聞いていない。休日や就業後何処で何をしているかなどわざわざ彼女が報告するわけも無く、浮竹自身もあまり掘り下げるような事はしない。
 かといって気にならない訳では無く、あまり個人的な用事を把握したり口を挟むような事が大人げないと分かっているから避けているだけだ。
 最近は随分臨時講師との兼ね合いも慣れてきたのか、余裕があるように見える。この前の休日にはまた四番隊の山で薬草採取をしてきたのだと聞いたばかりだ。まさかその時に伊江村と親密にでもなったというのだろうか。

「ご心配されるような事はありませんよ。回道の手ほどきを受けているようです」
「回道の…?それまた、どうして」
「さあ、理由までは聞いておりませんので」

 回道のある程度ならば浮竹でも十分手ほどきくらいは出来るというのに、なぜわざわざ四番隊に出向いてまで。
 彼女のことだから隊長の手を煩わせるような事は避けたいと思っているのだろう。何の目的で回道にまで手を出し始めたのかは分からないが、随分と熱心なことだと感心する。
 日頃平日朝から夜まで働き詰めだというのに、よくもそんな体力が残っているものだ。つい先日は寝不足が原因で珍しく倒れていたが、一眠りした後はまた変わらない様子で業務に戻っていた。
 それ以来、無理をしている様子には見えない。以前は時折音を上げるような事もあったが、ここ最近はやけに充実した姿を見せている。何か多くを抱えることが今は昔ほど苦では無いのだろう。知らない所でまた彼女が成長しているというのは喜ばしい事だ。

「筋は良いみたいですよ、日南田副隊長」
「ああ、そうですか。まああの子の性分を見ても、向いているとは思いますよ」
「あら、それならばぜひ四番隊に頂きたいものですね」
「卯ノ花隊長が言われると、冗談に聞こえませんよ…」

 卯ノ花は特に否定もせず上品に笑う。その表情からは全く真意が読めず、半ば本気で言っているようにも見えた。

「十三番隊は彼女に居て貰わないと困りますから」
「あらあら、何も私は本気で言ってる訳ではありませんよ」

 重ねた言葉を、笑ってあしらわれた。多少真剣に申し出を拒否をした事がやけに恥ずかしく思えて目を逸す。この歳になって簡単にからかわれるとは情けない。
 彼女の人生がどうのこうのと思いながら、結局は傍に置いていたいという事なのだろう。手の届く、目の届く範囲に置いている事で安心している。咄嗟の時に本音というものは漏れ出すものだ。
 余裕の笑みを少し恨めしく見つめた。何処か釈然としない気持ちのまま、ぎちぎちに詰められた薬袋を手にして部屋を出る。

「よほど大切にされてるのですね」
「…ええ、まあそれは…唯一の副隊長ですから」
「それだけが理由のようには見えませんが」
「……はい?」
「いえ、こちらのお話です」

 思わず振り返りぽかんとしていれば、笑顔のままぴしゃりと戸を締められた。
 あまり深く考えるだけ時間の無駄だろう。四番隊舎を後にすると、そのまま飲食店の立ち並ぶ通りへ出る。昼時という事もあって多少賑わっており、適当に席の空いている定食屋を探しながら何件か覗いていた。
 そんな中どうやら同じような状況だったのか、目付きの悪い青年と鉢合わせをした。一瞬先日の話のせいで千世の事が頭を過ぎった浮竹は暫く彼を見つめたまま立ち尽くしていたが、一つ頭を下げられ、ふと我に返る。

「檜佐木君も昼食かい」
「はい、瀞霊廷通信の校正も一段落したんで気晴らしに」
「ああ、もうそんな時期か。いつも感謝してるよ」
「いえ、こちらこそありがとうございます。今月は休載が多い中、浮竹隊長にはしっかり事前に原稿を頂いていたので助かりました」

 隊長の東仙が離反してから間もないが、瀞霊廷通信の発行を止めるような考えが彼には無かったようだ。変わらず今月も刊行される様子に多少安心をする。
 体調不良での休載をなるべく避けるため、自身の連載分に関しては予め調子が良い時に纏めて執筆した原稿を既に回していた。しかしまさかこのような形で役に立つとは思わなかった。
 丁度目の前の定食屋から二名が会計を済ませて退店したのと同時に、店員にどうぞと中へ案内される。一瞬二人で顔を見合わせたが、ここで別に行くというのも失礼な話だからそのまま暖簾をくぐった。
 調理場に面した席に横並びで腰を掛けると日替わりの定食を注文し、出されたお冷を飲み込んだ。

「最近、日南田は元気にしてますか」
「ああ、以前にも増して精力的に活動してるよ」
「それなら良かったっす」

 今まで特に感情を見せなかった口元がふっと緩んだ。彼の千世に対する思いが一体どういうものであるかは分からなかったが、決してそれが悪いものでない事だけは伺える。
 以前から気づいていたことだが、千世の話になると彼は途端にその表情を緩ませる。それは六年間を共に過ごした仲間に対する信頼の表れなのか、それとも。元々色恋沙汰に浮竹は無頓着な方だったから、あまりそういった勘繰りには慣れていない。
 余計な事を考えるだけ感情を消費するだけだと、冷たい水を喉に流しながらそっと蓋を閉じる。

「この前、日南田とも偶然食堂で会って飯食ったんですよ」
「ああ聞いてるよ。随分話し込んだそうだね」
「流石、話が早いっすね…あいつが臨時講師で霊術院に行ってる話聞いてたら、結構時間経っちゃって」

 積もる話もあったのだろう。同期生が講師として再び学び舎に戻っているというのはあまり無い事だ。どうやらその話し込んでいたお陰で二人が恋仲であるような噂が流れたようだが、それを彼は知らないのか何ということの無い様子だ。
 しかし檜佐木と二人きりで昼食を共にする事など珍しい事だ。特に個人的な共通点も無く、これが最初で最後の可能性だってあるだろう。浮竹はふと口を開く。

「あの子は、学院時代どんな様子だったんだ」
「どんな様子…ってのも、説明しにくいっすけど…結構無気力っぽい生徒でしたよ」
「無気力か…霊力もそれなりで、筋だって悪くは無かっただろうに」
「そうなんですけどね…先生も良くそれで嘆いてました」

 成績が良くなかったという話は良く本人から聞いていた上に、実際に成績表を浮竹は確認している。だがどのような学生生活であったのかというのはあまり聞いたことが無かった。
 常々気になっていた事もありつい彼に尋ねてしまったが、少しばかり罪悪感もある。彼女が特段話す事のない学生時代を垣間見るというのは、人の日記帳を黙って読むような疚しさがあるものだ。

「確か卒業年あたりで急に変わったんですよ。何が切欠かは分からないんすけど」
「成程、それで入隊した時にはもうあの様子だった訳か」
「はい。それまでは授業も聞いてそうで聞いて無いし、試験も薬草学以外はからっきしって感じで。だから、席官に上がったって聞いた時は素直に嬉しかったっすよ」
「…そうか。優しいんだな、君は」
「止めて下さい、そういう褒められ方苦手なんで」
「いや、同期生の昇進を素直に喜べる死神はあまり居ないよ」

 丁度机に運ばれてきた定食の前で手を合わせる。具体的な話という訳ではないが、彼女が学生時代にどのような空気の中過ごしていたのか薄っすらとその欠片を見た。
 彼女と同じ時間を過ごすほど、知らない事を知りたいと思う。それは過去に対する嫉妬に似た感情なのだろう。過去に遡ることなど出来るわけも無いと分かっているが、それでも時折燻る事がある。
 全てを知りたいとまで言うわけではないが、しかし少しばかりそうして欠片を知るくらい罰は当たらないだろう。

日南田は大切にされてますね」

 檜佐木が何となしに言った言葉に、浮竹は思わず筑前煮の里芋を掴み損なった。先程も同じような事を、何か含んだように卯ノ花から言われたばかりだ。変に言葉を発すれば墓穴を掘りかねないからと、そのまま黙る。

「隊風なんでしょうけど。隊長から席官まで良い関係っすよね」
「そうかい、褒められると悪い気はしないな」

 そういう事かと、内心安堵した。先程掴み損ねた里芋を口に運びながら、隣に座る青年の誠実さに多少の後ろめたさを感じない訳ではない。
 彼女を思う気持ちは上司としてのそれだけで無い。それを何の不純物も無いような言葉で褒められれば、形容し難い感情が生まれるものだ。咀嚼した里芋を飲み込み、喉越しを流すように味噌汁を口に含んだ。
 千世とは朝から顔を合わせていなかった筈だが、どうもそのような気がしない。浮竹の知らない所で彼女が様々な関係を作り、過ごしている事を知る度にその充実した日々を喜ぶ気持ちと、少しばかりの寂しさを感じる。それはまるで娘を見守る父親の感情に似ていると自覚している。
 現在の自身の年齢を見れば、千世くらいの子がいても何らおかしくはない。しかしそれと決定的に違うのは彼女の視線の先に自分が居る事を望んでいる事だろう。そして何より取ったその手を離したくないと思う。それは彼女に対しての感情がただの愛情だけでない事の証明になる。
 ごちそうさま、と聞こえた声に浮竹は横を見ると檜佐木がすっかり空になった食器の前で手を合わせている。財布を取り出そうとした手をそっと制した。

「…いいんすか?」
「話に付き合ってくれた礼だよ」

 伝票を彼の手から取り浮竹は笑う。彼もそれを期待していた節がありそうな表情をしている。頭を下げて去っていったその背を見送り、手元にまだ僅かに残った白飯を箸ですくった。丁度入れ替わりに客が入り、先程まで檜佐木が居た隣の席へと腰を下ろす。
 昼下がりの定食屋はまだ賑わいが続いていた。

 

忘憂のゆうづつ
2020/09/03