得意なのは春のふり

おはなし

 

「知ってるか松本。此処は俺の執務室だ」
「知ってますよ、だから千世呼んだんじゃないですかあ」
「………」
「あの!日番谷隊長も早く呑んで下さい!」

 日番谷はうんざりとした表情のまま何やら手元の分厚い本をバタンと音を立てて閉じる。
 あの一件から暫く経ち、一番隊舎で昨日偶然出会った千世と久しぶりに呑もうかという話になったのだ。込み入った話になる事も考えられるからと松本は十番隊舎に呼び出し、丁度いい場所として日番谷の執務室で宴会を始めた。
 もう定時を過ぎて二時間は経っている。初めは一応小声で話していたものの、酒が回り始めると互いに声量も上がり日番谷の苛立ちも増してゆく。時折怒鳴っているが、だがどうしてかこの執務室から出ては行かない辺りが不思議だった。

千世、臨時講師の仕事はどうなの?」
「あーうん、まあ…楽しいといえば楽しいんだけど」

 千世は僅かに口ごもる。直接聞いた訳では無かったが、彼女が霊術員で薬草学の臨時講師となっている事を風のうわさで聞いていた。隊長ともなれば、特別授業という事で招かれていることは少なくなかったが、副隊長で臨時講師というのは珍しい。
 薬草学の教師は高齢で引退も近いから、そのまま引き抜かれる算段なのではないかと薄っすら話題に上がっていた。

「不満でもあるの?楽しいんなら良いじゃないの」
「不満って訳でも無くて…仕事は清音さんと、小椿さんも手伝ってくれるし…」
「いいなあ、羨ましいわ…あたしもう月末の提出書類うんざり」
「…おい松本、毎月俺に半分以上手伝わせてんの忘れてないだろうな」
「だって隊長が毎月手伝いたそうな顔してるんですもん」
「お前が三日前にならないと手付けないからだろ…!」

 口元をひくひくとさせながら言う日番谷に、松本はへらへらと笑う。
 千世の空いた器につまみをうつすと、じっと机を見つめたままつまんで口に入れた。もう既に相当酒が回っているんだろう、時々うとうととしてははっと目を覚ますような事を繰り返していた。
 あまり強い訳でも無いというのに、酒を注がれるがままに飲む所を見ると色々と吐き出したい何かがあるというのは分かる。卒なくこなしているように見えるが、慣れない事も重なり一人で色々な思いを抱えているのだろう。
 千世は手元の猪口に手酌で注ぐと、一気に口に含んだ。もう彼女一人で帰る事は絶望的な酒の進み方だ。

「なんか、私が居なくても隊は回るんだなって思って…」
「なに、そんな事悩んでたの」
「そんな事って、私にとってはすごい悩みだったのに…日番谷隊長!」
「俺を巻き込むな」

 暫くにべもない態度の日番谷を千世はじっと見ていたが、大きくため息をついて机に突っ伏す。

「今隊長が抜けたとこ、あそこだって色々あるけど結局回ってんのよ。隊長が居なくたって回るんだから、副隊長一人がちょーっとだけ抜けた所で回るに決まってんでしょ」
「…確かに……そうなんだけど…」
「分かるけどね、その気持ち」

 代わりなんていくらでも居る。千世だってそれを分かっているはずだろう。護廷隊ともあれば、同僚や上司を失った事は一度や二度ではない。あの人がいなければといくら絶大な信頼を集めていたとしても、失われれば代わりが必ず現れる。
 千世が副隊長へ上がった時にもそれは嫌というほど感じたことだろう。口寂しいのか、つまみをどんどんと口に含みながら千世は眉をハの字にする。

「結局誰かが抜ければ、誰かがその穴を埋めるのよ。元通りにならなくても。組織なんだからそれは当たり前でしょう」
「そうなんだけど…分かってるんだけど…」
「なに、あんた泣いてんの!?ほんと面倒くさい酔い方よね」

 ぼろぼろと涙を零す千世の頭に手を伸ばし、松本はぐしゃぐしゃと撫でる。あまり褒められた酔い方ではないが、偶にはこういう場も彼女にとっては必要なのだろう。改めて執務室を選んだことは正解だった。

「だって、浮竹隊長の横に居るのは私なのに、私じゃなくてもいいみたいじゃん…」
「組織としてはそうなのよ。でも、それと浮竹隊長の思ってることとは別でしょ。あたしが知ったこっちゃないけど」
「私が副隊長じゃなくても別に良いって、隊長が気づいたら…下ろされるかもしれないじゃん…」
千世あんたどんな酷い思考回路してんのよ…まあ、すっきりするまで泣きなさい」

 その言葉にわっと泣き出した千世を松本は笑いながら見る。うるせえ、とうんざりした日番谷の声を聞きながら空いた千世の猪口に酒を注ぐと、鼻をすすりながら一瞬で飲み干した。
 しばらくぼそぼそと泣き言を言う度に松本は適当に相槌を返して酒を促す事を続けていたが、とうとう突っ伏したまま動かなくなった。あーあ、とわざとらしく声を上げ名前を呼びながら身体を揺らす。
 うーんと声を上げるとそのまま椅子から崩れ落ち、床で口を開けて眠り始めた。そのひどい姿に松本は笑う。

「何だ、今の音」
千世ですよ」

 立ち上がった日番谷は、千世の横に佇んでじっとその様子を見下ろす。

「寝てんのか、それ」
「死んでは無いと思いますけど」
「明日の朝も此処に居たら纏めて叩き出す」
「それは大丈夫でーす!もうすぐ王子様が来るんで」

 は、と呆れたような顔をした日番谷はそのまま何も言わずに部屋を出て行った。元より何を考えているのかは分からないが、千世に対しては一層分からない。いつもどうしてか、千世との宴会は一応最後まで見届ける癖がある。
 二人だけになった部屋の中で、床に寝転ぶ千世を松本は椅子に座ったまま見下ろした。涙の後が頬に残っている。そろそろいい年だというのに、いつまでこの酷い酔い方を続けるのだろう。あまり人に言えた立場ではないが、ここまで無防備に寝転がっているのを見るとそうも思いたくなる。
 ぐい呑の中身を口に含みながら時計に視線を移すと、そろそろかと思いながら窓の外を眺めた。一瞬窓に影が過り、間もなく現れた姿に松本は手を挙げる。

「あ、浮竹たいちょお!いらっしゃる頃だと思いました」
「……これはどういう状況なんだ」
「見ての通り、酔い潰し…潰れた千世ですよ。持って帰ってくれません?」

 床に転がった千世を見て浮竹はため息をついた。その横へしゃがむと赤く色づいた頬を軽く叩く。うーんと唸る様子に、浮竹は呆れたように笑った。
 少しして眠そうに千世は目を開いたが、うわ言のように何かを呟くとまたぐうと寝息を立てた。浮竹はその様子に見切りを付けたのか、千世の身体を無理矢理起こしそのまま抱え上げる。
 浮竹の腕の中に収まる千世の姿を、松本は思わずまじまじと見つめた。想像していたよりもずっと自然に視界へ収まる二人は、知らない所でいつの間にか同じ時を重ねていたのだろうと感じるに十分だった。

「元々潰すつもりだったんだろう。あの怪文書を送りつけたのも松本君だね」
「失礼ですね、千世がちゃんっと安全に帰れるように配慮したんですよ」
「副官が隊長を籠代わりかい…」

 また一つ溜息を吐いた浮竹を見て松本は笑う。しかし怪文書と呼ばれるのは心外だ。恐らく今日は相当飲むことになるだろうからと、予め浮竹宛に一通、夜十二時頃に十番隊舎へ来るようしたため呼びつけていたのだ。
 このまま松本の執務室へ移動させて泊めてやっても良いのだが、帰巣本能が強い千世は少しでも意識が戻れば必ず帰ると喚く。松本が寝ている深夜にふらふらと意識も判然としないまま帰られては、流石の瀞霊廷でも身の安全が保証できない。
 もぞもぞとまた動き始めた千世は、何やらぐずった子供のように鼻をすすって聞き取れないような言葉を呟く。まださっきの会話が頭の中で続いているのかも知れない。彼女の中で割り切れない思いが色々とあるのだろう。

「その子、お酒呑むと泣き言ばっかりすんごくウザいんですよ。知ってます?」
「聞いてはいるが…実際そこまでの現場を見た事は無いな」
「一回見て欲しいくらいですよ、泣きながら酒飲むんですから」
「それは…迷惑を掛けて申し訳ない」

 酷い有様が想像出来たのか、浮竹は眉を曲げて軽く頭を下げた。

「でも、浮竹隊長には見られたくないのかもしれないですね」
「…見られたくない?」
「なんか変に気持ちを隠すっていうか、そういう所あるじゃないですかこの子」

 なーんて、と松本は笑う。やけに神妙な表情の浮竹を見て、慌てて誤魔化した。下手に首を突っ込むべきではないと分かっているのだが、千世の妙に不器用な部分を見るとつい口を出したくなる。

「全てを知りたいと思うのは、傲慢かと思ってね」
「…そうかも知れませんね。でも、言わなきゃいけない事を言わないのは、ずるいと思いますよ」
「言わなきゃいけない事か」
「明日もし死ぬとして、死ぬ寸前にああ言っとけば良かったなって、思いたく無くないですか?あたしは少なくとも、今死んだら死ぬほど後悔しますね」

 なんて、とまた松本は自分の言葉を茶化すように笑った。

「相手を完璧に想う事は出来ないよ」
「…浮竹隊長って、恋愛理詰めのタイプですか?」
「理詰め…いや、そうは思わないが」

 そう言って浮竹は苦く笑う。彼の腕の中の千世はすっかり大人しくなり、穏やかな寝息が聞こえる。それが時間の経過なのか、それともその心地よさからなのかは分からない。
 ただそれは、少しだけ羨ましく見えた。

千世の事、暫くよろしくお願いしますね」
「分かっているよ。ありがとう」

 融けるような優しい声だ。松本は去ってゆくその背中をぼうっと見送る。
 今日は不思議とよく酔えない日だった。まだもう少しだけと並々と注いだ酒を一口喉へと流し込み、溜息に似た深く長い息を、細く吐き出した。

 

得意なのは春のふり
2020/08/22