待ちわびた赤

50音企画

待ちわびた赤

 

 浮竹は一人雨乾堂で呆然と過ごしていた。終業の鐘が鳴ったのを聞いたか聞いていないか、あまり記憶がないが時計を見るともう終業時刻を過ぎているからきっと鳴ったのだろう。
 昨日からずっとこの調子だった。というのも、千世に月のものが来ていない。そう告げられたのは一昨日の夜の事だった。初めは突然の話に驚いたものだが、もしそれが新たな命を宿したという事ならば実に喜ばしいことだと思った。
 恐らく千世も随分悩んだのだろう。不安そうな様子でぽろぽろと言葉をこぼし、今にも泣き出しそうな表情をするものだから浮竹はその細い身体を力いっぱいに抱きしめたものだ。嬉しいことじゃないかと笑えば、まだその不安さが残るような顔でぎこちなく笑い返した彼女の表情が忘れられない。
 だがしかし、避妊に関しては気を遣っていた筈だった。彼女と肌を重ねるようになってからは技術開発局製の避妊薬を入手し、間違いなくそれを互いに必ず飲んでいた筈だった。どういう成分であるかは全く分からないし知りたくもないが、避妊率は十割と謳っており各方面からの評判も聞いていたのだが。
 新しい命を望んでいなかった訳ではない。実際に今彼女の中に宿る命を何よりも愛しいと思うし、自分が父親になる事に対して言いようのない思いが芽生えている。
 しかし彼女は今の隊にとって必要な存在であり、彼女自身もまだ副隊長としての責務を果たしたいと望んでいた。妊娠となると身体の事を考えれば今まで通りに勤務する事は難しい。浮竹自身も、彼女に無理をさせたくはない。正直なところ、今からだって休ませてやりたいと思う。
 だが、まず待て。子供どうのと言う前に、まだ彼女とは夫婦になっていないではないか。突然身籠ったから休隊などとなれば隊は騒然とするだろう。夫婦にもなっていないというのに何先のことばかりを考えている。まず夫婦になる為、彼女へ改めて求婚をしなくてはならない。
 本当ならば、彼女をしっかりと守る意思を伝えてから新たな命を授かりたかったものだが、だがこうなった以上仕方がない。新たな命を含め二人を守る事を彼女へ真摯に伝え、それを受け入れて貰わねばならない。
 突然こうも多くのことが訪れると思考は鈍くなるらしい。一昨日の夜に千世から話を聞き、昨日目覚めてからずっとこの調子だ。とその時、部屋の外から愛しい相手の声が聞こえ思わず慌てて立ち上がり、そっと襖を開き彼女を招いた。

千世、身体は平気か」
「はい、それが…」
「ああ待て、座布団は三枚敷こう。柔らかいほうが良い」
「あの、それが…」

 一番綿のふかふかとした座布団を三枚選び、重ねると千世に座るよう促す。今日も椅子へずっと腰掛け机に向かっていたようだが、座りっぱなしというのは母体に良くないのではないだろうか。あの固いつまらないものでなく、もう少し質の良い椅子を用意してやるべきだろう。
 そわそわと落ち着かないまま、浮竹は立ち上がり茶箪笥の湯呑に手を付ける。

「茶…は良くないか、昨日本で読んだ」
「隊長、来たんです」
「ああそうか、それは良かっ……え?」

 月のものが来たのだと、そう言って彼女は安心したように頷く。体調が悪かった時期があったから遅れたのかも知れないと、彼女の述べる見解を浮竹はぽかんとしながら聞いた。そうか、と一言呟く。約二日間考え続けていた事は全て杞憂に終わったということか。
 ご心配をおかけしましたと頭を下げる千世に、浮竹は首を横に振る。彼女がまだ副官として傍に居てくれる事を何よりも安心するべきなのだろうが、いやだがこの感情は何と表せばよいのかが全く分からない。
 一瞬は思い描いてしまった未来は、まるで夢のように靄となって消える。突然の事に、一番不安だったのは彼女に他ならない。自分は違う、ただ彼女との未来を少しばかり夢を見てしまっただけだ。彼女がそれで良いのなら、これで万事良いではないか。安心したように笑う千世に、特に気の利いたことを言えないまま、浮竹は無理に口角を上げて頷いた。

(月のものが来ない/覚悟を決める/頂いたおだいばこより)