官能小説家の食卓
「浮竹さ、こう大人向けの話とか書けないの」
何を言い出すかと思えば、また突拍子もない事を。浮竹は無言で首を横に振る。
確かに瀞霊廷通信で連載を持っているとはいえ、だからと言って京楽の言うような大人向けと呼ばれるものを書ける訳ではない。いやしかし、書こうとすら思ったことがない身であるから書けないというのは些か表現として違うような気もする。
書こうという意志さえあれば、書けるのやもしれないがしかしそんな気は更々無い。何故そう下らないことを言い出したのかと尋ねれば、京楽はただ思いついただけだと手元の盃を煽って言った。
「書いてみなよ」
「必要もないのにどうして書く」
「新たな才能が芽生えるかもしれないじゃない。官能小説家としての浮竹十四郎が」
意味が分からない。あまりの突拍子のなさに笑いの混じったため息を漏らす。しかし未だ一度も試したことのない事だから、京楽の言う通りもしかしたならば才能が開花するという事が無きにしもあらずだ。
元々文字を書くのは嫌いではないし、架空の物語を組み立てるくらいの想像力はある。だから毎月の連載を続けられている訳なのだが。はじめは下らないと切り捨てそうな会話だったが、しかし物書きの端くれとして新たな領域への挑戦というものに多少の興味が湧いてきた。
いやだが、新たな領域など官能以外にも多数あるはずでそこに拘る必要は無い。だというのに、その唐突な提案がどうにも京楽からの挑戦のようにも思えて来、まあ一作くらいならば試しに書いてみるのも悪くないかと思い始める。
「まあ、今の連載も小さい子向けだしねえ。急に大人向けなんて書けるもんじゃないか」
「…いや、書ける」
そう言うと、京楽は驚いたように目を見開いて疑うような言葉を発した。自分から言い出しておきながら、驚かれる理由がわからない。
「だって官能小説だよ。男女のこう……浮竹、書けるの」
「元はと言えばお前が言い出したんだろう。書くよ」
「千世ちゃんが居るのに?」
「だから書けるんだろう」
物語を作る上で、参考にするものは必要だろう。勿論全てが全てなぞる訳ではないが、多少なりとも実践的な経験や、心理的な経験、知識がなければ恐らく成立しない。それはこれから挑まんとする官能小説だけではなく、全ての物語において共通する事だろう。
と、意気込み思ったのだが京楽はやけに必死な様子でやめよう、と一言つぶやく。
「いや、やめよう浮竹。ボクが悪かった」
「意味が分からん、お前が言い出したんじゃないか」
「ごめん、本当に思いつきだったの。だからやめよう」
言い出した癖に。むっとしながら徳利を持ち上げれば先程まで満たされていたはずが、もう空になっている。気づけばそうして空になった徳利が机の上には無数に並び、まあ確かに頭もぼうっとしている。
流石に酔ったか。まあ、そうでなければ官能小説を書いてみようなど滅茶苦茶な思考回路に至るまい。思わず笑った後、はあ、とため息を吐き机に額を落とせば、そのまま瞼が否応なしに落ちた。願わくば、目を覚ました時にこの数分の下らない会話の記憶の一切合切が消えていてくれ。