同じ春を踏む

おはなし

 

 池にぱらぱらと餌を撒くと、足元で口をぱくぱくとさせていた鯉が一斉にひしめき浮かぶ餌を争い始める。雨乾堂の格子窓から眺めるとそのゆったりとした泳ぎには癒やされるものだが、一度餌の気配を感じればこの様子だ。
 水が跳ねるほどの激しさがしかし案外嫌いではなく、時折こうしてぼうっと眺めることが有る。一匹ずつに名前はないし、何匹居るかも分からないがこの池で立派な大きさまで育った彼らには多少の愛着があった。
 この所、十三番隊は賑やかな日々が続いていた。現世で任務に当たっていた朽木が帰ってきていた。井上織姫という先日の旅禍騒動でこの瀞霊廷へと侵入した少女と共に、今は修行に明け暮れている。
 特殊な能力を持っているとはいえ、現世で生きる人間の少女が隊舎で暮らすなど通常では有り得ない事だ。物珍しさに他の隊では噂を聞きつけ覗きに来るような者も居る。何にせよ、どこか浮足立ったような隊の様子は嫌いではなかった。
 現世では引き続き破面との衝突が続いており、関連しているかは不明だが尸魂界でも虚の出現は激増している。何処かで皆不安なのは同じで、この嵐の前の静けさにおいて無力さを感じる者も多いだろう。
 手にした袋から、また餌を掴み水面に撒く。びしゃびしゃと跳ねる鯉の水しぶきが顔に跳ね、それを手の甲で拭った。先程の餌でもう飽きたような鯉は、少し離れた場所でその尾びれを水中で揺らしている。
 その姿を時折羨ましく思う事がある。思わず見惚れるような美しい鱗の装いと反して、悩みを何も持っていないようなそのとぼけた表情が羨ましい。かと言って、鯉にしてやろうかと言われた所で首を縦に振ろうとは思わないのだが。
 空になった紙袋をくしゃりと丸めると、背後から掛けられた声に浮竹はゆっくりと振り返った。

「卯ノ花隊長からお預かりした薬です」
「ああ…ありがとう。……卯ノ花隊長、怒ってなかったか」

 千世から手渡された藥袋を受け取りながら頭を掻く。先日処方されたものが既に切れており、早めに受け取りに来るよう手紙を貰っていたのだがすっかり失念していたものだ。
 今朝から千世は霊術院での講義の為隊を離れており、その帰路で用があり四番隊へ寄ったのだという。暫く多忙にかまけて定期検診を疎かにしていた事を思い出していれば、やはり検診に早く来るようにと言伝をされた。
 別に怒ってはいなかったと千世は言うが、卯ノ花のあの張り付いたような笑顔がありありと目に浮かぶ。

「朽木さんは訓練場ですか」
「ああ、今朝もまた朝食後に織姫ちゃんと向かっていったよ」

 そうですか、と千世は笑う。浮竹も時折二人の訓練の様子は眺めていたが、彼女も何度か様子を見に行ったのだという。しかしその何れも込み入った様子だったから声を掛けられなかったという顔が僅か寂しそうに見える辺り、千世も井上という少女に少なからず興味があるのだろう。
 実年齢はともあれ、外見上はほど近い。現世駐在の際に朽木が世話になったという話を色々と聞いていたようだから、何か伝えたい事でも有るのかも知れない。
 足元の鯉はもう浮竹が餌を手にしていない事に気付いたのか、足元からうろうろと去ってゆく。千世が浮竹の横に立った事でまた数匹の鯉が寄ってきたが、それも間もなく去っていった。

「寄って行かないか」
「…でも、お忙しいでしょうし」
「お忙しい男が鯉の餌やりなんてしないさ」

 千世は少し笑うと、辺りを控えめにきょろきょろと見回す。休憩で茶を出す程度であればそう珍しいことでは無いが、やはり気になるのだろう。幸いにも周りには誰も居らず、響くのは池の鯉が水を弾く音だけだ。
 忙しくないと言えば嘘になるが、今日終わらせようと思っていたものは昼過ぎまでに大体片付いていた。彼女を部屋へ通すと、火鉢の上で温めていた土瓶から急須へと湯を注ぐ。
 湯気の立つ湯呑を渡せば、千世は申し訳無さそうに頭を下げた。

千世は、加わらないのか」
「…二人の修行にですか?」
「ああ。織姫ちゃんの能力は特殊だろう、良い刺激になるんじゃないかと思ってな」
「勿論気にはなりますが…二人の様子を見てると割り込むような気にはなれなくて」

 千世はそう微笑む。彼女らが過ごした時間は決して長いものではないが、推し量れないほど濃く深いものであった事は明らかだった。捕らえられた朽木を奪還する為に現世から尸魂界まで乗り込む決意は並大抵ではない。
 現在も現世では交戦が続き、その中で芽生えたものもきっと少なくはない筈だ。知らぬ所でまたひとつふたつと歩みを進める姿というものは、実に眩しいものだと思う。浮竹にとって千世がそうであったように、千世もまた朽木に対してきっと似た感情を抱いているのかも知れない。
 そうして共に歩みを進める仲間との時間に割って入る気になれないというのは、彼女の性格からして至極当然だろう。だが、井上の能力を目の当たりにする事で彼女が何かを得るのではないかと興味があったのは事実だった。しかし千世が首を横に振るのは頭の隅では分かっていたというのに、野暮なことを聞いたものだと彼女の伏した目を見ながら思う。
 僅かに空いた間を埋めるように浮竹は手元の湯呑を口に運ぶと、戸棚に仕舞っていたふ菓子を思い出した。しかし、そういえば、と何かを思い出したように顔を上げ口を開いた千世によってそれは阻まれた。

「どうして、井上さんの事をちゃん付けで呼ばれるんですか?」

 千世は至って素朴な疑問のように言うと、一口茶をすする。完全に死角だった場所から飛び出した言葉に、どういう意味かと僅か数秒考えた。茶柱でも見つけたのか、湯呑の中を覗く千世を見つめていればその視線に気付いたのかはっと慌てたように視線を上げる。

「あ、いえ…なんだか、ちゃんを付けて呼ばれているのが新鮮だったので…単に気になっただけですよ。深い意味は無いです」

 視線を泳がせながらそう言い、一人納得するように頷く。

「彼女は死神でもないし、朽木の大切な友人だろう。他人行儀にもしたくは無いが、かといって馴れ馴れしくも出来ない…が、いや。実際、特に意識していなかったよ」

 成程、と千世は頷くとまた湯呑に口をつけた。果たして彼女の疑問に対する答えになっているかは分からないが、それ以外に答えようの無い事だった。どう相手を呼ぶかなど、特に意識したことはない。無意識的にその関係性に似合いの呼び方を選択しているのだろう。
 千世をはじめ、自分に近い者は名前で呼ぶ事が多い。しかし多いというだけで、必ずしもそうであるとは限らない。だから偏にどうという事を答えることは出来ない。現に最も付き合いの長い京楽に対して春水と名前で呼んだことは無い。
 単に珍しいと思っただけだという彼女の言葉に偽りはないのだろう。しかしあまりに突飛な疑問に思え、僅かでもその裏を読み取ろうとしてしまったが、彼女の様子を見ると話題はそこで終えたようで無造作に重なっていた本の背表紙を眺めている。

千世の名は、姉上が付けられたんだったね」
「ええ、はい…姉といいますか…はい」

 浮竹の言葉に千世ははっとしたように顔を上げ、少し考えたように頷いた。初めて聞いたときにも同じような反応をしたことを良く覚えている。
 恐らく彼女が五席に上がって暫く経ったある春の日だった筈だ。前日の嵐のような風雨ですっかり花弁の落ちた桜を中庭で眺めていれば、日頃任務で隊舎から離れている事の多い千世が珍しく渡り廊下を通りかかった。その姿を思わず呼び止め、少しばかり世間話をする中で彼女が珍しくぽつぽつと語り出した。
 千世が流魂街の出身である事は入隊時の調書で知っていた。幼い頃の記憶はほぼ無く、物心ついた頃には姉のような年のほど近い少女と共に過ごしていたのだという。何時出会ったかも不明だった二人の中で互いの名前と呼べるようなものは無く、適当な言葉で呼び合う事を続けていた。
 しかしある日、突如少女が互いの呼び名を決めようと言いはじめ、その際に千世という名を貰ったのだと、そう遠い視線を葉桜へと向け笑った。
 それが丁度この時期で、葉桜を見上げまだ若く青い葉の匂いを吸い込むと思い出すのだという。口を閉じた彼女は我に返ったようにすみませんと頭を下げたが、何を思ったか浮竹はもっと聞かせて欲しいと答えた。彼女は僅か驚いたように眉を上げたが、大したことのない話だからと笑って首を横に振った。
 その後、共に過ごしていた少女がどうなったかという事を浮竹は知らない。少女についてもそれ以上の話もそれ以外の話も彼女の口から聞いたことは無く、しかし無理に語らせるつもりも無かった。
 思えばその頃から既に彼女への興味は思考の奥に漂っていたのだろう。

「確か、その頃から隊長が名前で呼んで下さるようになったような…」
「ああ、そうだったかな。良い名だと思ってね」
「その時もそう仰って下さった気がします」

 彼女はそう口元を緩めると、誤魔化すように湯呑に口をつけた。初めて千世とその名で呼びかけた時の目を丸くした表情は今でもよく憶えている。暫くぽかんとした様子にまさか誤ったかと焦ったが、その後背筋を伸ばした千世が裏返った声を上げた姿に笑ったものだった。

「もともと、この名前は気に入っていたんです。特に理由らしい理由はないのですが、何となく」
「大切な相手に貰った名だからじゃないか」
「はい、多分。幼い頃はあまりその…粗末な暮らしだったもので、形のない物を貰って嬉しいと思った事が初めてだったんです」

 また、葉桜の前で見た遠い視線を畳の上へと向ける。彼女の過去について、彼女が多くを語らない以上は自らすすんで尋ねたことは無い。しかしそうして彼女がぽつぽつと時折漏らす記憶に耳を傾けると、更に知りたいと欲が湧く。その欲というものは、彼女と過ごす時間が増えるほどに色濃くなるように思えた。
 それはある意味で独占欲に似たものなのだろう。全てを知り得る事など不可能だというのに、それを求めようとするのは何とも欲深いことだ。

「だから、隊長に良い名だと言っていただいた事が今でも嬉しいんです」
「…千世がその名を大切に思っている事は、あの短い話の中でも良く分かっていたよ」

 少し照れたように彼女は頷く。

「ああ…また、すみません。どうでも良い話をつらつらと」
「どうでも良いはずが無い。また聞かせてくれないか、少しずつでも」

 そう視線を向ければ、彼女の濁りのない瞳は僅かに揺れたようだった。はい、と微かな声は少し掠れていた。

「それで、何だったかな。ちゃんを付けて呼ばれたいんだったか」
「え!?い、いえ違います!」
「俺は別に構わないよ、千世ちゃん」
「隊長…」

 眉間に皺を寄せた千世に、悪かったと笑って謝る。違うと言う割には途端に頬が赤く染まりわずかに俯き、案外気に入っているのではないかと邪推した。
 間もなく互いの湯呑の中も空になった頃、時刻を知らせる鐘が遠くで響く。冬の夜は早い。もう外はすっかり夜の帳が下りはじめ、廊下には蝋燭の灯りが灯る。先程までは時折跳ねていた池の鯉も気づけばしんとしていた。
 そろそろ執務室へ戻ると立ち上がった千世につられて浮竹も腰を上げ、その背を見送る。最期に一度振り返るから何かと待っていれば、検診に行ってくださいねと、そうひとこと残して姿を消した。
 勿論、好きで忘れていたわけでは無いのだが。部屋に戻り、半開きになっていた茶箪笥の中からふ菓子をひとつ取り出し口に運ぶ。心地よい食感が歯に食い込んだ後、口の中で溶けてゆく甘さを舌に載せながら、不思議と頬を染め俯く彼女の姿を思い返していた。

 

同じ春を踏む
2021/03/30