公衆浴場にて

おはなし

 

公衆浴場にて

 瀞霊廷の地下から温泉が湧き出たと聞いたのは一年以上前だっただろうか。技術開発局の施設拡張中の為、地質調査を行っていた際に偶然掘り当てたものらしい。流魂街で温泉地と聞く事は有るが、瀞霊廷では珍しい事だった。だが特にそれ以降これと言った話も無く、つい最近まですっかり忘れていた。
 遠い記憶となっていたそれを思い出したのは今朝方のことだ。出勤早々隊の掲示板の前には数名の隊士が集まりがやがやと隊報を眺めている。珍しい光景に割り込んで覗いてみれば、どうやら瀞霊廷に温泉施設が出来たのだという。護廷十三隊で従事する者であれば、福利厚生の一貫として無料で利用ができるとあった。
 唐突な話だと一瞬は思ったものだが、すぐに一年ほど前に聞いたくだんの件を思い出した。藍染の離反をはじめとする一連の騒動で工期も後ろ倒しになり、今頃の開業となったのだろう。
 偶然にも午後は非番となっていた阿散井は、特に予定がないことを頭の中で確認をした後に十二番隊舎にほど近い温泉施設へと向かった。
 日々訓練や事務仕事、任務と追われていれば休暇など取る暇はなく、隊の大浴場以外で風呂を楽しむ事など何年振りか分からない。
 施設は巨大な日本家屋のような佇まいで、外観は一回り小さな朽木家といった様子だ。隊報にはつい先日の開業と記載されていたから多少の混雑を予想したが、時間帯が良かったようで人はまばらだった。
 親切にも手ぬぐいと浴衣は受付での貸し出しで、何も持たずに立ち寄れるのは中々に良い。受付を過ぎると広々とした待合所では座椅子に腰を下ろし談笑をしている様子が見れた。案内板を見れば、こうした待合所の他にも男女別の仮眠室や有料の按摩、飲食店まで備えているというのだから驚いた。
 隊舎の大浴場よりも多少広い程度を予想していた阿散井にとって誤算だった。これだけ楽しめる施設ならば、誰か暇そうな十一番隊の斑目あたりを連れて来るべきだった。一人で過ごすには勿体ないとすら思うほどの充実っぷりであったが、しかし今更仕方ない。
 男女別の浴場はやはり主体とだけあって広々としたものだった。複数の内湯、露天風呂、蒸し風呂、水風呂と全て楽しむのでは逆上せてしまうであろう豊富さだ。洗い場も十分な広さを設けている為、多少混み合っていても辟易することは無いだろう。
 湯気の立ち込める中、内湯を暫く楽しんだ阿散井は火照った身体のまま露天風呂へ向かう。これほどまでの施設を無料で利用が出来るというのは、総隊長の懐の深さを感じずにはいられない。日頃の疲れが流れ出るような心地というのは、隊の大浴場では決して味わえないものだ。
 高い木々と竹で周りを囲まれた露天風呂は、ここが瀞霊廷の中だという事を忘れる爽やかさだった。白い湯気がもくもくと上がる湯の中に身体を沈め、その心地よさに深く息を吐く。

「随分年寄りくさい溜息じゃないか」

 突然向かいの人影が声を上げ、思わず背筋を伸ばす。湯船に点々と人影がある事は認識していたが、あまり注意を払っていなかった。見覚えのある白い長髪を結い上げたその姿は、目線が合うと柔らかい笑みを浮かべる。

「浮竹隊長もいらっしゃってたんすね」

 珍しい姿だ。他隊の隊長と会う事はただでさえあまり無い上、浮竹は特に療養をしている事が多く出会うのは最も珍しい部類だろう。ルキアから時々話を聞くくらいで、こうして顔を合わせ会話を交わすのはいつぶりだろうか。珍しいっすね、と思わず感想を漏らせば彼はふっと笑った。

「元柳斎先生からここの開業を伺ってね、早速足を運んでみたんだ」
「山本総隊長から直接っすか」
「ああ、以前先生の依頼で現世に調査へ行かされた事があったんだよ」

 話を聞けば、現世の旅館に一晩宿泊し大浴場や内装等の報告書を上げていたのだという。当初は宿泊を主体とした施設を予定していたようだが、浮竹の現世出張の後にも調査は続いていたようで最終的にこの形態へ落ち着いたらしい。現世ではスーパー銭湯と呼ばれているようで、娯楽施設として親しまれているのだという。
 どうりで初めから尸魂界らしくない雰囲気だと思った。広い大浴場に指圧や休憩所、食事処まで併設するような気の利いた施設が自然と出来上がる訳がない。

「その調査って、一人で行かれたんすか」
「…ん?」
「現世の旅館に一人で調査ってのも味気ないんじゃないかと思って…」
「ああ…いや、副隊長も一緒だったよ。総隊長命令でね」
日南田さんとっすか」
「勿論、部屋は別だったよ」
「そりゃそっすよね」

 一瞬やけに真剣な表情を見せた浮竹に、阿散井は頷いた。いくら経理が経費にうるさいとはいえ、流石に出張で男女を一部屋に宿泊させるまでではない。しかし一泊の出張ともなれば食事は共にしたのだろうし、浴衣一枚の姿で日南田と顔を合わせる瞬間というのもきっとあったのだろう。
 湯上がりの女性の姿というのは妙な色気が有るものだ。隊舎で風呂上がりの濡れた髪のままうろつく女性隊士に不覚にもどきりとした事が少なからず有る。通りすがりの、まだ熱を帯びた柔らかい石鹸の香りというものに男は総じて弱いに違いない。
 だが浮竹にそういう感情はあまり無縁に見える。それは勿論彼の年齢もあるのだろうが、博愛にも思えるその懐の広さから感じるものなのだろう。

日南田さんは来てるんすか?」
「いや、来てないが…どうしてだい」
「出張に二人で行かれたなら、って思ったんすけど…それに元々ルキアから、お二人は仲が良いってよく聞いてたんで」
「ああそうか…朽木とは幼馴染だったね、阿散井君は」

 否定しない点、仲の良い事は自覚しているのだろう。自身が望むわけではないが、十三番隊の隊風というのは良いものだと思う。隊長を基軸にするという点においてはどの隊も同様だが、十三番隊は特にその傾向が強い。
 それもやはり彼の人柄なのだろう。気持ちが良さそうに目を瞑る浮竹に、あの、と阿散井は呼びかける。

「浮竹隊長って、奥さんいるんすか」
「…いないよ。どうしたんだい急に」
「そうなんすね…いや、何となく気になったんで聞いただけなんすけど」

 阿散井が頷くと、少し訝しむような目を向けられる。生涯未婚の者は死神という職業柄少なくは無いから別に不思議ではない。
 柔和で人当たりの良い雰囲気を纏っているがあまり私生活の見えない相手だから、興味本位で聞いてみただけだった。雑談としてルキアから聞く話も彼の寛厚な人柄を感じるばかりで、何かぼんやりと物足りなさを感じるものだ。
 それに関しては自隊の隊長に関しても似たようなものではある。彼に関しては感情の起伏が人より分かりづらいという部分が大きいのだが、そうして人臭さを感じない相手の裏を見たくなるというのは誰しも持ち合わせる感情だろう。
 暫く二人の間には無言が流れたが、そういえば、と浮竹が思い出したように口を開く。

「ここの源泉は湧出量があまり多くないみたいだよ」
「へえ、そうなんすか…そうすると、結構薄めてるんすかね」
「そうみたいだね。だからまあ、効能が書いてはあるがあまり期待しないでくれと言われたよ」
「でもこうやって露天風呂に入ってると、何となく効いた気にはなっちまいますね」

 そう言いながら腕を白濁した湯から上げて擦ってみれば普段よりもしっとりと滑らかに思えるが、浮竹の言葉通りならば恐らく気の所為なのだろう。
 明らかに話題を逸らされた事に気付いていない訳ではないが、それ以上問い詰めるような事でもない。しかし、そうしれっと話題逸らしに走るというのはある意味白状しているも同然で、あまり触れられたくない話題なのだろう。
 伴侶は居ないにしても、それに近い相手がいると見ても違いは無さそうだ。そう考えると、浮竹も案外分かりやすい性格をしているようで多少親近感を覚える。
 彼は一つ息を吐き、頭上に乗せていた手ぬぐいで汗を拭う普段は青白い顔が今は血色が良い。効能がどうであれ、やはり広い風呂でゆっくりと湯に浸かるというのが身体に悪いことでないのは明らかだろう。

「阿散井君はもう少し浸かるのか」
「そうっすね、温度あんまり高くないんで。もう少し浸かります」

 そろそろ逆上せるからと腰を上げた浮竹に、阿散井は思わず視線を向けた。線は細いもののその薄い肌の下には無駄のない筋肉質が浮き上がり、床に伏しがちの身体とは思えない。まじまじと見つめている視線に気付いたのか、少し気まずそうな表情で微笑まれ慌てたようにすいませんと頭を下げた。
 再び顔を上げた時、ふと彼の胸元、鎖骨の僅か下あたりに痣のようなものを二箇所ほど見つけ思わずあ、と声を上げる。しかし既に浮竹は背中を見せ湯船から上がるところだった。

「隊長、胸の所」

 どうして呼び止めてしまったのか、恐らくその瞬間は何も考えて居なかったからなのだろう。僅かに振り返った浮竹は、暫く疑問符を頭に浮かべていたが阿散井の言葉に胸元を確認し暫く石段に足を載せた状態のままぴたりと動きを止めた。
 あの場所に痣のような痕が出来る理由など良く考えれば、いや良く考えなくとも直感的に分かるはずだろう。白い肌によく痕が目立っていたものだからつい考えるよりも先に言葉が出てしまった。
 揺れる水面から上る湯気の向こうで立ち止まるその白い背を見つめながら余計なことを口走った事を阿散井は今更認識し、反省よりも前に何か気の利いた言葉を探す。

「す、すいません浮竹隊長…その、俺は良いと思います」

 浮竹は困ったように眉を曲げて笑うと、そのまま特に何も答えずひたひたと濡れた足音を響かせながら屋内へと去ってゆく。心做しか気まずそうなその背を見送りながら、申し訳ない指摘をしたことを反省した。
 しかし、あの痕。案外大人しそうな見た目をした人ほど良い趣味を持っているものなのだと斑目から散々聞かされているが、彼もまた例外では無いというのだろうか。そう呆然と下世話な事を考えながら、白い湯気の中ふうと長く息を吐きだした。

 

(2021.5.30)