二枚目の舌

50音企画

二枚目の舌

 

 多少余裕のある浴槽の中で、千世は居心地悪く隅の方で身体を沈めていた。なみなみと注がれた熱い湯からはもくもくと湯気が立ち上り、この浴室の視界を曇らせてゆく。湯の中で触れる素肌は布団の上で触れ合うよりも生々しく感じ、千世は収まることのない心拍を必死に平常へ落ち着けようと呼吸を続ける。
 だが一向に心拍は落ち着くこと無く、時折水面が波立つ音と気持ちが良さそうに彼が息を吐く声が更に掻き立てるようだった。風呂に入ろうかと唐突に誘われ、断る理由もなく流れされこうして今同じ浴槽へと身を沈めているのだが、こうも明るい中素肌を晒すというのはどうにも慣れないものだ。
 別に二人で風呂に入る事が初めてという訳ではない。肌を重ねる行為の延長として、互いの気が盛り上がったまま風呂に雪崩込むとなれば、肌をいくらこの明かりの元晒そうがそののぼせた思考回路では取るに足らない事のように思う。だが互いに素面のまま、何の疚しさも持たない会話の中でじゃあ風呂に入ろうかと誘われればそれは違う。
 千世が隅で三角座りをしている中、浮竹は浴槽の縁へ腕を掛けのびのびと足を伸ばし心地よさそうに目を瞑っている。軽く結った白い髪の先は、ゆらゆらと水面の辺りで優雅に漂う。人の気も知らずに、なんてその呑気な表情眺めながら、不貞腐れるようにぶくぶく口でとあぶくを鳴らした。

「身体、伸ばさないのか」
「は、はい…大丈夫です」
「折角の風呂なのに、縮こまってたら気持ちよく無いだろう」

 気持ち良いとか、気持ちよくないとかそういう話ではない。不思議そうな顔をする浮竹から、千世は気まずくそっと目を逸らした。彼がこの空間に対して何の疚しい感情を抱いているようにまるで見えない。ただ風呂を二人で楽しみたいのだという、その純粋な思いだけが伝わる。
 だからこそ、千世は気まずくて仕方がない。互いに素肌を晒し、ぺたりと肌が触れあえば多少なりとも疚しさというものは静かに芽を出す。あまり健康には思えないような肌の白さだというのにしかし胸板は頼もしく、隆々とは言えないもの皮下につく筋肉の陰影は思わず手を触れたくなるほどだ。
 彼がきっと純粋な思いで誘ってくれたこの空間に、そう疚しい思いばかりが育つ事が千世は心苦しく一層縮こまる身体を固くした。
 とその時、ゆったりと浸かっていた浮竹が勢いよく身体を起こし水面が大きく揺れた。はみ出した湯が下へと落ち、静まり返っていた浴室が途端に水音で騒がしくなる。身体を起こした浮竹は、そのまま千世の顔を覗き込むようにぐ、と身体を近づける。
 ぴとりと水面下で触れる肌の感覚が、やはり生々しい。

「折角の風呂なのに、楽しく無さそうだな」
「別に、風呂は楽しいものでは…」
「そうか?寒い日の風呂ほど楽しいものは無いと思うんだがな…」

 そう無邪気な言葉を向けられると苦しくなる。その遠慮なく腰のあたりに触れる彼の腿や、僅かに重なる足の感覚全てが千世の感情を波立たせて仕方ない。だがしかし、この呑気な様子からするにきっと彼に千世のような疚しい気など無い。
 これ以上芽が育つ前にもういっそ先に出てしまおうと、縮こまらせていた身体を緩め浴槽の縁に手を掛けた瞬間彼の大きな手のひらが千世の手首を軽く掴む。
 ぎょっとして彼を見れば、優しく目元を緩ませる視線とかち合った。何ですか、と掠れた声で呟くと掴まれた手首を引かれる。嫌な予感というものは、恐らく本能的なものだ。

「楽しい事をしようかと思ってな」
「楽しい事、って」
「それは千世が一番分かってるんじゃないか」

 そうかきっと、初めからこの人は気づいていたに違いない。千世の疚しい芽の存在に初めから気付いていたというのに、今限界が来た所でその芽を摘むのだから中々に意地が悪い。やられた、と頭を抱えたくなる状況だというのに重ねられた唇が見事に思考を溶かしてゆく。
 そののぼせ始めた頭の中で、確かに楽しい事が始まるのだと、その事実の認識だけがいやにはっきりしていた。