ハイレベルなあてこすり

2021年6月26日
50音企画

ハイレベルなあてこすり

 

 千世は湯気を立てるきつねうどんの前で手を合わせる。今日の昼はこの甘いお揚げが恋しくなり、急に思い立ってこの食堂へとやって来た。昼時から少しずれ、多少空席が目立つ時間帯だ。いただきます、と一口すするとやはり美味い。
 お揚げに噛み付いたその時、隣に気配を感じてふと視線を遣る。と、見慣れた白い羽織の人物に思わず千世は咳き込んだ。その音にはっとしたような浮竹と視線が合う。ぼうっとしていたのか、まるで隣の席が千世だとは気付かずに着席したらしい。
 浮竹の手元の盆には千世と同じくきつねうどんが乗っている。千世もきつねうどんか、と笑うと特に気にせずそのまま手を合わせてうどんをすすり始める。
 その横顔に、隊長、と囁くような声で呼びかける。二度ほど呼んだ所で浮竹は目線を向けた。

「隊長、連れ立って昼食なんて怪しく無いですか」
「別にそんな事は無いと思うが…」

 回りに聞こえないようこそこそと話しかければ、浮竹も眉を曲げながら同じように小さく答えた。彼と恋人としての関係が始まったのは一月ほど前になるが、互いに現時点で公にする事は望んでいない。
 だから千世は非常に気を使っていたのだ。なるべく人前で二人きりになるような事は特に避けていた。立場上二人で出向く事は少なくなかったが、最低限以外は徹底的に避け以前のようにふらっと二人で甘味屋に訪れることも昼食を共にすることも、近ごろはすっかり無くなっていた。

「やっぱり少し離れましょうよ」
「別に構わんが、急に離れた方が怪しくはないか」

 しばらくまたうどんをすすっていたが、時折横を通りながらちらと感じる視線がどうにも気になり堪らずまたこそこそと話しかける。しかし確かに浮竹の言う通り、急に席を変えて食事を続けるほうがよっぽど怪しい。
 浮竹の言葉にうーんと千世は唸る。彼は全く気にしない素振りだが、千世はそわそわとどうしても落ち着かない。再び何事もなくうどんをすする浮竹を、千世はまた囁くように呼ぶ。

「やっぱり、視線が気になります」
「隊長副隊長は目立つからな、仕方ない」

 その通りだ。白い羽織は死覇装の中にいれば嫌というほど目立つし、副官章というのもそこそこ目につく。二人が並んで座っていれば嫌でも視線を一度は向けるものだろう。関係がどうのとか、まさか勘繰るような者は居ないとは思うのだが、だがしかし気になる。
 偶然勘の特別良い者が、万が一怪しいと少しでも思ったならばその時点で今までの千世の努力は水の泡となる。もしかすれば浮竹は副隊長に手を出した者として見られるかも知れないし、千世千世で隊長に色目を使った女と見られるかも知れない。そんな事は決してあってはならない。

「怪しまれてませんか、私達…大丈夫でしょうか」
「こそこそ話してるからじゃないか…」

 その通りだ、と千世はまた唸る。だがどうもこの公衆の面前で二人横並びで居る事が落ち着かないのだから、仕方ない。箸を持ったまま、千世は先程よりも少しふっくらした黄金色の汁に沈む麺をじっと見つめる。

「そうこう言っているうちに、俺は済んだから先に帰るよ」
「あれっ!?早くはないですか」
「早くないさ、千世の箸が進んでないだけだろう」

 盆を持って立ち上がる浮竹の姿を、千世は自然と目で追う。ようやくこの落ち着かない感情から開放されるというのに、いざ彼が隣から姿を消すとなると一抹の寂しさを感じるのだから面倒なものだ。
 それにしても素早い食事だった。千世が散々どうのこうのと言っていた事を気にして、まさか急いで済ませてくれたのだろうか。そうだとすれば、非常に申し訳がない。一言何か謝罪の言葉を伝えようか、それとも隊舎に帰ってから伝えるべきかと僅かな時間で考えあぐねていれば、ふと傍に立った彼が床から何かを拾い上げるように腰を屈めた。

「そう遠ざけられると寂しいよ」

 あ、と千世が声を上げる頃にはもう彼の姿は下げ台の方へと消えていた。追いかける間もなく、さっさと彼の姿は小さくなってゆく。去り際、耳元で囁かれた言葉に千世は猛烈な後悔に襲われる。よかれと思っていたというのに、まさかああも悲しげな声を聞かされるとは思っても居なかった。だが確かに、思い出してみれば遠ざけられたと感じても仕方ない言葉ばかりだったかも知れない。良かれと思っていた事が、独りよがりだった時ほど恥ずかしい事はない。
 うどんを瞬間で完食し飛んで帰った隊舎にて、浮竹の機嫌を戻す条件として甘味屋に連れて行かれる事となったのは、それから約二時間後の話になる。