ん、で終わるとでも思ったか

50音企画

ん、で終わるとでも思ったか

 

 熱い茶を飲みながら、千世は宙を見上げる。千世の記憶違いでなければ、恐らく今日は浮竹の誕生日だった。今日が誕生日であるかを彼に確認した訳ではない。以前知った日をよく覚えていただけだ。
 今までこの日が来る度にそわそわとしては居たものの、しかし何かをするという事もなく、かといっておめでとうございますと言葉をかける訳でも無かった。隊の中で彼の誕生日を知っている者の中には祝いの品を渡している者も居たようだったが、まさかおめでとうの一言も言えない千世が祝いの品を考えられるはずもない。
 恋人となり初めての誕生日だから何か準備をしなくてはと思っては居たのだが、悩みに悩んだ挙げ句結局、何も用意が出来ていなかった。
 いい大人だから欲しい物ならばきっと本人が良いと思うものを選び購入するだろうし、形に残るものを贈り物として押し付けるような事は避けたい。となれば消え物が一番良いのだろうと思いはしたものの、誕生日に消え物を渡す恋人というのがどうにも淡白なように感じて気が引けた。
 それならば何処か思い出になるような場所へ連れてゆくというのも良いかと思ったのだが、二人して瀞霊廷を出れるはずがない。瀞霊廷内であっても二人で出かけられるはずがない。となれば彼の私邸で、豪勢な料理でもてなそうかと思ったが生憎当日は揃って出勤だった。
 そんな事を悩んでいればあっという間に時は経ち、結局何の用意も出来ないまま呆然と宙を見上げている。昨日は寮で過ごし、今日は朝から浮竹の姿を見ていない。顔を合わせた第一声を果たしてどうしようかと朝から考え続けているが答えが出ない。
 きっと飽きるほど誕生日を迎えてきた彼にとって、果たして何が最良なのだろうか。渡すならば他の誰かが渡した何よりも心に残るものが良いと我儘な思いが生まれてしまうもので、だが何も用意を出来なかったのならば同じ土俵に上がる事すら出来ない。
 筆を口に咥えながら、一人唸る。まだ午後を回ったばかりだから、今から街へ買いに走っても十分今夜に間に合わせる事は出来る。だが慌てて適当な物を買って渡すというのは、やはりあまり気が進まない。この期に及んで何を言っているのかと、それは分かっては居るのだが妥協はしたくないと思ってしまう。
 その時突然火鉢がパチンと跳ねた音に、千世は我に返る。随分長い事ぼんやりとしていたように思えたが、時計を見るとまだ数分しか経っていなかった。
 口に咥えていた筆を指へと戻していると、襖が軽く叩かれる。まさか、噂をすれば何とやらというやつだ。身体を固めて襖が開く様子をじっと見守る。

「…隊長」
「おはよう…という時間でもないな」

 そんな予感がしていた。自然と跳ね上がる心拍数に、千世は一旦筆を置きふうと一つ息を吐く。後ろ手に襖を閉めた浮竹は、何やら手に持つ紙袋を机の上へと置いた。その底は重たげに膨らんでおり何かと尋ねれば蜜柑だとどこが得意げに答える。
 どうやら朝方からつい先程まで何処かへ出掛けていたようで、その道すがら美味しそうな蜜柑が売っていたからつい多めに買ってしまったという事らしい。浮竹が試しに一つ取り出した蜜柑を見せびらかす姿に誘われるように、千世は立ち上がりその傍へと近づく。
 紙袋の中を覗くと丸々とした蜜柑が恐らく十数個程詰まっている。丁度空になっていた菓子盆にその幾つかを移し、味見をするべく一つを早速手にとった。

「…千世

 蜜柑の爽やかな香りを広げながら皮を剥いていれば、隣の浮竹が何か言いたげに名前を呼ぶ。手元を中断し見上げると、どこか気まずそうに唇を軽く噛んで視線を逸らされた。どうしたんですかとその様子に尋ねるがやはり歯切れ悪く、いや、と呟く。
 その顎を擦り気まずそうな表情を見つめながら、誕生日の三文字が過る。千世の勝手な想像でしか無いが、もしかすれば彼は祝う言葉を待っているのだろうか。確かに自分から祝ってくれとは言い出しにくく、気まずそうな表情の理由には納得できる。

「隊長、あの…お誕生日」
「覚えていてくれたのか」
「は、はい」

 おずおずと言い出してみれば、食い気味に反応をした浮竹に千世は目を瞬いた。おめでとうございます、と頭を下げればその目尻を下げてありがとう笑う。好物のおはぎを口にした時のように嬉しそうな様子に、千世は内心意外な思いだった。
 彼ほど歳を重ねれば、誕生日など飽き飽きしているのではないかと勝手に思い込んでいた。おめでとうの一言でこれ程までに頬を緩める様子を見ると、何度経験しても嬉しい日なのだろうと千世も釣られるように微笑む。
 手にした蜜柑を、浮竹は手持ち無沙汰に軽く握っている。その表情を伺えば、また何かそわそわと落ち着かない様子で視線をうろうろとさせていた。まさか、と千世は気まずい。祝いの言葉の次となれば、期待するものは一つしか無い。まさかねだられるような状況になるとは思いもしなかった。やはり何かしらでも用意しておけば良かったか、と消え入りたくなる。

「…すみません、何を差し上げれば良いか分からなくて、その…まだお祝いの品を選べてないんです」
「……そうだったのか」

 あからさまに落胆したような様子に胸が痛い。大の大人がしゅんと肩をすくめる様子というのは形容し難い感情を覚えるものだ。千世は手に持っていた剥きかけの蜜柑を机上へと置いた。

「すみません、まさかそんな楽しみにしてたとは思わなくて…」
「…いや、俺も大人げないとは分かってるんだ」
「いえ、私も色々と考え込んでしまって…気づけば当日に」
「良いんだよ、考えてくれただけでも嬉しい」

 そう言うと、眉を曲げて笑う。物が欲しい訳ではない、ただ今年はどうしてだか期待をしてしまったのだと、そう胸の内を明かされるとただでさえ苦しい胸がさらに詰まるようだった。そんな彼の気も知らずに、なんと薄情な女だろうか。
 手にした蜜柑を剥き始めた浮竹の手元を見つめながら、何の気の利いた言葉も返せないまま口がへの字になっていく。剥いた蜜柑の房をひとつ口に含む浮竹へ視線を上げると、千世のしかめっ面に驚いたのかはっと目を見開いた。

「悪い、そんな顔をさせる為に言ったんじゃないんだ」
「今日夜までに用意しますから、少し待って頂けますか」
「いや良いよ。気持ちだけで十分嬉しいんだ」
「いえ、この後しっかり隊長が喜ぶものを考えますから」

 千世がそう言い切れば、そうか、と浮竹は笑って頷く。定時できっちりと仕事を終わらせ急いで街に出れば、まだ十分間に合う。想像をするばかりではこれと言ったものが思い浮かばないものだが、実物を見て回れば心動くものがあるかも知れないだろう。
 また一つ蜜柑の房を口に含んだ浮竹を見上げていれば、ふと視線を落とした彼とかち合った。火鉢が小さくぱちぱちと音を立てる中、果肉をつぶし飲み込む音が彼の口元から微かに聞こえる。そっと近づいた彼の口元から、ふわりと爽やかな香りが漂ったかと思えば柔らかな感触が唇に触れる。
 白昼の執務室という事もあり軽いものかと思っていたが、中々離れないどころか舌を差し入れられ思わず彼の腕を掴む。蜜柑の味が微かにする、なんて呑気なことを頭で思いながら一体何処まで進むのかと焦るがしかし拒まない。
 ん、と自然に漏れ出す声を抑え込みながら応えていたが、ふと我に返ったように伏せた目がぱちりと開き唇が離れる。

「前祝いと言ったところか」
「ま…前祝い…?」

 そう繰り返しぽかんと口を開けていると、彼の手に残っていた蜜柑の房を押し込まれた。なんですか、と抗議の声を出してみたもののもごもごと言葉として聞き取れるものではない。急いで咀嚼を試みるものの、飲み込み終わる頃には襖を開き廊下へと消える頃だった。
 隊長、とその背に最後呼びかければ彼はちらと振り返る。またあとで、と口の動きだけで返された千世は、ぱたんと閉じられた蜜柑の香りの立ち込める部屋で暫しの間呆然と立ち尽くしていた。