まぶたの感光

2021年6月26日
おはなし

 

 霊術院での講義を終え隊舎へ帰ると、久しぶりの気配を感じた。その主はどうやら浮竹の執務室に居るようで、千世は誘われるように手荷物を持ったまま向かう。部屋の外からでも聞こえる笑い声に、遠慮気味に千世は襖を開き顔を覗かせた。
 気づいたように目線を向けた浮竹と、それにつられて振り返るルキアに千世は口元を緩めた。おかえりなさいと一言伝えると、ちょこんとその頭を下げる。

「つい先程帰りましたので、浮竹隊長にご挨拶を」

 話を聞けばこの後は一番隊舎へと向かい、総隊長への報告を行うのだという。その後はまたすぐに現世へ帰らなくてはならないようで、此処に要られる時間は僅かだ。
 しばらくぶりに見る彼女に特別変わった所はない。先遣隊が現世へと向かいまだ二ヶ月程度だが、既に上がっている報告ではおおよそ状況は厳しいものだったと聞いている。
 尋ねたいことは山とあったが、あまり根掘り葉掘りをするような時間は無い。開きかけた口を千世は閉じると、彼女の横へと腰を下ろした。

「朽木が居ない間の隊の様子を知りたいと言うからな、丁度千世が風邪を引いた話をしてた所だよ」
「またそんなどうでもいい話を…」
「どうでも良い話が聞きたかったんだと」

 そう浮竹は笑う。あの風邪を引いた折に珍しく言い争った事を思い出すと、彼の口からどうでも良い話と改めて言われるのはどこか釈然としない気もする。だが今となっては取るに足らない出来事で、そんな事もあったかと笑える程度になっていた。
 久しぶりに隊舎で見る彼女はよほど落ち着いた様子に見える。現世では先日の旅禍の少年、改め黒崎一護宅にて世話になっていると聞いていた。男性の部屋でまさか寝食をともにしているのかと驚いたものだが、どうやらそういう訳ではないらしい。てっきり千世は先遣隊が皆で過ごす施設のようなものでもあるのかと思っていたから、まさか各員ばらばらに居候先を見つけ過ごしているとは思いもしなかった。
 やはり長く過ごしたこの場所へ帰るというのは、心休まるものなのだろう。気の緩んだような彼女の表情を見ると、少しばかり安心をする。その横顔を見ていれば、あっと思い出したように見開いたその大きな瞳と目が合った。

「先程浮竹隊長へ現世の土産をお渡ししておりますので、日南田殿もぜひ」
「此方では珍しい焼き菓子のようだよ、ふぃ、ふぃな…」
「フィナンシェです、隊長」
「そう、そのフィなんとやらだ。西洋のもので、茶に良く合うらしい」

 浮竹は膝の上に置いていた紙の箱を軽く開く。見慣れない直方体に近い形のものが、透明の個包装をされて丁寧に詰められていた。確かに初めて見るその菓子は、色合いからすると饅頭のようだ。しかし饅頭にしては柔らかそうで、全く味が想像できない。しかし茶に合うということならば、きっと饅頭と同じように甘いのだろう。
 先日の一件で尸魂界へ訪れていた井上織姫に選んでもらったのだと、どこか得意そうにルキアは言う。旅禍だった彼女達の去り際を遠くから眺めていただけで、会話をした事は一度も無かった。だというのにどこか知り合いのような気がしてしまうのは、あの一件後ルキアから彼女たちの話を聞くことが多かったからだろう。
 ああそうだ、と千世は思い立ち声を上げる。

「井上さんへのお返しを持っていって貰いましょうか」
「お返しか…ああそうだ。先日買った落雁があった筈だよ」
「いえ、井上への土産は私が買って帰りますので」
「良いんだよ、彼女には朽木を通して色々世話になってるんだ」

 千世は立ち上がると茶箪笥の戸を開ける。恐らくルキアは一番隊への報告の後、その足で穿界門へと向かう事になるのだろう。これからの千世自身の予定も考えると、今から何かを買いに出かけ、出発までに手渡す事は難しい。
 確か二日ほど前に瀞霊廷でも名の知れた和菓子店で落雁を手に入れたのだと自慢をされた覚えがあった。余程楽しみにしていたのか、茶箪笥にしまい込みそのまま忘れていたのだろう。しかしそれほど楽しみにしていた落雁を良いのかとふと思うが、自分のことはいつも二の次な彼のことだ。
 茶箪笥のいくつかの戸棚を開いて記憶の中のあの白い箱を探すが、しかし中々見当たらない。茶器の入った桐箱や、恐らくいただき物や記念品のような焼き物が入った箱ばかりだ。

「あれ…十四郎さん、無いですよ」
「ああいや、そっちじゃない。その下の右の棚だよ」

 浮竹に指示された通りの場所を開けると、確かに白い箱が鎮座していた。まだ紐で封をされた状態で、土産として渡しても全く差し支えないだろう。落雁の箱をルキアへと手渡しながら、どういう事かふと今しがたの何気ないやり取りに違和感を感じた。
 おそらくたった今、記憶違いでなければこの隊舎では似つかわしくない呼び方をした気がしていた。いや、気がしただけではない。隊長、と呼んだ記憶がこの口元には無く、途端に冷や汗がじわりとにじみ出る。違和感は確実にこの第三者が居る場所で、非常に親しい呼び方をした事に対するものだ。
 恐らく休日だった昨日を丸一日彼と屋敷で過ごしていた所為だろう。実に何気ない様子で、あたかも日頃からそう呼んでいるかのような至って自然な口調で、だから一瞬は全く気付かなかった。恐らく浮竹も違和感を感じなかったのか、はたまた敢えて素知らぬ振りをしているのか、視線を向けても特に何とも無いような様子で飄々としている。
 道理で彼女はやけに気まずそうな様子で目線を逸らし、落雁の箱を受け取っていた。一体どの部分から訂正をすれば良いのか全く検討もつかず、千世は咄嗟に彼女の腕を掴む。びくりと身体を跳ねさせたルキアへ違うの、と漏らした声はまさに必死と言った様子で我ながら呆れるほどだった。

「あの…最近名前で呼ぶのが流行ってて…ほら乱菊さん、みたいな…七緒さん、みたいな…感じで…」
「…そ…うなのですか…」
「そうそう!だから私も隊長をたまに、本当にたまになんだけど、お名前で呼んだりして…今みたいに!だからほら、朽木さんも呼んだら良いんじゃないかな!」
「い、いえ私は大丈夫です…」

 言葉を重ねるほどに墓穴を掘っているとしか思えないが、何も言わずに放置をするよりは良かったのだと思う他ない。彼女の引きつった顔は千世の判断の誤りをまざまざと突きつけるものだったが、しかしどうしようもなかった。いや、やはり素知らぬ顔をするべきだったか。
 無駄な言い訳をしている間、そして今も浮竹の表情を確認する気にはなれない。無言で居続ける所を見ると、余計な口出しは更に千世の立場を悪くする事になるとでも考えているのだろう。目の前で一人必死に墓穴を掘り続けている千世を眺めながら、一体何を考えているというのだろうか。
 一通り自滅した後、千世はそれ以上何も言葉を発せず黙り込む。これから先の事は彼女が判断をする話だ。何気ない様子で彼の名前を呼んだという事実を彼女がどう捉えたかは分からないが、出来ることならばそっと忘れて欲しい。
 しかしこの失態が彼女だけの前であって良かった。それはルキアが変に詮索をしたり、言い回るような性格でないと知っているからなのか、それとも現実逃避に近いものかもしれない。

「で、では私はそろそろ一番隊に向かわなくてはなりませんので、…それでは…」

 井上にはしっかり渡しますので、とルキアは落雁の箱を指差しながら上ずった声でそう言うと慌てたように頭を下げてぴしゃりと襖を閉める。しっかりと違和感を感じて去っていった様子に、千世はぐったりと頭を垂れた。

「……絶対不審に思いましたよね、朽木さん」
「まあ、酷い言い訳だったな」

 しないほうがマシだった、という評価を浮竹から得た。ようやく千世は顔を上げ、恐る恐る浮竹の表情を確認するとあの酷い有様を思い出したのか、眉を曲げて笑う。千世にとっては死活問題だったのだが、彼はあまり気にしているように見えない。もう遅いと諦めているのか、若しくは相手がルキアだったから問題ないとでも思っているのだろうか。
 どちらにしても千世は彼の様子が不思議に思えた。いくら彼女相手とはいえ、二人の関係が意図せず明らかになるというのはあまり良い事とは言えない。何より彼女は同じ十三番隊に所属する者であって、今後何かの拍子で差し支えてくる可能性だってあるだろう。自ら関係を告げた親しい友人達とはわけが違う。
 それにしてもやけに落ち着き払った様子を、千世は恨めしく見つめた。

「なんで助け舟出してくれなかったんですか…」
「俺があの場で出せるような舟は無かったよ」
「……そうですね」

 確かにその通りなのだが、あの惨憺たる状況を助けて欲しいと思うに決まっているだろう。今更後悔をした所であの瞬間の記憶を消せるわけでも無ければ、これ以上の言い訳を出来るわけでもない。
 思い出すほどに羞恥で縮こまりたくなる思いだが、きっと時間の流れに身を任せるしか無いのだろう。彼女がきっと触れてはいけない事だと察してくれたと思う事にして、千世自身も無かった事として忘れるほかない。
 終わりにひとつ息を吐くと、千世はこの酷い心情の中仕事へ戻るため仕方なく立ち上がる。しかし直ぐに彼に呼び止められ、足を止めた。

「もう隠さないでも良いかと思ってな」

 はい、と千世は思わず聞き返しながら固まっていたが、また無言になった彼の様子が気になり再び畳の上へと膝を折った。
 何の前触れもなかった言葉に、千世は驚くよりも前にその真意が良く分からず頭いっぱいに疑問符が浮かぶ。窺うように彼の表情を見つめるが、特にその言葉に何か裏があるという様子には見えない。
 先程の失態が切欠になったのだとすれば、大変に申し訳ないことをした。これ以上千世が口を滑らせる事で妙な噂が立つよりは、公にしたほうが良いとでも思わせてしまっただろうか。常々気をつけては居たつもりだったが、やはり時間が経つ程に慣れ、綻びが出てくる。

「その方が、俺も千世も過ごしやすいんじゃないかと思ったんだよ。疲れるだろう、こそこそと隠れながら過ごすのは」
「…いえ、そんな事は」
「俺も良い歳でそんな相手が居ても不思議じゃない。それが偶々副隊長の千世だったというだけだよ」
「どうされたんですか、急に」

 突拍子もない言葉を滔々と重ねられ、千世は眉間へ皺を寄せる。隠すことが重荷と思ったことは一度もない。勿論周りに認知されている関係に比べれば多少息苦しい思いをすることはあれど、大した事ではない。広く慕われ敬される浮竹を思うと、公にされた方が千世にとってはよっぽど恐ろしい。

「私が、また先程のような失態を犯すかもしれないからですか」
「いや、それは違う」

 千世の僅かな不安は直ぐに否定され突き返された。どうやら思いつきで言い始めた事でないというのは、その視線から薄々感じ取れる。でなければ、前々から考えでもしていたというのだろうか。
 先日の記憶喪失の一件からまだ日は浅く、何か彼の中で変わるものがあったとするならば切欠の一端になっている事は間違いないと思う。だがどうしてこの話に繋がるのか、千世にはあまりピンと来ていなかった。
 恐らく難しい顔をしていたのだろう、呼びかける声に千世がはっと目線を上げると浮竹は目を細める。

「考えておいて欲しい」

 千世はその言葉にぽかんと口を半開きにしたまま見つめ返す。関係を公にする事について考えるように彼は言っているのだろうか。冗談で言っている訳ではないというのは分かるが、しかし急に考えてくれと言われても直ぐに答えが出せるわけがない。
 関係を公にすれば、逃げも隠れも出来なくなる。きっと二人の間で秘め続けるよりも、辛いと感じる事の方が多くなるだろう。そんな事を敢えて言わなくとも彼は分かっているだろうに、千世は益々分からず縋るような視線を向ける。

「考えるというのは…」
「この先の事についてだよ」
「この先…ですか」

 反芻した言葉に、浮竹は瞬きで返す。彼の言う先、が二人の先の事であることは分かった。しかしそれはあまりにも漠然とした言葉で、何をどのように、どうしてと、この流れる妙な空気の中まさかあれこれと尋ねることは出来なかった。
 先と言っても色々あるだろう。時間、場所、関係と、彼の言う先とは、どれを指すものか分からない。
 気の利いた言葉など出る筈無く、ただ優しい視線を一身に受けながらひとつ、はいと答える事が今の千世にとっては精一杯だった。
 千世は止めていた息を短く吐き出す。彼の背後に見える僅かに色を変え始めた空は、庭の紅く色づき始めた紅葉とやがて混ざるのだろう。

 

まぶたの感光
2020/11/11
(台詞リクエスト:つい人前で名前を呼んでしまった話)