まばたきの猶予

おはなし

 

「いやそれって、間っ違いなくプロポーズでしょ」
「ぷ…?ぷろぽ…それはどういう意味の…」

 ルキアと入れ替わるようにして松本が現世から一時帰宅をしていた。その事を知ったのは今日の夕方頃で、偶然道すがら出会ったという清音から終業後十番隊の執務室に呼ばれていると聞いたのだった。
 松本は今日一日は隊舎で過ごしているとの事だった為、一通り業務に見切りをつけさっさと執務室を後にし十番隊舎の彼女の執務室へと向かった。珍しくその机上に酒は無く、代わりに煎餅が菓子盆へ山盛り乗っておりその一枚を口にくわえた松本が出迎えた。
 話を聞けば、日付が変わる前にはまた現世へ戻らなくてはならないのだというから、流石の松本も酒を呑むのは憚られたのだろう。
 時折伝令神機を使い連絡は取っていたものの、こうして顔を合わせて話すのはルキアと同様暫く振りとなる。そこから暫く、互いにあった出来事を茶と煎餅を片手にぽろぽろと伝え合っていたのだがその流れでつい先日浮竹から告げられた妙な言葉について漏らしたのだった。

「つまり、求婚されてるって事よ」
「きゅ…!?い、いやっ、それはまだ早い!」
「早いって、あっちはもう良い歳じゃない。とっくに考えてるに決まってんでしょ」

 はあ、と千世は気の抜けた声を出しながら考え込む。何気ない様子ではあったが、確かにあの執務室という場所に似つかわしくない妙な空気が流れていた事を覚えている。彼の視線はひどく優しいもので、考えてくれと言う割にそれは無理に強いるような口調ではなかった。
 二人の先を考えるということが、ひとつのけじめを付けるという意味であったのならばそれは納得が行く。多少の時間を置いて、今更心臓が大きく脈打ち呼吸を整えるように深く息を吐いた。
 浮竹が千世の倍ほどの年齢である事は百も承知だ。松本の言う通り、恋人関係となった時点で多少はその先の事も見据えていたのだろうとは思う。しかし今まで結婚という言葉がはっきりと出たことは無かった為、ここまで明確に意識したことは無かった。
 千世自身まだ学びたい事は多くあり、副隊長職として護廷十三隊に貢献できる事は何よりも幸せに感じている。忙殺されながらも、存在を必要とされ満たされた毎日を過ごす日々は何よりも幸甚なことだった。
 隊士同士の婚姻というのは決して珍しいことではない。婚姻関係になったとしても、子を持たず働く女性死神は多く、また子を産んだ後にも復帰する者は多い。だが千世の思考はまずそこまでに辿り着いていない。特に前触れのなかった求婚は寝耳に水であり、確かに何れはと一瞬考えた事はあったがそれだけだ。考えるべきは婚姻関係を結んだ後の事ではなく、まずそこに至るまでの道筋だ。
 求婚、という言葉に少なからず動揺をした千世は思考がすっかり固まったまま、手にしていた湯呑を机上へと戻した。

「でも…いや、やっぱりまだ早いような…」
「早いって、付き合ってまだそう経ってないからってこと?」
「そういう感じです…」
「だって、出会ってから数えたらもう数十年でしょ?」

 そうなんだけど、と千世は俯く。ひたすら追い掛けていた事を思い返すと、出会ってからを勘定に入れるのはどうかとは思う。
 落ち着きを取り戻すことのない心拍を左胸に感じながら、千世は一つ煎餅を齧った。景気の良い音が部屋に響き、そのまま口内で噛み砕く。醤油の素朴な味が口の中で広がり、また一口噛み付いた。
 彼がそう意識をしてくれているのだという事実は、これ以上無い程光栄な事だった。彼が今まで長く生きた中で、恐らくはじめて伴侶に相応しい相手として思ってくれているのだとすればそれはもうこの瞬間に世界が崩壊したとしても文句が言えないほどの幸福だと思う。
 しかしその幸福に反して、不安に似たように揺れる感情は不思議だった。

「あーもうあたし達が現世で死闘繰り広げてる間呑気にプロポーズされてたって訳?破面とかいうワッケ分かんない奴ら相手にすんの大変だったのよ」
「それは…本当に大変だったと思うんだけど…私も呑気に過ごしてた訳じゃなくて…」
「分かってるって」

 松本はそう言いながら、手元の空いた千世にまた一枚煎餅を渡す。彼女達が現世で相手をしていた藍染の差し金達との戦闘の様子は、先日帰ってきていたルキアの報告書でおおよそ知っている。あの死闘と机仕事とを比べるのをどうかとは思うが、決して呑気に過ごしていた訳では無い。
 再び与えられた煎餅をまた口に含みながら唸る。あの言葉を受けてからというものの、何度か二人の関係を公にする事については考えていた。しかしどう想像を巡らせてもあまり良い方向には向かわないように思えていた。
 だが、結婚となれば話は変わる。詳しくはないが、隊長格ともなれば色々と面倒な手続きやら承認が必要と聞いた覚えがあった。その中途半端だった知識が急に生々しく思え、煎餅を口に含んだままぼうっと天井を見上げる。

「で、それ受けるんでしょ?」
「受けるというか、まだその…この先を考えて欲しいって言われてるだけで、明確な言葉は貰ってないから…」

 とは言え、彼が言う先という言葉は間違いなく松本の言う通りの意味合いを持つのだろう。しかし、千世からしてみれば急な話だ。元はと言えば、千世がルキアの前で浮竹の下の名を呼ぶという失態を犯した事が切欠だと思っていた。だがまさか結婚を思いつきで口にするような性格ではないだろう。
 いつから彼がそう意識をはじめていたのか、それは松本の言う通りとっくの昔からだったのかも知れない。それともやはり、先日の記憶喪失の一件からか。一体何がその先を考える引き金になったのかは分からないが、何れにしろ千世も同じように考えなくてはならない。

「浮竹隊長って恋愛理詰めタイプらしいから、千世に意識させる事から始めようとしてるのかもねえ」
「恋愛理詰め……?」

 聞き慣れない言葉に眉を潜めていれば、まあいいや、と松本は笑う。

「だって、あんた結婚なんて考えたことないでしょ」
「え!?いや…いつかはとは思ってたけど」
「やっぱりそこからって事ね。浮竹隊長もちゃんと分かってんじゃない」

 先程から目まぐるしく言葉が流れ、頭痛がしてくるようだ。しかし彼女とこうして話を進めているが、実際そんな深い意味も無かったらどうしようかと内心多少思う。そうであれば勿論拍子抜けはするだろうが、少しばかり安心をするような気もした。
 千世は湯呑の中身を飲み干すと、一つ吐き出すように息をつく。

「もう終わりにしよう私の話は…」
「だめよ、あたしが居ない間ちゃんとうまくやってたか知りたかったんだから」
「というか乱菊さん時間大丈夫なの?もうすぐ日付回っちゃうけど」

 壁の時計を見上げ千世が言えば、松本は途端に慌てたように立ち上がった。

「ヤッバい!日番谷隊長に滅茶苦茶怒られちゃう!」
「でも残念だな、すぐ帰っちゃうなんて」
「本当は一泊くらいしたかったんだけどねえ、色々あんのよ」

 時間が迫っていたことは薄々気づいていたが、こうして寸前で言えば一日程度滞在してくれるのではないかと多少思ったのだ。しかし生憎そう簡単には行かないらしい。長椅子に広げていた手荷物を簡単に手提げへ纏めた松本は、机上にあった菓子盆ごと煎餅の山を千世へと渡す。
 全部食べといて、と言い残した彼女は特に別れの挨拶も無いまま風のように部屋から去っていった。
 菓子盆を手にしたまま、人気のない道を隊舎に向かって進む。そのまま寮へ帰ったほうが早いのだが、手荷物を全て隊舎に置いて十番隊へ向かってしまった為一度戻らないと色々と困る。しかしそこからまた寮へ戻るのも面倒だから、そのまま隊の浴場を借りて執務室で寝てしまおうかとも考えた。
 行儀が悪いとは知りながらも、手持ち無沙汰に煎餅を齧る。どうも口さみしく、こうして歯ごたえのあるものを口に含んでいると安心した。静かな帰路に煎餅を噛み砕く音が鈍く響く。ひとくちを飲み込んだ時、ふと視線の先に人影が見え菓子盆の中へ煎餅を戻した。
 その姿は千世の気配に早くも気づき、立ち止まって軽く会釈をする。早足で駆け寄ると寝間着姿の卯ノ花が何時もと変わらぬ笑みを湛えていた。

「卯ノ花隊長、こんばんは」
「こんばんは、日南田副隊長。どうされたんですかこんな時間に」
「現世から松本副隊長が戻られていたので、少し話をしていたらこんな時間に…」

 食べますか、と煎餅を差し出したが笑顔で断られた。彼女こそ一体この時間に何をとは思ったが、しかしその独特の雰囲気を前にして聞き返すのは控えた。
 特に会話も無いまま横並びで歩を進め、何度か十字路や丁字路を過ぎたが行き先が同じなようで中々別れ道とならない。流石に暫く無言が続くとそわそわとし始めるもので、あの、と千世は口を開く。

「結婚ってどういうものなんでしょうか」
「…あら、私に聞かれるなんて良い度胸をお持ちですね」
「えっ!?いや、ただ単に、同じ女性としてその…どういう印象をお持ちなのかと思って…」

 決して他意があった訳ではない。その言葉の通り、同じ女性として結婚というものをどう認識しているのかを単純に聞きたかった。彼女がそういった選択をしていない事は知っていたが、それにもきっと何か意味があるのだろうと思う。
 冗談ですよ、と慌てた千世に卯ノ花はそっと呟く。長く豊かな髪を前に束ねたその横顔は優しく、しかし一体何を思うのか全く読めることはない。思わず見惚れていれば、ふと彼女の視線が向き我に返った。

「不思議なものだと思います」
「…不思議なものですか?」
「共に過ごすだけの為にわざわざ書類を交わして、まるで契約をするみたいに」

 そうは思いませんか、と彼女は穏やかに笑う。契約と言われれば、確かにそうなのだろう。この先の時間を共にする相手として契約をする。しかし共に過ごすという事であれば、敢えて婚姻関係を結ばずとも可能ではある。

「それほどまでして、共に生きたいという事なんでしょうけどね」

 その姿に似つかわしい上品な微笑みに千世もつられて笑う。彼女の言葉はまだ多少の動揺が続く千世の中へそっと染み込むように感じた。

「そのようなご予定が?」
「えっ!?いえ、そういう訳では…」
「あら、そうなのですか」

 突然そんな話を持ち出されれば、そう疑いたくなるのは当然だろう。明らかに怪しい反応を千世は見せたものの、それ以上卯ノ花は詮索すること無く口を閉じた。

「貴方とお相手の見る先にあるものが、同じであれば良いですね」

 曲がり角に差し掛かった時聞こえた言葉に横を歩いていた筈の彼女を見たが、もう既に姿は消え、千世の向かう道とは真逆の随分先にその背中が見える。
 先か、と一人立ち止まったまま呟く。それは確実に近づいているのだろうが、今の千世には現実味がなく、どうしてもまだ遠い事のようにしか思えなかった。

 

まばたきの猶予
2020/11/17