ほとんど善意
「千世ちゃん、最近いい匂いするよね」
「…千世が?」
そうそう、と京楽は笑顔で頷く。彼女の匂いに気付いたのはつい先日のことだ。女性への興味が強いせいか纏う匂いには比較的敏感で、香水を変えたような変化であればすれ違った程度でも十分判断がつく。
偶然彼女と飲食店街で出会った時、外だというのに鼻をくすぐる彼女の匂いに気付いた。というのも、彼女に今まで特別な匂いを感じたことがなかったからだろう。香るのは浮竹と同じあまり色気のない石鹸のような香りだけで、ほぼ無臭に近かった。
そんな彼女が甘い香りを漂わせていれば嫌でも鼻をくすぐられる。香水をつけ始めるなんて、何か心変わりでもあったのかと自然と口元が緩んだものだ。勿論彼女に直接尋ねるような無粋な真似はしていない。
「浮竹気づかないの?」
「いやそれが…さっぱり」
「嘘だあ、だってあんなに甘い香りさせてんのに」
それは浮竹があまりに鈍感なのか、それとも長い時間を過ごしすぎてその香りに慣れてしまっているのか分からない。もし前者だとするならば、もしかしたら彼女は浮竹が気づくまで徐々に香りを強くしているのかも知れない。
「あんまりに良い香りだからさ、つい近くで匂い嗅いじゃったよ」
「…全然気づかなかった」
浮竹は少し困ったような様子で腕組み何やら考えたような様子を見せる。そりゃあそうだろう。自分の恋人が良い香りをさせて、実際に男が存分にその甘さを吸い込んだと聞けばあまり良い気分はしない。
昔から優しさだけは人一倍だというのに、女性や恋に対して人一倍鈍感なのは相変わらずだ。年齢を見ればいよいよ最後かとも思える恋人が出来てもこの様子ならば、彼女はああ見えて苦労をしていそうなものだ。
眉を曲げてううんと唸る浮竹に、京楽は僅かに口角を上げてあのさ、と話しかける。
「今少し焦ってるでしょ」
「…何でそう思った」
「恋人が甘い匂い振りまいて、妙な虫が寄ってきたら困るだろうと思ってさ」
図星が分かりやすいのも相変わらずだ。さらに眉間に寄った皺の数を京楽は数えるようにじっと見つめると、とうとう顔を逸した。そして突然立ち上がり帰る、と一言呟く。全く帰る素振りなど今まで見せていなかったというのに、随分急なことだ。
昼時に偶然会い、せっかくだからと茶屋で団子を楽しんでいたのだがまあ仕方ない。
「まだ団子残ってるよ」
「やる」
じゃあ、と颯爽と去って行く後ろ姿で立派に隊長羽織をたなびかせているが、その実恋人の香りで猛烈な不安に駆られているというのだから面白い。これから帰って、彼女の香りを確かめるのだろうが確かめた所でどうするというのだろう。
その後の展開に想像を及ばせるような無粋な真似はやめておく。浮竹の残した団子を一つ口に含みながら、曲がり角へ消えてゆく白い後ろ姿を見送った。
梔子にくちづけにつづく