ふたりのシナリオ

おはなし

 

「知ってますか、千世さん」

 女性死神協会での定例会が終わり、珍しく伊勢と昼食を共にしていた。
 今日は特にこれといった議題はなく、業務の都合で出席者も通常時の半分ほどしか集まらなかった為早めに会は終了した。いつも通り二時間は会合のために予定を組んでいたのだが思いがけず余裕が出来、さらに丁度昼時という事もありその帰路で連れ立って手頃な定食屋に入ったのだ。
 賑わう店内で互いに箸を進ませながら、ふと伊勢は思い出したように口を開く。何をですか、と千世が聞けばどこか得意げな表情で彼女は笑った。

「女性は二番目に好きな殿方と結ばれたほうが幸せになるらしいですよ」
「そ、そうなんですか!?」
「いや…そんな本気の反応をされるような話では」

 彼女から聞かされる話というのは、話題が何であったとしても全てがまるでこの世の真実のように聞こえる。その眼鏡の奥に輝く鋭い瞳と、聡明な顔立ちがそうさせているのだろう。だから思わず彼女の言葉の通りに受け取ってしまったのだが、伊勢はあまり本気にしないでくれと笑う。
 だが、彼女がそんな話を持ち出すなど珍しい。どこで知ったのかと聞けば、なにやら先日一瞬だけ尸魂界に帰ってきていた松本が女性死神協会へと置いていった雑誌の情報なのだという。千世も一度面白いからと以前土産として渡された事があった。確かにあの系統の雑誌であれば、伊勢が言い出したような話題が書かれていても不思議ではない。

「横文字が多く、意味の分かる範囲を読んだだけですが」
「へえ…意外に、七緒さんそういうの読むんですね」
「べ、勉強の一貫です!現世の習慣や考えは興味深いものがありますから」

 そう言って彼女は眼鏡のつるを指先で持ち上げた。現世の品はよく見るし手に取ることも多いが、だが習慣や考えというものはそうもいかない。千世も松本からの土産として渡された雑誌に多少目を通したものだが、あまりに目のちかちかとする言葉ばかりが並んでいた。
 しかし、それにしても二番目に好きな相手の方が幸せになれるという意味が果たして分からない。一番好きな相手と一緒になれるならば、それ以上に幸せなことは無いと思うのだが。少し考えるように空を見上げていれば、ふと浮かんだ姿を慌てて頭から追い出し手元の味噌汁を口に含んだ。

「でも、どういう意味なんですか?」
「その雑誌が言うには、最も好きな相手というのは、知らずのうちに評価が減点方式になってしまうのだと」
「…なるほど、逆にそうでもない相手ならば加算方式になるという事ですか」

 そうです、と伊勢は頷く。そう言われてみれば確かに意味は分かる。好きな相手にどこか夢を見てしまうというのは、浅い関係が故に起こる事故のようなものだろう。自身の中で相手の知り得ない部分への想像が膨らみ、自然と理想の姿を作り上げる。
 関係が深まるにつれ自身の理想と乖離している部分に気づき、相容れない部分でも見つかってしまえば一変してそれは不幸にすらなり得る。それまで夢を見ていた分だけ、その落差の激しさというものは想像に難くない。
 比べてそう好きでない相手ならばいくらかの事でも好印象となるのだろう。元の期待値が低いほど、多少の事で株が上がったりする。最も好きな相手を長い付き合いの中で嫌いになってゆくよりも、そうでもない相手を徐々に好きになってゆく方が幸せなのではないかと、そういう事らしい。
 ならばそうでもない相手の嫌な部分はどうすれば良いのかと思うが、そう細かい所を気にして読むようなものではないのだろう。賑やかな雑誌の記事にそう本気になるものでもないが、だが今の千世に結ばれるだの何だのという話は折も折といった所だった。

「それに何より、惚れた弱みですよ」
「惚れた弱み……」
「いつの時代でも惚れた方というのは関係において不利ですから」

 全てその雑誌から得た知識なのだろうが、まるで伝道師のように語る伊勢を千世は見つめる。彼女が言うには、惚れた方というのは常に相手の後手に回るものになってしまうのだという。相手を客観的に見れない関係性というのは長続きはしない。続いたとしても、相手に良いように使われるだけだと更に続ける。
 その理論は確かに分からなくは無いが、必ずしもそうではないだろうとは思う。だが、確かに相手に心底惚れてしまえば何をされても許してしまいたくなるような気が分からなくはない。実際、風呂上がりの楽しみにしていた白玉ぜんざいを先日浮竹に食べられた事があったが、あの時一瞬は怒ったものの、必死に謝る姿を見てすぐ許してしまった。いや、これは少しばかり違うか。
 だが、現世の雑誌というものは随分と踏み込んだことを書いているものだ。打算や妥協が恋愛には必要だという事なのだろうが、その境地に辿り着くまでの経験値が千世にも、恐らく伊勢にも無い。らしい、とか、だろう、とかそういう推量や伝聞の話ばかりでふわふわと結論の無い会話だ。
 そう色々と考えながらの食事というのは、箸があまり進まない。冷め始めてしまった煮付けをその箸先でほぐす。

「お付き合いは自由ですが、結婚となればしっかり考えないとなりませんね」
「け、結婚!?」
「そういう話をしていたじゃないですか」
「そ…そうなんですが…」

 急に出てきた単語に千世は思わず漏れた声を慌てて抑える。確かに元々そいう話をしていたことには違いないのだが、実際その単語を耳にするとどうしても心臓が跳ねる。
 しかし千世のこの状況で結婚の話題を持ち出してくるなど、まさか何か彼女は知っているのではないかと疑いたくなるほどだ。煮付けをほぐしていた箸を止め、勝手に動揺をしたまま漬物を口に運んだ。
 浮竹に「先を考えてくれ」と言われたあの日から、言葉の意味を考えては止めを繰り返していた。先日相談をした松本の言う通り彼の指す先というのは、まさか籍を入れるという事になるのだろうか。何度もあの日を思い出しては考えていたが、結局彼の真意を聞かないことには話が進まない。

「まあ、雑誌の下らない記事ですけどね。千世さんはどうなんですか、最近…」
「さっきから二人で楽しそうな話してるねえ」

 隣の二人がけの席が埋まって暫く経っていた筈だが、話に夢中だったせいか今頃になって京楽だった事に気づいた。突然掛けられた声に二人して息を止める。私ともあろうものが、とやけに悔しそうな伊勢を尻目ににこにこと笑っている彼の姿を見て千世は内心焦っていた。
 楽しそうな話、と乗って来た所を見ればこの前後の会話はほぼ聞かれているのだろう。妙なことを口走っていないか思い返すが、聞かれて問題のあるような事を漏らした覚えはない筈だ。

「ボクは難しい事考えずに、一番好きな人と一緒になったほうが良いと思うよ」
「女性二人の話に普通に入って来られるの止めて頂けませんか」
「いいじゃない七緒ちゃん。君たちの倍生きてるおじさんの意見」

 ねえ千世ちゃん、と目線を流され千世は慌てて頷く。むすっとした伊勢をなだめるように笑うと、彼女はへの字に曲げた口へと湯呑を寄せた。会議前の雑談でちらと聞いた話によれば、提出の近い書類がまだ京楽から返ってきていないのだとか何とかと言っていた気がするからそれもあって彼女の感情も盛り上がっているのだろう。

「でも隊長はご結婚されてませんよね?」
「うん、してない」
「どうしてご結婚され無いんですか?色々お付き合いはあったご様子ですが」

 千世は変に口を挟めば墓穴を掘ってしまうような気がして、白飯を咀嚼しながら黙って二人のやり取りを見守っている。

「結婚ってなると腰が重くてね。自分の人生を渡して、相手の人生を貰うわけだから」
「隊長にはまだその度胸もお覚悟も無いと」
「…七緒ちゃん、今日いつもより刺々しくない?」

 ねえ千世ちゃん、とまた同意を求めるように目線を流されたが今度は彼女の琴線に触れないようそっと目をそらした。
 京楽の言葉が千世の中のぼんやりとした感情の上へと積もってゆく。浮竹はそこまでを考えあの言葉を伝えてきたというのだろうか。今思えば実に何気ない様子だった。自分の人生を渡す覚悟は出来たから、君も考えてくれとまさかそういう事だったのだろうか。
 だがそう想像をするにも、やはりあまりに彼の言葉が足らない。はっきりと意思を伝えられたわけでもないというのに、勝手に結婚の話だと決めつけているがしかしこれで彼の意図から外れていたら赤面ものだ。
 直接聞く他ないのだろう。一人思い悩んでは何度もその結論に至るが、しかし中々腰が重い。あれから何度か二人で過ごす時間はあったが、どうもその件に触れることが出来なかった。

「ああそうだ、七緒ちゃん。頼まれてた書類全部判押しといたよ」
「や…やっとですか!?お願いしたの二日前ですよ!?…はあ…すみません千世さん。私、誰かのせいで大急ぎで書類仕上げなくてはならないので、先に出ます」

 そう言って伊勢はそそくさと財布から小銭を取り出し机の上へと重ねる。朝愚痴を呟いていた件だろう。随分苛立った様子で京楽の事を一瞥するが、特に気にしていないような様子で手をひらひらとさせている。毎度思うが、八番隊は実に絶妙な力関係で成り立っている。信頼関係は根底にあるものなのだろうが、二人の性分があまりに正反対でそれが逆にうまく合致してしまっているのだろう。
 伊勢の去ってゆく怒りの後ろ姿をぽかんと見送った。呆気にとられ暫く口の中でとどめていたままの沢庵の咀嚼を再開すると、小気味の良い音が頭に響く。

「毎日顔見ることになるんだから、一番好きな相手が良いに決まってるよ」
「は、はい!?」
「いやほら、さっきの話」
「まだその話されてたんですか…」

 もう終わったものだとばかり思っていた話題に、思わずまだ噛み途中だった沢庵を飲み込み答える。だが、今思えば伊勢に書類の話を持ち出した時は唐突なものだと思った。まさか突っ込んだ話をしたいが為に体よく伊勢をこの場から去らせたのではないかと勘ぐる。
 どことなくにやけた笑みはいつも通りで、その裏で何を考えているのかはまるでわからない。

「ボク、こう見えて勘が良いんだよねえ」
「…何のお話でしょうか」

 白々しい千世の言葉に京楽は一つ笑う。千世が誤魔化す以上それ以上の詮索をすることは無いのだろうが、きっとその違和感の理由にはしっかりと気付いているのだろう。余計な墓穴を掘らぬようにと押し黙りながら、煮付けの最後の一欠を白飯の上に乗せる。
 彼も暫く同じように黙々と箸を口に運んでいたが、あのさ、と独り言のように呟いた言葉に千世は視線を向けた。

「案ずるより産むが易しって言うじゃない」
「はい、言いますね」
「君たちにはぴったりな言葉だと思うんだけど」

 はあ、と千世は頷く。彼の言わんとする事は嫌というほど分かるが、ピンと来ない振りをして眉を曲げた。考えている時間が無駄だという事は千世自身も感じていることだが、だが生憎そう易易と思う通りの行動に移せるような性分ではない。必要な言葉を互いの中でしまい込みながら、ああだこうだと考える。
 自然とため息を吐けば、隣の京楽は可笑しそうに笑った。彼からすれば話題に事欠かない二人として見えることだろう。
 案ずるより産むが易しとは正に言い得て妙で、いずれ必ず待ち受ける事実にうんざりするほど悩むより、一息に踏み込んでしまえば瞬く間に決着が着く。そう分かりきった事だというのに、彼を前にすればその温いままの心地よさに身を任せていたくなる。変化というものは期待の反面恐ろしい。
 二番目に好きな相手ならば、こう何日も悩むこともは無かったのだろうかとふと伊勢の話を思い出す。二番目に好きな相手だったならば、そんなに過度な期待もせず悩みもせず、打算と妥協の仕方を覚えて何となくこの先の人生を共にしようかと決めてしまうのだろうか。
 だが別に、二番目に好きな相手が居るわけでもない。無駄な仮定かと、ぼんやり最後の沢庵を口に含む。こうしている間にも時間は進み、底なし沼の深みへ嵌り続ける。人もまばらになってきた店の隅で、一世一代の難問を相も変わらず見上げていた。

 

ふたりのシナリオ
2020/12/03