せめてせめて

50音企画

せめてせめて

 

 あ、と千世は息を呑む。今日は流魂街での任務が午前中で済み、午後は隊舎での待機となっていた。昼食の為隊舎の食堂を覗いたが生憎満席で、何時もならば適当に台所の残りを漁る所だが今日は偶々四番隊舎近くの食堂へとやって来ていた。だがその気紛れな選択にここまで感謝をする事になるとは思いもしなかった。
 千世は息を呑んだまま立ち尽くす。盆の上に乗ったきつねうどんは温かそうな湯気を立て、鰹出汁の良い香りを漂わせている。つい先程まではすぐにでも腹を満たしたい気で満々だったというのに、あの白髪の隊長羽織の姿が目に入った途端腹の減りなどどうでも良くなった。
 浮竹が時折この食堂へ訪れていることは隊の噂でもよく聞いていた。だが、別にそれを期待してこの食堂へとやってきた訳ではない。ここは幾分他の食堂よりも広く席数にも余裕がある。この時間帯でも多少待てばすぐに空きが出ると思っていただけだ。
 幸いにも一番の混雑時間は過ぎたのか、所々で空席は出ている。混み合ってはいるが、新たな客の入も落ち着き、盆を下げて出てゆく者のほうが多い。席につこうと思えば直ぐにつけるというのに、ただ立ち尽くしているのは彼の横に空席を見つけたからだ。
 偶然を装って隣に座るか、それとも素直に挨拶をして腰を下ろすか。誰にも囲まれず、一人で居る姿などそうそう無いこの幸運を無駄にすることは出来ない。だというのに足が中々進まないのは、話しかけた所で何を話せば良いかも分からず、図々しいと思われやしないかと不安が渦巻くからだ。
 恐らく杞憂であるとは思う。きっと声をかければ、彼は笑って返してくれるだろう。調子はどうだとか、そんな当たり障りのない事を聞いてくれるのだろう。席官になってまだ間もなく、今までただ陰から憧れていた浮竹と言葉を交わすことが多少は増えた。前に比べれば緊張も減ってきたものの、しかしまだ二人きりの場などほぼ経験したことは無い。
 烏滸がましくはないだろうか。昼食という実に個人的な時間を邪魔することが不安だ。そう考えているうちにどんどんときつねうどんの熱は湯気とともに失われ、麺は汁を吸い太り始める。先程から何人か千世の横を追い越し空席へ腰掛けてゆくが、しかし浮竹の横はまだ空いたままだ。
 こういう場で、中々隊長の横に腰をかける者は居ないだろう。千世もその気持は良く分かる。どうしよう、と少し足を進めては、またその場で立ち止まる。何を食べているか、ご飯物であることは分かるがそれが親子丼か、かつ丼か、はたまた焼き鳥丼であるかの判別が出来ないような距離だ。
 しかしきっとここで話しかけなければ一生の後悔をするに違いない。千世は意を決してその足を一歩ずつ踏みしめ進める。何を話そうか、と頭の中で様々な会話を思い浮かべながら、その姿へ一つずつ近づく。
 その距離がようやく後少しと縮まった時、手を合わせ頭を下げる様子が目に入り思わずあっと微かに声を上げた。間もなく彼は立ち上がり、盆を持ち上げ再びその姿は離れてゆく。

「…やられた」

 小さく呟く。何をやられても無い、悩む時間が長すぎた千世の自業自得ではあるのだが、それ以外どうにも他の言葉が出なかった。盆を下げ、羽織をたなびかせて出口へと消えてゆく背を千世は呆然と見送る。
 その姿が消えるまで見届けた後、千世は失意のまま彼の腰を掛けていた席の辺りまで進んだ。此処に彼は腰を掛けていたのだと、暫く見つめた後何を思ったか辺りを少し見回した後に机上へ盆を置き、その席へと同じように腰を下ろす。
 何をしているのだとは思っている。決して人に言えたものではない。僅かに温もりが残るその席に、千世は何とも言えない感情を抱いていた。