おそろいの言葉を

おはなし

 

 台所で湯を沸かしながら、千世は壁の七曜表を眺めていた。予定であれば今日の昼には浮竹と三席の二名が戻る筈だったのだが、もう陽は落ちようとしている。
 三日ほど隊を空けるとその突然当日の朝突然聞かされた事を千世は思い出す。それもそのはずで、総隊長の古い知り合いが亡くなりその葬儀への参列だというのだ。
 四十六室が機能しない現在、権限を持つ総隊長が瀞霊廷から離れる事は叶わず、故人と顔見知りでもあった浮竹が護廷隊の代表として向かう事になったのだという。
 問題は現地まで馬で片道丸一日要する点で、往復滞在を込みで三日は掛かるとの事だった。日帰り程度であれば隊長の同行は大抵副隊長が務めるものだが、三日ともなればそうは行かない。
 現状、三日もの間隊首と副官の二名が隊から離れるというのは考えられない事だ。だから三席の二名を同行として選ぶ事は至って順当で、千世も勿論納得をしている。だというのに、この三日どうも心穏やかでないのは確かだった。
 ぼうっとしていると笛を鳴らすやかんに耳をつんざかれ、慌てて火を止める。注ぎ口から勢いよく上がりもやもやと消えゆく湯気を眺めながら、徐々増してゆく胸のざわつきをかき消した。
 互いに多忙であっても丸三日顔を合わさないという事は滅多に無い。二人きりで過ごす時間が無いにしても、隊舎の何処かしらに居る彼の気配を感じるだけで安心をしていたものだ。
 急須に湯を注ぎながら、千世は窓の外から空を見る。もうすっかり陽が落ちるまで早くなってしまったものだ。つい先程まではまだ多少の明るさが残っていた空が、ふとやかんの湯に気を取られていた間にもう濃紺へ染まっている。
 やかんに多少残った湯を流しに捨て、千世は急須を手に持ち台所から出た。この茶を飲み終える頃にはもう仕事も切り上げ帰る事にしようと、積み上がった報告書を頭の中で思い浮かべた。彼を待つ口実を机上の書類に押し付け、戻った執務室の椅子にそっと腰を下ろす。
 三日程度あっという間に過ぎるものだとばかり思っていた。多忙は変わらずだというのに、ふとした時に彼が過り恥ずかしながら恋しく思う。たった一日すらも耐える事が出来ないものかと、彼が発った日の夜、自身にほとほと呆れたものだ。
 そんな甘い患いを追い払うように書類へ筆を走らせる。舌がしびれるほどの熱い茶のお陰か暫くは珍しく集中でき、時計の針が気づけば随分進んでいた。未だに微塵も感じない彼の霊圧を無意識に探りながら、千世は一つ伸びをする。
 集中の糸が途切れると中々再び結びつけるのは難しい。伸びとあくびを終えると千世はそのまま机上へと突っ伏した。もう見切りをつけて寮へ帰っても良いのだが、だがどうにも隊舎から離れる気にはなれない。今帰宅してしまえば、顔を見ることが出来るのが明日になってしまう。今の千世には明日が遠すぎるように思えた。
 長い息を吐いた後、薄っすらと瞼を閉じる。途端に、少し前からじわりと湧き出していた眠気が大波のように意識を攫う。こんな所で眠っては腰も首を痛めると分かっているのに、だがしかし睡魔には勝てず重い瞼がその意思で開く事は無かった。

 千世、と優しく名を呼ぶ声でまだ眠い瞼をゆっくりと開く。ぼんやりとした視界は積み重なった書類で覆われ、先程机上に突っ伏したまま眠ってしまった事を思い出す。とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまったかと呆れた。
 眠る直前の記憶を徐々に引っ張り出していれば何者かに突然顔を覗き込まれ、慌てて椅子から転がり落ちた。

「た…隊長……」
「悪かった、驚かせてしまったな。何度か呼んでたんだが…」
「いえ、私もこんな所で眠ってしまっていたので…」

 あれは幻聴ではなかったのか。まるで真綿を指先で解すような優しい声音での目覚めはいつも飽きる事なく心地良く、耳にまだその柔さがくすぐったく残っている。
 机に掴まりながら立ち上がると、再び椅子へすとんと腰を下ろした。三日ぶりに見る彼の姿は勿論何ら三日前と変わりない。たった三日でそう変化が起こる筈ないというのに、その変わりない笑みを見ると今まで沈みかけていた千世の気分は簡単に浮上した。
 ようやくはっきりとした視界の中の彼は既に室内着に着替え、長い白髪は湿り石鹸の香りを微かに漂わせていた。時計を見ればもう深夜を回っており、思ったよりも長い間千世は机に突っ伏して眠っていたようだ。どうりで腰と首が痛む。

「いつ帰られてたんですか?」
「一時間程前だよ。一先ず風呂に入って、千世がまだ残ってるようだったから様子を見に来た」
「…すみません、わざわざ。もう寮へ帰ろうと思って居たのですが」

 本当は帰りを待っていたと、素直に口に出す事が出来たほうが可愛げがあるのだろうが、いつも何かが邪魔をしてその本心を背に隠す。それを知ってか知らずか、彼は笑うと長椅子へと腰を下ろした。
 話を聞けば、どうやら帰りが遅くなったのは小椿が道中突然腹を壊したからなのだという。急遽近隣の町に寄り数時間彼の調子が戻るまで待機をしていたらしい。
 万が一何者かの襲撃を受けていたらと思わなかった訳では無かったが、浮竹と三席の二名ならばと大きな心配はしていなかった。小椿には悪いが、大した理由では無かった事にほっとしてようやく千世の口元は緩む。
 座席から立ち上がると浮竹の元へと近寄り、その横へと千世は腰を下ろした。たった数日ぶりだというのにその隣がやけに懐かしく思えるのは、それほど彼の隣を当たり前のように感じていたからなのだろう。
 会えない時間というのは不思議なもので、どうしてか想いを増すものだ。美味しい菓子を食べれば彼に同じように食べさせたいと思うし、おかしい話を聞けば彼に聞かせたいと思う。伝えたい事が自然と堆積してゆくほど自らの思いの大きさを知り、勝手に胸を熱くしていた。
 三日間の出来事を指折り思い出し話しながら、まるで自分が子供のようだと空恥ずかしい。しかしあれもこれもと口を衝いて止まらず、彼の相槌が余計にそうさせた。

「さっきは何か、夢を見ていたようだったな」
「夢ですか…?」

 一通りに話し終えると彼にふと尋ねられ、千世はつい先程の居眠りを思い出す。確かに夢を見ていた。すっかり記憶の中に仕舞い掛けていたが、今の浮竹の言葉で引っ張り出された。
 はい、と目線を逸しながら千世は答える。まさかあなたの夢を見ていましたなどとは言えない。それに今日だけではない、昨晩もその前も彼の夢を見た。ただいつも通り彼が傍にいるだけの何という事のないものだ。
 だというのにその目を見て答えられないのは、思いの重さに呆れられるに違いないと思うからだ。その人を夢に見るというのは、会いたい思いが強いからだとよく言う。
 たった三日の離別で夢に見るほど恋しく思うなどあまりに甘えが過ぎるようで、とてもではないが彼に言うことが出来ない。暫くええ、とかああ、とかと言葉を誤魔化していれば、ふと浮竹が口を開いた。

「もしかして、俺の夢でも見ていたか」

 まさかこの脈絡で突如図星を指されるとは思わず、千世はしばらく無言でいた。どう答えれば彼に呆れられずに済むのかとその僅かな時間で必死に考えを巡らせるが、最適解には辿り着けない。
 千世は答えあぐねながら逸していた視線を僅かに彼へと向けたが、思っても居ない彼の様子に更に動揺をした。どうしてか髪から覗く耳を赤くして、手持ち無沙汰に指先で唇を撫でている。

「隊長…?」
「…ああ、いや…違ったなら良いんだ」
「いえ、…隊長の夢を見てました」

 夢を見ていたと言い当てられ恥ずかしがりたいのは千世だと言うのに、まるで彼の方が照れているような様子がよく理解できず、赤い耳を見て胸がざわついた。
 どうしたんですか、と思わず千世は尋ねる。浮竹はその言葉にちらと目線を千世に遣ると口を開いたままあー、と小さく漏らす。まるで先程言葉を誤魔化していた千世と同じ様子だ。言葉の先が気になり、千世は浮竹へと身体を向けじっとその目を見る。
 やはりまたさっと逸されたそのまま、彼はまたその薄い唇を手持ち無沙汰になぞった。

「…会いたい思いが強いと、相手の夢に現れてしまうと言うだろう」

 照れくさそうに言う彼の言葉を千世をゆっくりと咀嚼する。会いたいと願う思いが強いあまり相手の夢に現れるなんて、なんと夢うつつな甘い解釈だ。
 遠い記憶で、確かにその話を千世も聞いたことがあった。夢に想い人が現れるのは相手が自分を想ってくれているから、そして嫌いな相手が出てくるのは相手もまた自分を嫌っているから。
 頬の緩むような話に千世は笑う。耳を染めるほど照れていたのは、それほどまでに強く想っていた自覚があったという事なのだろうか。何れにしろ千世もそれは同じで、そうなるときっと毎晩のように彼の夢に現れていた事だろう。

「では私も隊長の夢に現れたのでは無いですか」
「ああ、困ったことに毎夜だよ」
「ああ、やっぱり同じですね、隊長も毎晩私に会いに来られて」

 参ったな、と浮竹は眉を曲げて笑った。
 膝の上に載せた手に、彼の手が重なる。流れ込む体温が夢でない事実を証明するようだ。柔い力で握られ指先同士が徐々に絡む。静かな部屋の中で互いの呼吸の音だけが聞こえた。

「たった数日で、こうも恋しいとは思わなかった」
「それは、私も同じです」

 赤い頬のまま千世が答えると、彼はその目を細める。三日の患いがこの僅かな時間であっという間に癒える事が可笑しく思えた。
 彼への思いが実り未だひととせにも満たないというのに、この場所以上の安息は無いのだと千世は思う。時折それは彼にとっても同じなのでは無いかと尊大にも思う事があるのは、その緩んだ柔らかな表情が自分だけのものだと知っているからだろう。
 背に回された腕に力が入り、彼へと身体を預ける。その香りを胸に吸い込みながら、千世は再び瞼を閉じた。眠気を誘う体温を感じつつ、部屋に響く時計の針の音を聞く。
 握られた片手に少し力を込めれば、応えるように軽く握り返された。こうして誰よりも傍に居るというのに、今日もまた彼の夢に現れない自信がない。まるでうわ言のようにそう呟けば、答える代わりに手の甲を親指でするりとその指先まで撫ぜる。
 それはまるで同じだとでも言っているように感じたのを、今日はどうしてか烏滸がましい事とは露程も思わなかった。

 

おそろいの言葉を
2020/09/11
(台詞リクエスト「もしかして俺が夢に出て来たか」)