「昨日は珍しく酔ったみたいでね」
「そうみたいですね…」
「何時もと呑む量変わんなかったんだけど。ごめんね」
浮竹に所用があり十三番隊舎へと訪れていたという京楽が、ついでにと千世の執務室へと顔を出していた。
彼の申し訳無さそうな顔の理由は千世も知っている。今朝げっそりとした顔の浮竹と廊下ですれ違い、何事かと聞けば昨晩遅くまで京楽の私邸で呑んでいたというのだ。翌日に響くまで酒を浴びるような性格でも無いというのに、もともと体調でも悪かったのだろうかと心配だったのだがそういう訳ではないらしい。
頭が痛いやら吐き気がするだのと呟く普段の体調不良とは訳が違う珍しい様子に、取り敢えずと先日焙じたばかりの消化不良に効能のある薬茶を渡した。恐らく二日酔いには何の効果も無い薬草だが、多少の気まぐれにでもなれば良いと思い黙って渡した。
京楽が言うには明け方自宅へ帰っていった時に比べればマシな様子だったと言うから、よっぽど酷かったのだろう。千世が笑うと、ああそうだ、と懐から何やらごそごそと折り目のついた紙を取り出し手渡した。受け取ったそれを、まじまじと千世は見つめる。
「それで、これ。千世ちゃんにあげる」
「…何ですか、これは…手紙…?」
「まあ後で読んであげてよ。ボクが持ってても意味ないから」
じゃあね、と襖を開けて出てゆく京楽に千世は頭を下げる。宛名も何もない手紙のように折りたたまれた紙を、千世はしばらく見つめていた。
読んであげて、という言葉が妙に耳に残る。話の流れからすれば昨日遅くまで飲み明かしていた浮竹と関係がありそうにも思える。嫌な予感とは違うが何かしらそれに近い胸騒ぎを感じ、それが良いものか悪いものか見当がつかない。さっさとこの手紙を開いてしまえば済む話ではあるが、中々気が進まず一先ず机上に置いてぬるくなった茶を一口すすった。
業務上手紙のやり取りをする事は多いが、ほとんどが他隊とのものだ。個人的な手紙のやり取りというのはあまりしない。現世との通信は伝令神機という便利なものが最近は使われるようになっているから、松本とは時折それでやり取りをしていた。一昔前であれば、そういったやり取りは手紙で無ければ出来なかった事だろう。
湯呑を置いた千世は再び手紙を手に取ると、灯りに透かしてみる。薄っすらと文字が重なる様子が見え、どきりと胸が跳ねた。ひとつ呼吸を整えると、そのまま恐る恐る開く。
中には流れるような文字が数十行に渡って綴られていた。筆跡を見るに恐らく浮竹のものだと分かる。毎日彼の記入した書類を処理していれば嫌でも分かるというものだ。しかしこれは、普段の文字と比べて随分ふにゃふにゃとまるで虫の這うようなものだ。解読に多少時間がかかりそうな程崩れている。
千世は食い入るようにその文字らしき羅列を眺め、一行をようやく読み終えた所で思わず息を止めたまま空中を見上げた。
「…これ」
止めた息を細く吐き出しながら、一文字一文字をもう一度目で追った。それが間違いなく、所謂恋文だという事に気づいたのはそれを三度ほど繰り返したときだった。
認識した瞬間にばくばくと鳴り始めた心臓を落ち着けるように、千世はゆっくりと深呼吸を繰り返す。その動揺に思わず立ち上がりうろうろと部屋の中を移動していたが、近くの長椅子へすとんと腰を下ろして再び手紙を広げる。その手は僅かに震えており、果たして緊張か動揺か、恐らくそのどちらでもあるのだろう。
宛名も何もないものだが、綴られるその内容は間違いなく自分を指すものだと分かった。胸焼けがするような甘い文面に目眩がする。彼の口から到底零れるとは思えない言葉の羅列は、まさか誰かに脅され書かされたものではないかと疑うほどだ。
京楽に煽られでもしたのだろうか。こんなにも熱に浮かされたような言葉を、自ら漏らすようには思えない。相当酔った折に勢いで書き綴ったものには違いない。
無事に紙の端まで読み終えるまでには相当時間を要した。長いものではないが、文字を解読しつつその文面を理解し頭へ流し込むまでにやけに時間がかかった。まさか冗談で書いた訳でもあるまい。酒を呑んで気が大きくなっていたのだろうとは思うが、ここまではっきりと思いを綴られるというのは後にも先にもこれが最後なのではないかとすら思う。
それから何度か手紙を読み返しては、その度頭を抱える。何度読んでも慣れず、彼の書き出した文字であるかを疑った。かなり揺れはあるものの、文字の手癖は確実に浮竹のものだ。机上の書類を引っ張り出し、彼の普段の筆跡とを比べるがやはり酷似している。
昨晩一緒に居た京楽がわざわざ手渡したのだから、彼のもので間違いないとは分かっている。しかし疑いたくなる程につらつらと、頭の先から足の先までを褒めそやすような言葉と喉を焼くような甘い表現はあまりに毒のようだった。
いや、しかし。千世はぐるぐると一人頭の中で考えていたが、着地点を見つけられないまま手紙を畳む。そのまま頭から溶かすような熱を追い出すかのように、さっさと懐へとしまい込んだ。
それから暫く、ぼうっとした頭に響いた終業の鐘にはっと我に返った。手紙の内容が頭を巡って集中が途切れる事が続き、今日は諦め押印などの単純業務に終始した。
もともと朝から早めに切り上げようと思っていた為、重めの仕事は早いうちに終わらせていて助かった。筆やら硯を片付けながら、散らばった書類を手早く纏める。立ち上がり手元の灯りを消したが、しかしこのぼんやりとした頭のまま自室へ帰るのはどうも腑に落ちない気がしていた。
暫く暗い部屋で立ち尽くしていたが、結局手に持っていた荷物を再び机上へと置き千世は部屋を出て彼の執務室へと向かう。その後の体調も気にかかるというのは、多少後付の言い訳のようにも思えた。
明かりの漏れる部屋の前で彼を呼ぶと、力ない声で入室を促される。机に向かう彼は千世を見ると軽く微笑んだ。
「体調はいかがですか」
「朝よりは幾分良くなったよ。悪かったな、わざわざ」
「昨日は何時もとあまり呑む量は変わらなかったと」
「ああ、そうなんだ…どうしてか酔った。別段体調も悪くなかったんだが……京楽から聞いたのか」
はい、と千世はうなずく。すると急に落ち着きがない様子で目線を揺らした様子に、千世は首をかしげた。何か都合の悪い事でもあったのかは分からないが、まるでそのような様子に見えた。
口を薄く開いた浮竹は、あー、と小さく声を漏らす。
「他に何かを聞いたか」
「他に?」
「いや…聞いていなければ良い」
頷いた彼を見ながら、もしやと千世は懐へ手を差し入れた。
「この手紙のことですか?」
取り出した手紙が彼の目に入った途端、先程のぐったりした様子が嘘のような俊敏さで飛びかかるように千世の腕を掴み、それを取り上げようとする。あまりの必死な様子にぎょっとしながら、腕を振り払い距離を取った。
どうしたんですか、とわざと聞いてみれば彼はひどく困ったような表情のまま渡しなさいと一言手を伸ばす。やはりこれは浮竹がしたためたものだったのだろう。髪を僅かに乱し、焦った様子でにじり寄る彼をじっと見上げながら、手紙の文面の数々が頭を過ぎる。
「それを渡しなさい」
「どうしてですか」
「良いから」
逃げる猫を捕獲でもするような様子で浮竹はそろりそろりと千世に近づく。その困惑の表情を必死に笑顔で取り繕う様子は少しばかり恐怖すら感じるが、あの文面を思い出すとその必死さには頷ける。
手紙を死守しながらあまり広くない執務室の中で逃げ惑うが、そう広くない部屋の中ですぐに隅へと追い詰められた。手首を掴まれ、手紙へと手をのばす浮竹に千世は口を開く。
「でも私、もう読んでしまったんです」
千世の言葉に、まさに絶句といった表情を見せた浮竹は暫く千世の目をじっと見つめていたが、やがてがっくりと肩を落とした。千世の腕を掴んでいた手からも力が抜け、畳の上へと座り込む。
まさかそこまでの反応を見せるとは思わず、心のうちに留めておくべきだったかと僅かに思う。しかし宛名も差出人もない恋文を第三者から渡された状況で、それが果たして本当に自分宛てで、彼がしたためたものであるのかを確かめない訳には行かなかった。
へたり込んだ彼と少し離れた場所に、千世は腰を下ろす。
「すみません…その…京楽隊長が読んであげてくれと言うので」
「そうだろうな。あいつには焼き払ってくれと頼んだんだが……そうか」
「どうしてですか、すごくその…素敵なお手紙なのに」
「やめてくれ、消えたくなるほど恥ずかしいんだ…」
初めてここまで消沈する様子を見た。まさか千世に渡すつもりで書いた訳では無いのだろう。でなければああも赤裸々な恋文を書く事などそう有り得ない。
実際に恋文を書けと言われたら、千世ならば即座に断るだろう。想いを文字に残すというのはきっと相応の覚悟が必要で、その場限りの囁きとは訳が違うと知っている。胸のうちに秘めた思いを書き綴り、ましてやそれを相手に見せるなどとても耐えられないと千世は思う。
浮竹がまさか恋文を書くような性分でないことはこの付き合いから分かっている。大切な思いは言葉に乗せずとも伝わるという事を教えてくれたのは他でもない彼で、二人の間ではあまり甘い囁きというものは縁遠かったように思う。
だからこそ彼の手紙が千世にとっては衝撃であり、しかし同時に嬉しくも感じていた。時折彼の思いを聞くことがあっても、まるで目のさめるような直接的な言葉を投げられたことはきっと初めてだ。それが紙の上のことであっても、何の濁りのない言葉というのはやはり嬉しいものだ。
「…このお手紙は…私に宛てられたものですか」
「…でなければ、誰だと思う」
勘弁してくれとでも言うように彼は答える。分かっては居たが、敢えて聞きたくなったのはまだ胸の何処かで疑いがあったからなのだろうか。
細かい事は記憶が無いのかそれとも言わないだけなのか、京楽との話の流れでどうしてかあの手紙をその場で書くに至ったらしい。相当酔っていたという事を強調するあたり、誤魔化したい何かがあったのだろうという事は薄っすら感じたがそれ以上の詮索は流石に避けた。
今すぐにでも消えたいとでもいうような様子で、決して千世と目を合わせない浮竹はその羞恥からか耳の先まで赤くしている。つい先程までは青白い顔をしていたというのに、消沈のあまり二日酔いなど吹き飛んでしまったのだろう。
「秋の情景から始まる書き出しが美しくて…そこからまるで、季節を語るように想いを…」
「千世、感想は胸に仕舞っておいてくれ…頼む」
「こんなにも素敵なお手紙を受け取って、嬉しかったんです。特に、」
「頼む…」
手からさっと手紙を取り上げられ、千世は取り返すように空を掴む。まさかその場で燃やしはしないかと冷や汗が出たが、彼は軽く手紙に目を通すと畳の上へすぐに放り投げ溜息をついた。
改めて自分が何を綴ったのかを確認したくなったのだろう。しかしうんざりといった表情で顔を歪める。
「読まなきゃよかった」
「自分の手紙って、読み返すと恥ずかしいですよね…ああ、でも隊長の書かれた手紙はとっても素敵でしたよ。少しばかりその…直接的な表現でしたが、…それもまた隊長の新たな一面が見れたようで…」
「もうやめてくれ…」
浮竹は耳の先まで紅く染めたまま片手で前髪を掻き上げ、そのまま頭を抱えた。流石にからかい過ぎたかと反省の気持ちが多少は湧くが、しかし彼のこんな姿を滅多に見れるものではない。緩む口元を必死に抑えつけながら、萎れた双葉のような様子の傍へ膝を擦りながら近づいた。
昨晩への後悔と今この場での羞恥とが入り混じっているのだろう。何とも言えないような表情が少し可笑しく、千世は微笑む。どうすれば恋文を綴るなんて酔い方を出来るのか聞いてみたい所だが、今は避けたほうが賢明だろう。
傍らの手紙を手に取り、丁寧に畳む。その様子を浮竹は目の端で追うだけで、先程のように取り上げたりするような気はもう無いようだった。
「一つ、伺いたいのですが…」
千世は多少気まずいながらも声をかけると、顔を上げて浮竹は視線の動きでその続きを無言で促す。あまりに静かな部屋の空気に少しばかり口ごもった後、千世は口を開いた。
「この手紙の、何割が本心なんですか」
「…言わずとも分からないかい」
全てだよと、そう言って眉を下げ笑う。そうであることを期待した。文字だけではまるで物語のようにしか思えなかった言葉の深意を、その口から聞きたかった。彼の言葉を疑っていたわけではない、ただその声で聞きたかったというそれは千世の我儘だ。
観念したようなその様子に、まるで心臓を素手で掴まれたかのように息が詰まる。静かな部屋の中で一つ唾を飲み込みながら、まるで紙の中の言葉が逃げる事の無いようにと手元の手紙を握りしめた。
拝啓いつかの君へ
2020/09/19
(台詞リクエスト「やめてくれ」)