明日の匂いのする方へ

おはなし

 

 彼女に臨時講師の話が来ていると浮竹が聞いたのは、千世に伝えられたその朝のことだった。浮竹の頃から薬草学を担当していた先生が倒れ、その代わりにと彼が挙げた名前が千世だったのだと言う。
 薬草学というのはその地味な内容から代々人気の低い授業だった。毒性のある薬草や、回復効果の有る薬草など実に幅広く奥深い学問ではあったが、派手さでは鬼道そして即効性であれば回道や縛道に人気が偏るのは当たり前といえば当たり前だ。
 千世の卒業時の成績表を浮竹は今でも覚えているが、他の教科が軒並み平均または平均以下であるのに比べて薬草学は主席相当という異様なものだった。
 彼女が薬草学を好んでいるのは入隊後の様子からも明らかで、自作の軟膏や栄養剤は良く効くと評判を耳にする。浮竹も彼女からは滋養作用のある薬茶を受け取っており、時折飲んではその効果を少なからず感じていた。
 それだけ千世が大切にしているその知識を形にすることが出来るのならば、それほど良い機会は無いと思った。
 勿論彼女の現在抱える業務量なども加味して、流石に全学年を受け持つというのは難しい。それならばと学院側はせめて試験を控える五回生と六回生だけでもと頭を下げた。進路に関わる試験となる以上、授業を空白には出来ないのだろう。
 週一回の授業を二学年、二学級分であれば業務に大きな支障は出ないと判断をし、あとは千世次第とした。そこで断ったのならばそれもまた彼女の判断だ。浮竹がどうこうする事ではない。
 おはよう、と僅かに探るような思いで浮竹は千世へ声をかける。

「おはようございます。今日は普通にご出勤なんですか?」
「ああ、今日は急遽調査が中止になってな」
「そうだったんですか。じゃあ、今日は久しぶりにゆっくり出来ますね」

 廊下ですれ違った彼女は昨日の夜の様子とは打って変わって、まるで何時もと変わらないようだった。もしかすれば気の所為だったのだろうかと浮竹は多少ほっとするが、しかし昨日は確かに千世の顔が曇る瞬間を見た。
 軽はずみな発言だったと一晩後悔をしたものだ。例えばの話彼女が正規の学院講師として招かれる事になったのならば、それはまた彼女にとっての一つの道だと思った。日々命を削るような戦いから離れ、彼女が伸び伸びと過ごす様子が目に浮かんだ。
 しかし、それは恐らく彼女が求めていた答えでは無かったのだろう。もしそのまま講師に引き抜かれたら、なんて実に他愛のない会話だった。決してそれは試すような、求める答えを得るための問いかけでは無かったはずだ。
 そうして一晩布団に横になったままぼんやりと考えながら眠ったが、しかし先程のあの様子を見て安心をしてしまった。情けない話だ、千世がああして表情を曇らせた理由を薄っすら分かっていながらも、彼女の中で解決される事をまるで待っていたかのようだ。
 自室で机に向かい筆を取る。久しぶりにこうして過ごす事に僅かに違和感があるのは、ここ暫くあの薄暗い場所に籠もっていたからだろう。自然光が手元を照らす事に感動すら感じている。
 暫くそうして過ごしていれば、何の声がけもなく突然襖が開いた。驚いて目をやれば慌てた様子のルキアが木刀を手に立っている。

「どうした、朽木」
「突然申し訳ありません、実は今しがた千世殿が…」

 稽古場でどうやら千世が倒れたという事らしい。突然気分が悪いと言い始め、稽古場の隅に避けていたようだが気づけば横になっていたらしい。呼びかけても返事がなく、慌てて浮竹の元へと飛んできたようだった。
 彼女に連れられ、稽古場まで行けば脇で仰向けになる千世が居た。呼びかけると僅かに目を開け、すみません、と一言呟きまた閉じた。恐らく疲労によるものだろう。

「元々顔色は悪かったのですが、問題ないと仰るのでそのまま稽古を」

 人前とは言え、このような状況ならば仕方がないと千世を抱え上げる。相変わらず軽い身体の体温を腕に乗せながら、ルキアに先導させて取り急ぎ彼女の執務室へと向かった。
 部屋に入ると、長椅子の上へと彼女の身体を置く。近くにあったひざ掛けを軽くその上へ掛けた。静かに寝息を立てている所を見ると、自身が隊舎にあまり居ない間も変わらず良く働いていたのだろう。

「講師の仕事も始まって、疲れが出たんだろう」
「はい、…少しばかり無理をされているように見えました。昨夜もあまり眠れなかったと」
「…昨夜か」

 昨日別れた後、千世は自室に帰った筈だった。恐らく嘘ではないだろう。眠れなかった理由に多少心当たりがあった浮竹は、僅かに目線を下げた。
 今朝ああしていつも通りの様子を装っていたのだろう。千世が昨夜よく眠れなかった理由があの何気ない会話が理由である事はきっと間違いない。彼女の事だから、深く考え始めきりが無くなってしまったのだろう。
 やはり余計な事を口走ってしまったものだ。いや、もしかしたら多少の期待をしていたのかも知れない。彼女がもし僅かでも講師の仕事を良いものだと感じていれば、その道を選びはしないかと思った。
 仮に護廷隊から離れ正式に講師となれば、今後彼女が戦場へ向かうことは無くなる。副官として信頼を寄せながらも、しかし浮竹の心奥ではそれを望んでいる。だからこそあの答えが口から零れたのだろう。
 暫く千世の傍に立ちながらその眠る姿を見下ろしていたが、やけにそわそわとした様子のルキアが口を開いた。

「それでは、私は…」

 襖に手を掛けた彼女を、浮竹は呼び止める。

「朽木は、何時から気付いてたんだ」
「は……」
「この程度の様子なら、わざわざ隊長へ報告はしないだろう」

 疲労と寝不足であるのは言動から明らかで、通常であれば多少救護室で休ませれば良い話だ。
 勿論それだけが理由ではない。この所、やけに彼女の様子に落ち着きが無かったのを知っていた。隊舎ですれ違い挨拶をするにしても、やけにじっと探るような目線で見つめられ、目が合うと気まずそうに逸らす。
 彼女があまり感情の隠し方が上手くない事も相まって、何かしら勘付いているのだろうと薄っすら感じていた。いずれ誰かしらに気付かれる事が有ると覚悟はしていたが、まさか彼女に見抜かれる事になるとは思わなかった。

「私はその…そういった事には疎く、確信を持っていた訳では無かったのですが…やはりお二人は」

 浮竹が僅かに微笑むと、彼女は驚いたように目を見開いてから俯いた。

「分かりやすかったか」
「そっ、そういう訳では…私がその、気にしてお二人を見ていたからかと…」
「気にして?」
「一度夜分に日南田殿を街でお見かけした事がありまして…声を掛けようと思ったのですが、後をつけるような状況になってしまい」

 彼女の話に浮竹は笑う。たまたま声をかけようと後を追っていれば、こそこそと浮竹の屋敷に入る様子を見てしまったらしい。何度かその件を尋ねようとはしたが、中々勇気が出ず今に至るようだ。二人の様子を見るほどに疑いは深くなったのだろう。
 屋敷に来る時は十分なほど回りに注意していると自信満々に言っていた千世の様子を思い出す。本当に偶々だったのだろう。何が理由かは分からないが、偶々気でも散っていたんだろうか。
 恐らく時間が経つほどに気が抜ける瞬間というのは増え、隠し続ける事は難しくなる。相手がルキアだったから口外されること無く済んでいたが、もし他の誰かであれば忽ち広がっていた可能性もあっただろう。
 もしもそうなった時、千世はその周りの目に耐えることができるのだろうか。隊内恋愛が禁止されている訳ではないが、一般隊士同士とは訳が違う。快く思うものばかりでは無いだろう。考えるほど憂いは尽きない。

「朽木が知っている事を、千世には話さないでやってくれるか」
「は、はい。それは、勿論」

 ルキアが部屋を去り暫く、彼女の傍へ腰を下ろしながら適当にその辺りから手にした書籍を眺めていた。薬草の効能に関するもので、日焼け染みが酷く随分古い。恐らく隊舎の書庫辺りから探し出してきたものなのだろう。
 熱心なものだ。休みの日には四番隊に顔を出して裏山へ行き薬草の採取をする事もあると聞く。もはやそれは彼女にとって、息抜きに近い趣味の範疇かも知れない。

「…隊長」
「起きたかい。良く寝ていたな、二時間くらいか」
「に…二時間もすみません…」

 千世は一つ伸びをすると、その身体を起こす。先程に比べて随分顔色も戻っている。申し訳無さそうに身体を小さくした姿に、浮竹は笑った。
 浮竹自身も時計を今見て驚いたものだ。静かな寝息を聞きながらの読書というのは案外悪くない。

「この本は中々読み易かったよ。隊の蔵書か?」
「いえ、それはこの前卯ノ花隊長からお譲りいただいたもので…図解入りで私もとても気に入っているんです」
「卯ノ花隊長か…どうりで年季が入っている」

 聞かれれば笑顔で凄まれそうな感想を思わず呟けば、千世は笑った。浮竹の手から本を取り、ぱらぱらと捲くる。

「色々考えていたんです」
「…そうか、何を考えていたんだ」
「もしかしたら、私は講師として思ってもない才能を発揮するかも知れないと」

 千世は至って真面目な表情でそう言うと、一人で頷いた。まさか自分から昨日の話を引っ張り出してくるとは思わず、浮竹は僅かに焦る。しかしその表情に全く曇りは無く、むしろどこか晴れ晴れとしたものに見えた。

「こうして隊長のお傍に居て、身命を賭するというのはこの上ない私の望みだと思っています。でも、そればかりに思いを寄せすぎて、その他の事が何も見えなくなるのは違うと」

 千世は滔々と話し始める。まるで予め並べる言葉を考えていたかのように滑らかだった。

「自分はこう思わなくてはいけない、こうならなくてはいけないと、いつの間にか意地のように考えていたのだと思います」

 千世がどのような思いを抱いていたのか、浮竹は十分に受け止めていたつもりだったが実際はその欠片程度しか分かっていなかったのだろうと思う。次第に肥大していた願いや思いに囚われていたのだろうか。
 彼女の言うことはよく理解できる。自分がこうありたいと願うあまり意固地になり、沿わない事が起きれば憂う。過ちに気づくのは、いつも後戻り出来ない場所まで歩みを進めた時だ。

「感情ばかりが先行して、自分自身を冷静に見返す機会を失っていました。だから、ありがとうございます」

 彼女はそう言って笑い、浮竹は軽く首を横に振った。他愛のない会話であったことは確かだった。その中で彼女の琴線に触れ後悔をしたものだが、結果それは杞憂だったという事か。
 しかしその答えのどちらが誤りなどとは言えない。彼女が隣で刀を握りたいと強く願うのならば、それを受け止めるのは浮竹の隊長としての努めとなる。元より彼女の純粋な願いはそうだった筈だ。そこへ浮竹の自分よがりな感情を流し込んでしまったのは確かだ。
 それを一つの選択肢として受け入れたのは彼女の素直な心根があるのだろうが、意図しない思いを自らの中で噛み砕く事ができるのは間違いなく彼女の努力によるものだ。
 今までその成長を何度感じて来たか分からない。そのなだらかな上り坂故に恐らく本人は気づいていないのだろう。しかし明らかな彼女の成長を日々目の前にして、浮竹は言い得ぬ感情を持て余すようだった。

「そんな事を考えていたら夜が明けてしまって…すみません、こんな事に」
千世が稽古中に倒れたと、朽木が呼びに来たんだ。俺はただ此処へ運んだだけだよ」
「後で御礼言わないとですね…でも何で救護じゃなくて、わざわざ隊長に…」

 うーんと考えた千世の様子を見て浮竹は微笑んだ。入隊当時のまだあどけない姿からそう変わらないというのに、気づかぬうちに立派になったものだ。
 時折彼女が一途に進むその背を見ながら立ち止まると、随分と遠くまで来たものだと感慨に耽る。歳を取ると先の未来よりも、長い過去を見つめ返す時間が増えるものだ。
 彼女の白い頬に手を伸ばし、掌で包む。柔らかく仄かに暖かな体温を確かめるように指の腹で撫でるとくすぐったそうに笑った。このいじらしい様子は変わらない。
 確実に時が進む中、変わらない物に触れれば不思議と気が解れる。未来を望みながらも、しかし少なからず頭の片隅ではそれを憂いているのだろう。
 夏の終わりが近いある昼下がりの執務室は、どこかひっそりとしていた。

 

明日の匂いのする方へ
2020.08.14