知らない日

おはなし

 

「おや、千世ちゃんじゃない。昼ごはん?」
「はい、少し遅くなってしまって…京楽隊長もですか?」

 焼き魚定食に箸をつけようとした時、ふと現れた京楽に千世は頭を下げる。
 良い、と千世の正面の椅子を指差したから頷くと、どっかりと腰を掛け近くの店員に熱燗をひとつ注文した。

「ボクはちょっと水分補給」
「水分補給……」
「あ、分かってると思うけど七緒ちゃんには内緒ね」

 水分補給というのは確かに誤りではないかも知れないが、こんな昼過ぎから引っ掛けている事を伊勢に知られれば間違いなく引っ叩かれるだろう。千世も自ら巻き込まれたい訳ではないから敢えて彼女に告げ口をする事は無いが、困っている彼女を思うと多少の罪悪感はある。

「副官証付けてないってことは、今日休みなんだ」
「ああ…はい、そうなんです」
「どっか行ってたの?やけに大荷物だけど」

 千世の座席の横にある複数の布袋を見て、京楽は尋ねる。
 今日は久しぶりに四番隊の裏山に薬草を取りに出かけていた。この季節の裏山はまるで宝の山で、持っていった袋はみるみる一杯になってしまった。この量では帰ってからの処理の方が採取よりもよっぽど大変だろうと、後先考えずに採取を続けた反省をしていた所だった。
 いくつか卯ノ花からの依頼の薬草があったが、それはもう既に此処へ来る前に四番隊へ届けている。たったいくつかのお遣いでこれだけの薬草を手に入れる事が出来るのだから安いものだ。

「ああそう。そういえば薬草学は主席相当だったんだっけ」
「そうなんです、薬草学だけ…よくご存知ですね」
千世ちゃんを一番知ってるおじさんから聞いた」

 丁度届いた熱燗を猪口に手酌で注ぎ、一口啜る京楽はにやと笑う。僅かに千世は自分の口元が緩んだのを感じて、思わずぐっと力を込めた。
 しかし京楽は今浮竹と同じで現在大霊書回廊での捜査を任されていると聞いていた。このような所で油を売っていて良いのか分からないが、もう既に彼の水分補給は始まってしまっている。

「京楽隊長は捜査に参加されてないんですか?」
「ボクも一応やってるよ、今は休憩。浮竹が必死で頑張ってるよ」
「その件では、私のせいで煩わせてしまってるようで…」
「ああ、平気平気。閲覧履歴はどんなに上書きされても必ず残るから。千世ちゃんの件が無くても同じくらい時間掛かると思うよ」

 そうですか、と千世は軽く頭を下げる。焼き魚を箸でほぐし、白飯の上へと乗せると一緒に掬って口へ運んだ。
 ここの所浮竹は朝から晩まで大霊書回廊での調査に費やしている。時折隊舎へ帰ってきてはぐったりとした様子を見せていたが、体調が悪い訳では無いようでまた少しして姿を消していた。
 手伝うことが出来ればよいのだが、元々禁踏区域である性質上隊長未満には通常侵入が許されていない。千世が以前閲覧したのは双極に関する資料のみであったが、事後処理中総隊長直々に注意を受けた際、一文字たりとも一切の他言無用と強く伝えられたほどだ。
 まだ湯気の上がっている味噌汁を一口千世は含む。

「ここ最近、隊長のお身体が心配で」
「そう?前に比べて調子良さそうに見えるけど」
「それはそうなのですが…お疲れではあるようなので」

 今調子が良くとも、あの陽の差さない薄暗い場所で籠もりっぱなしともなればいつ体調を崩すか分からない。本当は無理をせず休養を取りながらと伝えたいものではあったが、ああも切羽詰まった様子ではそう進言する事も憚れる。

「昔からそうだったね、浮竹は」
「昔からですか?」
「決めた事は曲げないからねえ。今回も辿り着くまではあの様子じゃないかな」

 頬杖をつく京楽の様子を眺めながら、千世は頷いた。千世以上に長く過ごしている彼が言うのだからそうなのだろう。
 昔からというのは恐らく学生時代の事を差しているのだろうが、そういえばあまり話を聞いたことは無い。敢えて聞くような事でも無かったし、浮竹も自ら語りだすような事もなかった。

「あの…浮竹隊長って、学生の頃どんな様子だったんですか」
「どんな様子、か…まあ中身はあんまり今と変わんないよ。あ、今より髪は短かったかな」
「へえ…そうなんですか」

 今の長髪からはあまり想像が出来ない。時折束ねたりはしているが、何がきっかけで伸ばし始めたのだろう。特に理由は無いのかもしれないが、何となく今まで特に聞いた事は無かった。
 思えば、千世はあまり彼を知らない。千世が浮竹と過ごした時間というのは、恐らく彼の生きる長い時間の中で本当に僅かだ。彼からしてみればついさっき現れたような感覚なのかもしれない。
 それがどういう事か結ばれて、時々その傍に居る事がおこがましいかとも思う。きっと千世以上に彼を知っている人は他にも居るというのに、我が物顔でその傍を占領していて良いのかと思うのだ。
 それは永遠に埋めることの出来ない長い時間がそう思わせているのだろう。

「具体的に何の話が聞きたいの」
「えっ!?い、いえ…これといって、何かという訳では…」
「…そうなの?色々聞きたいって、顔に書いてあるけど」

 千世は箸で掴んでいた漬物を思わず取り落とす。表情を読み取られる事が近頃殊に増えたように思うのは気のせいだろうか。
 取り落とした漬物を箸で再び掴みながら、暫くじっと固まる。きっと彼の学生時代の話を聞けることなど滅多に無い事だ。知りたい思いと気恥ずかしさが絡んでいたが、意を決したように口を開く。

「そ…その…女性からは…どうだったのかなと…」
「そうだろうと思った」

 にやっと笑って一口酒を煽る様子に、千世は目線を横へずらした。漬物を口に運ぶと、噛みしめる音が頭に響く。
 聞きたいというより、自分の想像が正しいかどうかを確かめたかった。彼のあの寛厚さが昔からのものであれば、惹かれる女性だって少なからず居るだろう。知らなくて良い事なのかも知れないが、今は少しだけ興味のほうが上回っている。

「浮竹は男女問わず慕われてたからね。勿論、ただならぬ思いを秘めた女性も居たんだろうけど」
「…そうですよね」
「まあ昔の話だから。千世ちゃんだって恋のひとつやふたつあったでしょ」

 京楽の言葉にぎくりとしたが、適当に頷く。正直な所恋のひとつやふたつなんて無かった。今思えば、毎日何をしていたというのだろう。霊力もそれなりにあって折角特進学級に入学したというのに、あまりやる気のない日々だった。
 彼に過去の女性を聞いたことは無かったが、恐らくそういう相手が居たのだろうという事は端々から良く分かる。今更過去をどうする事も出来ないし無駄だと思っているものの、時々その影を感じると言いようのない嫉妬に似た感情が広がる。
 今だって具体的に話を聞いていないというのにぼんやりとした嫉妬を感じていた。やはり興味本位で聞くものではない。
 しかし、彼が一体どんな学生生活を送っていたかというのはやはり気になるものだった。京楽と並んで総隊長自慢というほど特別優秀な生徒だったと聞く。卒業後に見事揃って隊長となったのだからそれは当然の事だろう。

千世ちゃんって今何になりたいとかあるの?」
「なりたいものですか…?」
「なりたいっていうか、目標とかそういうの」

 急な問いかけに千世は少し考える。

「目標はその…変わらず浮竹隊長のお傍に居る事です」
「なに、それは副隊長としてってこと?」
「ええ、はい…そうですが…」

 まるで他に選択肢があるかのような言いように千世は少し考えたが、一瞬頭に浮かんだ言葉をさっと振り払った。
 最後の身を剥がしながら、ちらと壁の時計を見る。間もなく午後も良い時間だ。日の入りまでに薬草を水洗いして天日干しをしなくてはならないから、もうそろそろ隊舎に帰らなくては間に合わない。
 最後の一滴を猪口へ注いだ様子を見ながら、味噌汁の最後の一口を飲み込んだ。

「学生の頃、告白を受けたって相談をされたことがあってね」
「えっ!?」
「確か相手は二学年くらい下の子だったかなあ。その子に告白をされたけど、どうすれば良いか分からないって」

 突然の話に、心臓がひっくり返そうになり咽る。飲み込みかけていたわかめが危うく喉で引っかかりそうになり、湯呑の麦茶で流し込んだ。

「嫌じゃなければ付き合ってみればって言ったんだけどね、結局何日か考えて断ってたよ」
「……そうなんですか……」
「今安心したでしょ」
「い、いえ…お昔の話ですし……」

 何故か強がって答えたが、心底安心している。まだばくばくと鳴る心臓を落ち着けるように呼吸をしながら、もう一度麦茶を飲んだ。
 どうやら京楽は浮竹が告白を答えに行くという後ろ姿を追いかけて、興味本位に物陰からその様子を眺めていたと言う。

「その断り方を良く覚えててさ、俺は幸せにできないから、って言うんだよ」
「…そんな答えを貰ったら、諦めるしか無くなってしまいますね」
「そうだよねえ。…でも学生同士の付き合いで、幸せに出来る出来ないなんてそんなの普通考えるかい?」

 恐らく学生同士の交際で、そこまで深く考える者は少ないのかも知れない。しかしそれを彼らしいと思うのはあまりに厚かましいだろうか。当時の心情など彼でなければ分からないところだが、相手の事を数日よく考えた答えだったのだろう。
 そこまで誠実に返されれば、女性からしても引き下がる他無いように思う。彼からの答えを待つ数日間、女性はきっと生きた心地がしなかったに違いない。もしかしたらと夢を見る瞬間もあったのだろうと思うと、やはり惚れた腫れたは残酷なものだ。
 京楽が何故急にその話を持ち出したのか、単にふと思い出しただけなのかも知れない。

「まあ、断る常套句だったのかも知れないけど」
「数日考えてですか?」
「さあ、どうだろうねえ。…ちなみに今の話、浮竹には内緒ね」

 分かってます、と千世は笑う。箸を置き手を合わせると、千世は財布を取り出し荷物をまとめ始めた。

「ああ、良いよボクが払う」
「いえ良いですよ、偶然お会いしただけですし…」
「良いの良いの。これの口止め料」

 徳利を指差した京楽に、それならばと千世は頭を下げる。申し訳ない気もしたが、伊勢の説教に比べれば焼き魚定食の一つや二つ安いものなのだろう。
 店員を呼び止め追加で熱燗を頼んだ様子を見て、千世は立ち上がる。どうやらまだ水分補給は続くのだろう。何度かしつこいくらいに礼を告げて店を出ると、まだ外はじっとりと汗の滲む暑さだった。
 こうして過ごしていると、ふと今置かれている状況を忘れかける。きっと事は静かにそして着実に進んでいるのだろう。徐々に飲みの客で賑わい始めた店の様子を眺めながら、ひとつ足を早めた。

 

知らない日
2020/08/06