片生い片思い

おはなし

 

 陽がすっかり落ちた頃、千世はようやく執務室に着き手荷物を床に置くとそのまま長椅子へとぐったり横になった。慣れない事というのは精神的にも体力的にも厳しいものが有る。
 暫くそのまま目を瞑っていたが、襖を軽く叩く音が聞こえて目を開けた。答えるよりも前に開いた隙間から浮竹の顔が覗いたが、その身体を起こすような気力も起きず横になったまま、こんばんは、と一つ呟いた。

「どうだったか気になってね」
「見ての通り、疲れ果てました」

 千世の様子に浮竹は笑う。長椅子を占領されている為、そのまま部屋の奥へ進み椅子へと腰掛けた。
 話は一昨日に遡る。昼頃に急遽山本総隊長からの呼び出しが掛かったのだ。また説教を受けるのではないかと怯えながら一番隊舎へと向かえば、総隊長の隣には見慣れない人影があり、顔をよく見れば懐かしい霊術院時代の担任教師だった。
 何事かと思えば、薬草学の専任教師が病のため療養となったからその穴埋めをして欲しいのだと言う。あまりに突然の話で状況が飲み込めなかったが、どうやら下期の試験の為にどうしても授業を中止にすることは出来ず、五回生と六回生の授業だけでもどうにか受け持ってくれないかという事らしい。
 他にも優秀な人材は探せば居るだろうに、何故わざわざ千世に白羽の矢が立ったのか分からなかった。しかし話を聞けばどうやら床に伏した先生が千世の名前を上げたようで、それにより無理を承知で総隊長へ交渉に来たようだった。
 思い返せば薬草学の先生はかなり高齢でお世辞にも面白い内容とも言えず、そうして人気のない学科だったからまともに授業を受けている生徒はほぼ居なかった。千世ほど真剣に受けていた者が他に居なかったのか、確かに先生には良く目を掛けられていたと思う。

「予定通りに全く行かなくて…結局今日はただ副隊長業務への質疑応答で終わりました」
「はは、そうか…まあそう歳も変わらない副隊長が物珍しかったんだろう」
「そうなんですかね…一応色々準備してはいるのですが、先が思いやられます」

 副隊長業務を負いながら全学年の授業というものは流石に難しいからと、結局は申し出の通り五回生、六回生のみを受け持つ事になった。しかし週一回の授業が二学年二学級分となれば、準備も含めそれなりの時間を取られることとなる。
 呼び出しの時点でもう既に浮竹には話を通してあると聞かされた。恐らく千世の意思に任せるつもりなのだろうという事を察し、暫く悩んだがその場で受けることを承知した。
 期間は少なくとも先生の復帰できる目処が立つまでというほぼ無期限の状況だ。一先ず三ヶ月という事で簡単な契約書を交わし、月の報酬も提示された。

「やっていけそうか?」
「…どうでしょう…慣れるまでが少し大変そうです」
「清音と仙太郎には千世の状況は知らせてる。回せる仕事は回すようにするんだよ」

 机上の書類をぱらぱらと捲くりながら、まるで子供へ言い聞かせるように浮竹は言う。
 この状況では恐らく暫くは副隊長業務に割ける時間が減ることが明らかだ。察して事前に手を回してくれているというのは有り難いが、同時に申し訳ない。もう少し要領も良ければ迷惑をかけることも無いのだろうが、何分初めてのことだ。
 年間の授業計画は資料として貰っており、そこまで面倒な授業内容を予定していた訳で無い事は分かっている。実習の為の薬草は霊術院に頼めば事前に採取をしてくれるようで、あの教室の空気にさえ慣れてしまえばそこまで苦ではないように思うのだが。

「今日の霊術院での話を聞かせてくれないか」
「そんな、大したものでは無いですよ」
「大したものさ。相変わらず籠もりきりで面白い事も無いから、偶には楽しい話を聞きたいんだ」
「楽しいかどうかは分かりませんが…」

 それなら、と千世は長椅子へ横になったまま話し始める。
 何か大きな事件が有るわけでもなく、ただ今日の朝からの出来事を時系列で淡々と話すだけだ。
 元々今日は休みでも何でも無く通常通りの出勤だったのだが、臨時講師の初日という事で丸一日を急遽学院で過ごす事になった。
 学院に着いてからは早速職員室で挨拶の後に机が宛てがわれて、一通りの施設の説明を改めて受けた。千世が居た頃と全く何も変わっては居ないが、久しぶりの校舎を歩くのはやけに胸の弾むような気持ちだった。
 そこから最初の授業までは年間計画を改めて読みおおよその授業の予定を七曜表と見比べながら簡単に記してゆく。急遽講師となる事が決まってからまだ二日だった上に、通常業務もそれなりに残っていたから手を付けるような暇が無かった。軽い気持ちでは無かったものの、話を受けた事を多少は後悔したものだ。
 それからは五回生の二学級の授業を一時間ずつ行った。といっても、自己紹介と日々の業務や護廷隊の質疑応答でそれぞれ終わることとなったのだが。

「若さってすごいなと思ったんです」
「俺から見れば、千世も学院生も同じようなものだよ」

 浮竹は机に頬杖をついたまま笑う。大して面白くもない淡々とした状況説明だったというのに、やけに楽しげに見えるのはやはりそれだけ大霊書回廊での調査が退屈なのだろうか。
 思えば数週間ほぼ毎日をあの場所で過ごして居るのだから、箸が転んでも可笑しいくらいなのかも知れない。

「今回の件、隊長が断る事も出来たんですか?」
「ああ、出来たよ」

 そうだろうとは思っていた。浮竹がその時点で話を蹴る事だって出来たはずが、そうはしなかったのは彼自身が決めるものではないと思ったからなのだろう。

千世が決めるべきだと思った」
「でも、私が受ける事を隊長は分かってましたよね」
「そうだな。少し悩んで、結局は受けるだろうと思ってたよ」

 まさにその通りだった様子を思い出し、千世は思わず黙る。行動や思考をおおよそ予想されているのは、今までの事からも十分分かっている。それは千世の性格のせいなのか、それとも浮竹がそれほど良く千世を見ているという事なのかは分からない。
 ただ彼の少し得意げに見える表情が嫌いではなく、千世はその様子を見ながら目を閉じた。静かな良い夜だ。また明日はいつも通りこの部屋に出勤して、積み重なった書類を上から順に処理する事になるのだろう。
 今までそうやって変わらない日常に、少しだけ変化が起きた事が千世は不安ではあったがだがそれと同時に楽しみでもあった。今まで以上に体力も気力も消耗されてゆく毎日になるのだろうが、初めての経験が自分へどのように影響してゆくのかが楽しみだった。
 千世はふと目を開け、何やら書類を興味深そうに眺めている浮竹を呼ぶ。

「どうしますか、もし私の教師の才能が開花して、そのまま霊術院に引き抜かれたら」

 千世の言葉に浮竹は少し考えた様子を見せたが、すぐに微笑んだ。

「それも良いんじゃないか。似合っていると思うよ」

 千世がどんな答えを求めていたのか分からないが、彼の口から出たその言葉はどうしてか胸がひやりとした。
 恐らく彼の言葉に何ら悪意も他意も無くて、ただ思ったことを嘘偽り無く伝えただけなのだろう。ただそれは、今まで千世の中にあった唯一と言えるほどの明確な目標からそっと突き放されたように思えた。
 そう捉えてしまうのはきっと疲れているだけなのだと、自分を納得させるように千世は深く息を吐く。いつもの健康な状態であれば、もっとましな受け取り方が出来たのかも知れない。
 しかし彼の言葉は頭の中で繰り返される。今まで何度だって彼は千世が副官であることを誇ってくれていた。それがくすぐったくもあったが、それ以上に千世自身も誇らしかったものだ。
 だがあの言葉ではまるで、と、終わりの見えない思考を止めた。いくら考えた所で今の状態ではあまり良いものではない。千世は急に立ち上がると、しわになった死覇装を払って整えた。

「では、私は帰ります」
「そうか。今日は慣れないことで疲れただろう」
「…そうですね」
「送ろうか」
「一人で帰れますよ」

 彼の優しい声に、千世は笑う。愛情を感じないわけではない。こうして何という事のない会話でさえ、彼の思いが流れ込むようだ。
 きっと気のせいだと、千世は自分を納得させるように言い聞かせる。ただの会話での例え話だ、何も深く気にすることではない。きっと風呂に入って良く眠れば明日の朝にはさっぱり消化している事だろう。
 部屋の灯りを消し終え、真っ暗になった部屋で襖に手をかける。すると背後からふと伸びた手に軽く握られ遮られた。

「寮へ帰るのか」
「はい、少し部屋の整理もしたいので」

 千世は軽く頭を下げると、その手から逃れるように襖を開く。廊下へと身体を押し出すと振り返り、浮竹にひとつ頭を下げそのまま廊下を一人進んだ。
 寮までの道を歩きながら、嫌な感情がじわりと湧いた。自分が求めていたものではない言葉を掛けられてただ拗ねているだけだ。あんな冗談を言って、返ってくる言葉に期待した。
 自室に入り灯りも付けないままそのまま畳の上に転がる。今しがたの自分の行動がひどく疎ましくて呆然と天井を見つめた。部屋の整理をしたいなんて見え見えの嘘を吐いて逃げるなんて馬鹿な事をした。
 前にも一度同じような事をして疲弊した事を覚えている。またあの時を繰り返したくはないと思うのに、胸の中に湧いたわだかまりがどうしてもそれを邪魔をしようとする。
 忘れよう、と千世は目を閉じる。風呂に入るような気が萎えて今はこのまま少しも動きたくない。まだ頭の中で無意識に反芻する彼の言葉が響く度に、形容し難いぐっしゃりと絡まるような気持ちが瞼の裏に広がった。

 

片生い片思い
2020/08/10