振り返れば夏の淵

おはなし

 

 急に降り出した雨はどうやら暫く止みそうになかった。巨木のうろを見つけてすぐ逃げ込むことが出来たから良いものの、一向に止む気配がない。まるで滝のように降り注ぐ雨粒を千世は見上げていた。
 隊を出た頃はまだ晴天だったのだが、途中から嫌な雲が流れてきていたのだ。もう少しばかり早く方を付けることが出来れば良かったのだが。千世はため息をつくと、その場で腰を下ろした。

「こりゃあもう少し掛かるなあ」
「そうですね…無理矢理帰りますか?」
「距離有るからな。無理矢理帰るとしても少しは雨足収まってからだな」

 同じように海燕も一つため息をつき腰を下ろす。
 千世が五席へと上がって間もなく、流魂街外れでの討伐任務の同行として海燕から指名された。副隊長と二人での任務というのは初めての事であったからヘマをしないかと緊張をしていたものだが、それは杞憂だった。
 特に何の特徴もない大型虚が一体のみで、討伐自体にはそう時間はかからなかった。
 その程度の相手に何故わざわざ副隊長が出撃するのか、さらに上位席官が帯同させられるというのも不思議だ。席官と一般隊員の組み合わせでも余力が有ったのではないだろうか。

「五席に上がってどうだ」
「どうと言われると…まだ間もないですから、何とも」
「……暗っ…お前昇進した途端暗すぎなんだよ」
「そんなつもりは…」

 表立ってはそんなつもりは無かったのだが、とうとう指摘された。雨の風景を二人で見つめながら、暫くその音を聞いていた。
 五席というのは詰まるところ隊での実力が単純に上から五番目という事になる。まだ無名の隊士時代から十八席へ上がった数年前は席官という響きが心地よく、更に上席を目指す為身の引き締まる思いだった。
 今回五席へと昇格となり、始めは勿論自身の実力が認められたことが誇らしく感じていたものだ。しかし自身が小隊長となるような任務が増える度、その責任の大きさが積み重なるようで胸の奥が重々しくなるような気がしていた。
 つい先日の任務では隊員に怪我を負わせてしまった。傷は浅く数日の休養で済む程度ではあったが、自分の至らなさを恥じた。

「この前の事気にしてるんだろ」
「はい、まあ…そうですね」
「気にすんな、とは言えないが、落ち込んだ所で変わんねえよ」

 千世は頷くことも出来ず、一つ唸って身体を丸めた。彼に言われると、何処か救われるような気がしてしまう。
 怪我を負わせてしまった隊士には何度も頭を下げるため会いに行っていた。痛々しい包帯を腕に巻いた姿で「気になさらないでください」と言われても胸が苦しくなるだけで、自分の未熟さを強く感じる。
 自分があの時彼女を下がらせていたら、そこまでの傷を負うことなど無かっただろう。回りを見渡すことだけは誰よりも長けていたと思い込んでいた。その慢心だったのか、自分の成長ばかりに意識が向いていたツケだったのかもしれない。
 後悔というのは終わりがないもので、自分の中で納得のできる落とし所を見つけない限り無限の穴に落ちてゆくようだ。

「実力を付けたいと思って努力をしてきました」
「ああ、そうだろうな」
「席官に上がったというのは、実力を認められた事だと始めは嬉しかったんです。十八席へ上がった時は少なくともそうでした」

 思えば、自分のために千世は今まで努力を続けていた。何かを守るためとか、そういう信念とかは千世の中にはあまりなくて、ただ力をつけたいという漠然とした強い目標の為にひた走っていたように思う。
 そうすれば何れ、誰よりも敬愛する彼の横に並ぶことが出来ると思っていた。十席に上がった時、それが僅かに近づいたと自信になったと同時に、微かな得体のしれない不安を感じ始めていた。そして五席に上がってからは席官という立場の重さを遅まきに気付き、今までの脳天気な浅はかさを恥じている。
 その思いに見合わない未熟な精神に、幾度となくため息が出た。与えられる任務に出向く度に、如何に今まで自分中心で見ていたかを思い知らされるというものだ。

「俺も副隊長に上がるのは散々渋ったな」
「そうだったんですか?」
「まあ、事務も向いてねえし、俺より実力ある人なんてもっと居たと思ってたからな。最終的には浮竹隊長に押し負けた」

 そう言って海燕は笑う。

「重いと感じられたことは無いですか?」
「んー、重いとは思うがそれが重圧に感じることは無いな」
「その二つは同列には無いんですか」
「無い」

 あまりの即答に千世は目を丸くした。
 責任の重さに気づいた千世は直ぐにその重圧で潰れるような感覚だった。自分の為という言葉が通用しなくなった立場で、この先どう身動きを取れば良いのか分からずまるで薄暗い森にいるような気分だ。
 未熟さを痛感する日々は、護廷隊に入隊した頃以来のものだった。しかしあの頃の自分に比べて今千世が背負うものは増えている。もう形振り構わず動けるわけではない。

「立場が変わって、動揺したんだと思います」
「まあお前は見た目によらず自己中だったからな」
「……すみません」
「いや良い事だと思う。ただそれは、お前の後ろで責任を取ってくれる相手が居る時だけだな」

 ぎくりとした。自己中心的であったことは薄々気づいていたが、やはりそう見えていたという事か。確かに任務中は様子を見ながら隙あらば相手の仮面を真っ先に叩き割ろうとしていたし、稽古のために剣技の強い相手を捕まえて数時間軟禁した事もあった。
 今思えば恥ずかしいことばかりだ。霊術院時代の怠惰だった日々を取り返すかのごとく必死だった。
 しかし海燕の言う通りそれは自分がもしヘマをした時に責任を取る誰かが後ろに居てくれたからだ。自分がその立場になれば話は違う。それを今まざまざと思い知っている最中だった。

「だがお前はその自己中込みでも認められて上がったって事だ」
「それも、今は自信が無いです」
「だからお前は暗いんだよ!見込があると思われて、お前は前の五席を六席に落としてまで上がったんだろ」
「…そうですね」
「分かってるなら、認めさせた相手を後悔させないようにしろ」

 いとも簡単に言ってのけるものだ。分かったか、と凄まれて千世はこくこくと頷く。
 彼が重さを重圧と感じないというのは、どうも一見矛盾をしているように聞こえた。だがそれはきっと預かる重さを知りながら、立場を理解して地に足をつけて構えるということなのだろう。
 そんな立派にはなれないと今は思う。海燕ほど真っ直ぐな眼差しを向けることがいずれ自分に出来るようになるとは思えなかった。

「お前あんまそういう事言わねえけど、何か目標はあるんだろ」
「ああ、ええと…はい」
「そういうのは大切にしたほうが良い」

 海燕はそう言って頷く。口に出すのも恥ずかしいくらい自分中心の目標だ。そんなものでも大切にしたほうが良いのだろうかと思う。だがそれは少なくとも、何も持っていなかった千世を支えるものであったことは間違いなかった。
 いずれあの横に立ち、尽くすことが出来ればそれ以上の事は無いと思う。

「ああ、別にお前の目標は言わなくて良いぞ。自分の中で思っておけばいい」
「…なんだか、すごく先手を打たれ続けていますね、私」
「お、分かるか?」

 分かりますよ、と千世は笑って答えた。ここまで海燕が人に口出ししてくる事なんて珍しいことだ。以前の千世であれば、この時間は他愛ない話をして終わっただろう。

「まあ俺もお前の様子は心配だったんだが、それ以上に隊長が気にしてんだ」

 その言葉に、思わず千世は無言で背筋を伸ばす。

「変に過保護だよな、何でか知らねーが」

 そう言って海燕はふう、と息を吐いた。今日この討伐任務に彼と二人で編成された理由と繋がったような気がしたが、それを口に出してまさか違っていたら恥ずかしい。開きかけた口を千世は閉じた。
 雨は依然強く土に打ち付けていたが、不思議と不快では無くなっていた。分厚い雲が覆う空を木々の隙間から見上げてから、少しばかり目を瞑る。

「あれっ!?」

 千世ははっと起き上がる。あまり見慣れない様子に暫く辺りを見回していたが、浮竹の私邸に昨夜から来ていたことを思い出してまた布団へと身体を倒した。
 横に敷かれたはずのもう一組の布団は無くなっていて、少しだけ開いた障子の向こうで縁側に腰を下ろす彼の背中が目に入る。物音に気づいたようで、彼は振り返り障子を広く開けた。千世は再び身体を起こす。

「おはよう」
「すみません、昨夜いつの間にか寝てしまっていたようで…具合はもうよろしいのですか?」
「万全とは言えないが、多少はな。今、健康のために日光浴をしていたんだ」

 千世は布団から立ち上がり、彼の横へと腰を下ろす。
 まだ低めの日差しが眩しく差しているが、朝のまだ熱を持たない風が心地よく吹いている。
 随分懐かしい夢を長い間見ていたのはこの空気のせいかと千世は納得した。あの日は結局雨が止まず、そのまま夜を超え明け方まで海燕とあの巨木のうろで過ごすことになったのだ。
 朝目が覚めた時の心地の良い日差しと、土臭い風が心地よかったのを覚えている。

「今日はご出勤ですか?」
「隊の様子も気になるからな、午後から出ようと思う。千世は非番だろう、ゆっくりしなさい」

 あの時あのまま心が折れて居たら今頃どうしていただろうか。もちろん副隊長へと上がることもなく、こうして今浮竹の横へ腰を下ろすこともなかったのだろう。まだ信念も思いも無かった千世に、海燕の言葉はよく響いた。
 目標を大切にしろと言われた意味が、ようやく分かった気がしていた。いずれその横に立ちたいという思いのまま今まで過ごしていた中で、様々なものを得た。それは何かを守りたいという願いや、人の成長を喜ぶ事であったり、命を顧みず助けたいという思いだ。
 自分で感じることはあまりないが、少しは成長したのだろうかと庭で揺れる木々の葉を眺めながら思う。あの頃は何かを背負うことがひどく辛かったものだ。
 ふと横を見ると、心地よさそうに目を瞑っている彼の髪が穏やかな風で揺れている。千世の髪も同じ風向きに揺れ、彼の横に今自分が居ることを改めて認識する。思わずその髪に触れると、浮竹は目を開けた。

「また伸びただろう。そろそろ切ろうかと思っていたんだ」
「え!それは…勿体ないですよ」
「勿体ない…?千世は時々、良く分からないことを言うね」

 そう言って眉を曲げる。千世は何も言わずに笑って答え、その髪先をまた風に乗せた。

 

振り返れば夏の淵
2020/07/12