千夜一夜の夢見聞

2021年6月23日
おはなし

 

 陽がもう落ちようとする頃、流魂街のはずれを二人は歩いていた。
 あの一件の後すぐに瀞霊廷外への外出禁止が解かれ、以来初めてだ。手に持った提灯で浮竹を先導しながら、他愛ない会話をするのは特に何が有るわけでもないが心躍るような気分だった。
 久しぶりにこうして木々や土臭さに囲まれるというのも心地が良い。まだ多少昼間の熱が残る地面を踏みしめて歩きながら、時折吹く生ぬるい風でうっすらと滲んだ汗を乾かした。

「珍しいな、千世に連れ出されるのは」
「お連れしたい場所があって…多分この時期だと思うんですが」
「何だろうな。楽しみだよ」
「多分、期待に添えると思います」

 千世が自信満々といった様子で振り返ると、浮竹は笑った。
 どれくらい歩いただろうか、出発の時にはまだ多少明るかった空もとっぷりと暮れていた。暫く続いていた木々に囲まれた道が、やがて開けた草原へと抜けた。
 良かった、と千世は呟く。地図は無いから今までの勘で進んでいたのだがどうやら合っていたらしい。草原の中に高い木々に囲まれた場所が見える。

「何だあれは…異様だな」
「はい、あそこへ行くんです」
「そうなのか。一体何が有るのか想像つかないが…」
「行ったら分かりますよ」

 草原を進み、高い木々に囲まれた場所への傍までようやく近づく。まさに異様と言われる意味は分かる様子だ。木々はこの場所を円状に囲っている。
 巨木だと言うのにかなり密接して生えていて、その中へ侵入されることを拒んでいるように思える。その中で唯一入り込める隙間の前で、千世は浮竹を呼んだ。

「ここから入れるんです」
「随分狭いが…俺も入れるか?」
「なんとか頑張って下さい」

 確かに千世が通るにも少し屈むくらいだから、背の高い浮竹だと少しばかり苦しそうだ。先にくぐった千世は後から困ったように隙間を覗く彼の様子を眺めたが、うまく身体をねじ込むようにして通り抜けた。
 そこを抜けるとまた同じような開けた草原に出る。外から見た通り、巨木にぐるりと囲まれたこの草原の広さは例えるなら隊の敷地ほどだからそこそこのものだ。先程のまだじっとりと湿度の高さとはうって変わって、やけに爽やかな涼しい風が頬を撫でる。

「蛍か」

 浮竹の言葉に千世ははい、と一つ満足そうに頷く。
 もう八月も終わるというのに、この空間にはまばゆいばかりに蛍の光が満ちていた。
 静まり返った空気の中に、中央を流れる小川のせせらぎの音と時折風で揺れる草の擦れる音が隅々まで聞こえるようだ。
 丁度よい高さの岩に二人で腰を掛け、手にしていた提灯を背後の平らなところへと置いた。暫く何も言葉無く、辺りの景色を眺める。現世ではこのぼんやりとした光を亡霊と例える伝説もあるようだが、それが頷けるような幻想的な光景だ。

「美しいな。…だが、少し季節外れじゃないか?」
「そうなんです」

 此処へ初めて千世が訪れたのは、まだ席官へ上る前の事だ。当時の上位席官の任務に同行をしていたが、帰り道ではぐれた。その時に見つけたのが木々に円を描くように囲まれたこの場所だった。
 その時は確かじっとりと暑い夏の頃だったのだが、この場所だけまるで春のように穏やかな風が吹き、中央に位置する大きな桜の木には薄桃色の花弁が満開となっていた。

「此処だけ季節の巡りが遅いのか」
「それか、時間の経過が遅れているのかもしれません」
「成程…それはつまり、此処は数ヶ月前の世界かもしれないという事か」
「分かりませんよ、私の予想です」

 この付近での任務が有る際には、帰り道に迷ったふりをして何度か此処へ訪れていた。しかし何度訪れても季節は現実とずれていて、真冬のある日に訪れた際にはまだ紅葉が赤々と燃えていた。
 うららかな春のある日はしんしんと雪の降る静かな場所で、ある秋が近づく頃にはこうして蛍が相手を求め飛び交っていた。
 この場所へ今まで誰かを連れて来た事は無かったし、話したことすら無かった。暑い日差しが照りつけるような時期に桜が咲いている場所があるだなんて話も信じてくれるような訳はないし、何よりも不思議な場所を自分だけが知っているという特別感が千世の口を固くしていた。

「俺も長い事尸魂界に居るが、こんな場所は初めて知ったよ」
「良かったです。案外有名な場所だったら恥ずかしいなと思って…」

 千世は近くを飛ぶ蛍を目で追う。眩い黄色の幻想的な様子はどれだけ見つめていても飽きることが無い。
 確か蛍は水が澄んだ場所にしか集まらないと聞く。まだ日が高いうちに来ると分かることだが、中央に流れる小川の澄み切った透明も彼に見せたいものだった。

「こうしていると、少し日常が戻ってきている気がしてしまいますね」
「そうだな。実際はその逆だが…」
「…状況は悪いのですか」
「何とも言えないところだよ。大霊書回廊の調査を続けているが、見事に千世の閲覧記録しか見つからない」

 その言葉に千世はすみません、と身体を小さくして謝れば浮竹は首を振って笑った。
 この所浮竹は隊舎を離れていることが多かった。特に何をしているかの詮索はしていなかったのだが、つい昨日の退勤後彼の執務室へ顔を出した際に調査の件を聞いた。
 藍染が閲覧した記録を片端から確認をしているようだが、千世の閲覧履歴がどうやら妨げになっているのは明らかだ。まさか履歴が取れるようになっている事まで千世は知らなかったが、藍染はそれを知っていて千世を大霊書回廊へと向かわせた可能性が高い。
 その件に関しては仕方のない判断ではあったと前置きをされた上で山本総隊長から直々の厳重注意をされており、自分の浅はかさを今でも反省している。あの時は必死だったと言えば、それは軽率な行動への言い訳になってしまうだろう。

「まあそんな話は良いんだ。折角の蛍が勿体ない」

 薄暗い中、千世は隣の彼の顔を見上げた。空は薄曇りだが、時折その影から覗く月が僅かに表情を照らす。
 蛍の命は僅か七日だという。幼虫は水と土の中で一年間を過ごし、夏の日にこうして成虫となりようやく外へ出て飛び回る。相手を見つける為光を放ち飛び回る様子は一見美しいが、たった七日だけのものだと思うと儚く悲しくも感じる。

「此処に居る間も、外は普通に時が流れるのか」
「どうなんでしょう…あんまり長居したことは無いので分からないんです」
「それなら試してみようか」
「試す…?」

 千世は浮竹の言葉に首を傾げた。ここは季節がずれた場所ではあったが、この場所と外の時間の流れの違いまでは分からない。

「長居をして、果たして此処と外の時の経過が同じかを調べるんだ」
「それは…かなり長居をしないと、中々検証が難しそうですよ」
「俺は構わないよ。二人で何も考えないで、此処でずっと過ごすんだろう」

 優しい声に、千世はしばらくぽかんと口を開けていた。そんな日々が過ごせるのなら良いと一瞬でも思ってしまった。頭に僅かに浮かんだその情景を千世はひとつ呼吸をして振り払う。

「で、でもそれには雨風を凌ぐ建物とか、ご飯とか…お風呂とかも無いと…」
「確かにそうだ…肝心な事を忘れてたな」

 そう言って彼は笑う。先程の言葉は冗談のようには聞こえなかった。まるで半ば本気で言っているかのような声音で、その視線ははるか遠くを見つめていた。
 その同じ視線の先を見るように千世も顔を真っ直ぐ前へと向ける。変わらず飛び回る蛍の光は静かに互いを求め合っていた。
 千世、とひとつ名前を呼ばれて彼を見れば、じっと視線が交じる。

「もし雨風を凌げる屋敷があって、風呂も布団も食料も心配がなければ、一緒に過ごしてくれるか」

 もう一度は終わったと思っていた話題にまた触れられて、千世は暫くぼうっとその顔を見つめていた。またさっきと同じで、どうやら冗談を言っている訳ではないらしい。
 だが彼がそんなまるで夢のようなたとえ話を持ってくる事は珍しく、あまりに今の状況からかけ離れた現心な言葉を理解するまで少し時間が掛かった。

「……それは…」
「……ああいや、悪かった。変な事を聞いたな」
「いえ、違うんです」

 二人で何の心配も考えずに過ごすことが出来るなら、そんな幸甚は無いだろうと思う。だが護廷隊に所属する以上、それを求められるような立場にはない。それはきっと彼も分かっているだろうに、どうして敢えてそんな事を口に出したというのだろうか。
 見てはいけない夢を見てしまったかのようなわだかまりが胸につかえるようで苦しい。だが、彼の言葉が本心では嬉しい。

「私が死神で無ければ、迷わずはいと答えたんだと思います」

 千世の言葉に、浮竹は何も言わずに頷く。自分が死神で無ければ、なんてどうしようも出来ない事を言ってしまった。夢うつつの例え話にたった一言、はいと答えるだけの事が出来ないだなんて、厄介な立場に就いてしまったものだ。
 幸せを求めない訳ではない。現にこうして永く憧れていた相手と恋仲になった。だがその未来を求める事はきっとしてはならないのだろうと分かっている。
 先日のときのように互いの身に何が起きるか分からない立場で、安寧の未来を求めることはきっと自分の首を絞めることになる。そんな事を彼は千世よりもずっと深く理解しているはずだというのに。
 無言の時間が流れるほど、息苦しい。今は隊舎に置いている副官証が煩わしいと、一瞬でも思ってしまった。

千世?」
「は、はい」
「そろそろ帰ろうか。腹も減ったんじゃないか」

 顔を覗き込まれ、千世は背筋を伸ばす。何を馬鹿なことを考えていたのだろうかと、ひとつ深呼吸をした。立ち上がると、背後に置いていた提灯をまた手にする。

「ここ、数ヶ月だけずれてるのかなと私も思ってたんですが…もしかしたら、もっと違うのかも知れないと思って」
「それはつまり…どういう事だ?」
「つまり、もしかしたらここは十年と数ヶ月前だったり、百年と数ヶ月前だったり…いや、もしかしたら千年と数ヶ月後なのかもしれないと」

 草を踏みしめて歩きながら、浮竹はなるほどと一つ唸った。その真実を知ることは出来ないから、何が正しいかなんて確かめようがない。
 同じ時間軸で、ただ何かの影響で気候だけが異なっているだけなのかもしれない。全ては単なる想像の話で、だがそれが楽しい。技術開発局に調査依頼でもすれば詳細が分かるかもしれないが、そんな事は望んでいない。

「もしここが千年とすこし前の場所だったなら、また戻った時、千世と千年を過ごした事になるのか」
「はい、そうかも知れません」

 千世の言葉に、浮竹は一つ微笑む。また来た時と同じように、狭い隙間に身体をねじ込むようにしてくぐる様子を見届けると、千世も同じようにその隙間へと身体を入れた。
 ふと最後に振り返った時、変わらず飛び交う蛍の光が眩しくて思わず目を細めた。

 

千夜一夜の夢見聞
2020/08/02