自由落下は指先から

2021年6月22日
おはなし

 

「えー!?付き合い始めてたの!?」
「京楽、声が大きすぎるぞ」
「いやだって、そんな事微塵も聞いてないもの。ボク」

 京楽は驚いたように目を見開き、猪口の中身を口に軽く含む。
 珍しく浮竹から雨乾堂へと招いた。時期もあってか中々予定が掴めず二人きりで話す機会が近頃無かった為、彼女のことに関してはひと月以上遅れての報告となった。
 いい年をした男が誰と交際しただのをわざわざ報告をするのも気恥ずかしいと思ったものだが、今までなんだかんだと聞かせていた相手としては伝える義理があると思った。千世にも、京楽には伝えると少し前にそう話している。

「まあ、そうなるとは思ってたけど。案外早かったと思って」
「そうだったのか…?」

 見え透いていたという事だろうか。鼻歌まじりの横顔を見ながら浮竹は口をへの字にする。それなりに頭を悩ませていた事の結末が見え透いていたというのは、何とも不本意なことだ。だが昔からそうだった。軽薄な言動をしながらも、いつも物事を一つ引いて眺めている。
 千世との件もはじめから見えていたのだろうか。思えば後ろ向きな感情ばかりを覚えていた自覚はあったから、そう思うと改めて気恥ずかしく、一つ軽いため息が出る。
 この季節、縁側での酒盛りというのは中々気分の良いもので、我儘を言えばもう少しばかり雲が無ければ月が見えたというものだ。行灯の灯りだけではどこか心もとない。

「上手く行ってるの」
「まあ、そうだな」
「もう抱いたの」
「お前はすぐそういう…」

 つい先日の晩の記憶が過ぎり、思わず耳がかっと熱くなる。様子に気づいたのか、京楽はふうん、と口元をにやけさせた。下世話な話題を振られる事は分かりきっていたが、実際突っ込まれるとうまい誤魔化し方が分からない。
 抱いたかと言われれば何とも言えないが、恐らくそれに準ずるような行為であった事は間違いない。蘇りかけた感情を振り払うように手元の酒を一口煽った。

「覚悟を決めたってことかい」
「…まあ、覚悟というか…そうだな」
「そうかい。良かったよ」

 覚悟と言えるほど大層なものではない。千世の今の幸せと、自分が素直に求めるものを擦り合わせた。遠い未来を考えてその選択が正しかったかというのは、残される側が決めるというものだ。それで良いと、ようやく折り合いをつけた。
 自分ばかりが先に逝くと思っていたが、先の彼女の事故で己が残される側にもなり得るのだと今更気づいたというのは恥じるべき事だった。己の感情の正当性を主張するかのように御託を並べている間に、もし万が一失うような事があればそれほどの後悔は無い。
 失いたくないほど愛しいのだと、そう素直に認めてしまえば驚くほどに胸がすいた。これで良いのだと、言い聞かせるように何度も自分の中であの時の彼女からの言葉を反芻する。その思いを受け止める事を選んだのだと。
 しかしそれでも彼女の笑顔を見る度に、果たして自分がその濁りない眼差しを受けて良いものかと思う事はある。恐らくこの選択を悔いる事は無いが、二人の間に存在し続ける時の差は、常に浮竹の胸の奥に沈み続けるには違いなかった。

「最近体調はどうなの」
「多少、調子の良い日は多い気がするよ。最近千世の煎じてくれた薬茶を飲むようにしていてね」
「薬茶?ああそう…効くのかい、そういうのって」
「確かイカリソウと言って、滋養強壮に良いらしくてな。効いているとは思うんだが」
「…イカリソウ?」

 目を丸くしたまま京楽は鸚鵡返しをし、その様子に浮竹は訝しげな表情で頷く。

「浮竹それ、精力増強剤じゃない」
「は…嘘を言うな、そんなものを千世が…だってまだ付き合う前からだぞ」
「えっ、じゃあイカリソウを食べた山羊が一晩で百回交尾したって逸話、知らなかったの」
「し、知るかそんな事!」

 浮竹の引きつった声に、京楽はけらけらと笑った。
 からかう為に言っているという訳ではないようだ。そう言われれば、あの薬茶を口にするようになってから今まで飲んだどの漢方よりもよく効いたような気がしたのは事実だった。
 果たしてそれが精力増強の効果によるものなのかは分からないが、体力と精力というのは結局持ちつ持たれつの関係だろう。どちらかが減退していれば片方も衰えるというものだ。

「やるねえ、千世ちゃんも」
「いやまさか…そんな様子にも見えなかったぞ。卯ノ花隊長から聞いた、とか言ってたような…」
「ああ、じゃあ卯ノ花隊長の入れ知恵だ。愛されてるねえ、キミも」
「何がだ…大体、何でお前もそんな事知ってるんだ」
「まあこの年になると、そういうのに頼らないとねえ」

 しみじみ遠い目をしてそう言った京楽に、浮竹はなんとも言えない気になる。若い頃に比べればやはり衰えというものは感じる時がある。それは何も精力に限った話ではなく、体力や気力についても同じだ。
 未だ現役で前線へ出ているとはいえ、あの頃の向こう見ずの勢いと思い切りの良さは今の自分には失われたものだ。
 千世からは、自分がもう持てない若さをひしひしと感じる。眺めていてひやりとする時も少なくはないが、あの前を向く必死さとがむしゃらに目標へ辿り着こうとする気力は見ていて爽快とすら思う。

「この話、他に誰が知ってるの」
千世が伝えると言っていたのは日番谷隊長と、松本君の二人だな」
「あ、そう。意外だねえ、千世ちゃんの交友関係」

 浮竹は笑って頷く。彼女と出会って何十年と経つが、まだ知らないことが山とある。その全てを知ろうとまでは思わないが、一つずつ近づいて行ければよいと思う。
 京楽がつまみにと持ってきた奈良漬けを口に入れると、独特の風味が鼻に抜けた。

「で、祝言はいつ上げるつもり?」
「祝言…」
「そのつもりでしょう。遊びで付き合ってる訳でもあるまいし」
「…まあ、そうなんだが。まだそう日も経って居ないし、考えるのは気が早くないか…」

 慌てた様子に、京楽は笑う。まだ付き合ってひと月と少しだと言うのに祝言の話というのは流石に突飛だ。京楽の言う通りそのつもりが無い訳では無かったが、もうしばらくは今の歩み寄るような関係を続けたい。
 交際をはじめて見えてくる姿というものが勿論ある。千世にとって、もしかすれば恋人としての浮竹が思っていたもの違う可能性もあるだろう。何れ考えねばならない事ではあったが、今は未だ恋人としての互いを良く知り見定める必要がある。
 少しずつ彼女を知り、そして自分についても同様に知ってもらいたい。それは恋人となった今、傲慢な願いでは無いはずだ。擦り合わせた時間が長くなるほど、深みを帯びる。その後に待つものが何か、今はまだ分からない。

 はあ、とため息のような、単なる吐息のような息を吐き出しながら、ふと空を見上げる。丁度風に流され雲が東の方へと流れていこうとしていた。

「月が見えた」
「ああホントだ。上の方は風が強いのかね」
「そうかも知れんな」
「初夏の月見酒なんて、中々良いもんだね」

 京楽の言葉に、浮竹は頷いた。
 どこか自分の中でひとつ区切りがついたような感覚だった。今までそれなりに長い時を生きてきて、互いの女性関係とは何となく知っていた。だが特に互いに詳細を話すような事はなく、互いに現在相手がいるのか居ないのか、どんな相手か程度の認識だ。
 だから相手女性に関してここまで事細かく話す事は初めてで、自分にとって彼女というのは知らぬ内に特別になっていたことに今更気づく。
 娘ほどの新人から好意を持たれているようなんだ、と良くあるような事をちらと話したのが初めだった筈だ。長く隊長をしていれば、憧れを誇大に考えて恋のような感情を抱く者が出てくる事はそこまで珍しい訳ではない。千世の場合も同じで、そんなものだろうという認識だった。
 それが此処まで形を変えて今まで残っているだなんて、当時の自分が聞けばそんな筈はないと笑いそうなものだ。きっかけも何もかも、今となれば思い出せないほど些細な事だった。それが積もり、今に繋がっているのかと思うと妙なものだった。
 いつからだったのだろう、と、何度目か分からない事を思う。それほどまでに、自然な時の流れの中に組み込まれていた。水滴の落下で硬い岩に凹みが生まれるように、その結果の理由だけは明らかであっても、その経過には気付け無い。

「…ありがとう」
「どうしたの急に」
「色々思い出していたついでだよ」

 思い出し始めると、止めどないものだ。不思議なもので、年を取るほどにその時間というのは長くなってゆくように思う。先に伸びる時間より、歩んだ道のほうが余程長いということだろうか。
 言葉代わりに軽く会釈をした京楽は、猪口を差し出す。浮竹も同じように差し出すと軽い音を立ててぶつかった。

 

自由落下は指先から
2020/06/15