綺麗な言葉がお似合いで

2021年6月22日
おはなし

 

 その日、千世は瀞霊廷内の食堂で鉄火丼を口にしていた。
 ようやく月初に一番隊とへ提出する書類が揃ったから、一人で祝いの遅めの昼食だ。ほぼ放心状態で鮪の刺身を咀嚼しながら、窓越しの景色を眺めている。
 毎月と同じ要領で進めていたはずで、最終的に月末三日間執務室に缶詰になるとは思ってもいなかった。今月は新入隊士の事故報告が多かった上、備品破損等での決裁書の増加、更に度重なる歓迎会の領収書の取りまとめなど、毎月の通りでは間に合うはずがなかったのだ。
 気づいたときにはもう遅く、もっと早めに全体を把握していれば良かったと後悔をしながらひたすら書類を捲る日々だった。指先の指紋はいつの間にか擦れて消えたかのように乾燥している。
 頼みの綱だった清音が新入隊士の面談や定期研修でほぼ隊舎に居なかったというのも誤算だった。人を頼るというのも情けない話だが、今月に関しては致し方ないと言える。
 千世がそうして呆然と食事をしていれば、突然横の椅子が引かれた。他に空いている座席はある筈なのに、わざわざ隣を選ばれた事が少しばかり鬱陶しい。
 顔を歪めながら椅子を引いた人物を見上げると、思わず噎せた。

日南田副隊長、失礼して良いかな」
「藍染隊長…お久しぶりです」

 また会ってしまった、とぎくりとしながらも千世は立ち上がり頭を深く下げる。
 以前もこの食堂で会った事を思い出す。よっぽど藍染は良くこの食堂に来ているのだろう。でないと、二度も此処で偶然出会う事に理由がつかない。
 すっかり目が覚めたように頭がはっきりとして、背筋を伸ばして再び腰を下ろした。折角ようやく何も考えないで良い時間を楽しんでいたというのに、あんまりだ。

「随分お疲れのように見えるが」
「月初に提出する書類がようやく纏まりまして…」
「ああ、そんな時期だったね。懐かしいよ」

 懐かしい、という言葉に千世は一瞬首を傾げたが、恐らくきっと彼が同じように副隊長だった時の事を言っているのだろう。

「藍染隊長も、徹夜される事があるんでしょうか」
「そうだね、書物に夢中になっていると気付けば丑の刻を回っている時があるよ」

 仕事で徹夜をするような事は無いのだろう。暗にそう言っているように聞こえる。仕事を徹夜でする人間はよっぽど要領が悪い、とでも言いたいのだろうかと千世は斜め上に勘ぐって勝手にむっとした。興味本位で話題を振るのは間違いだった。
 千世は無言で一口酢飯を口に運び続ける。相変わらず彼の横は居心地が悪い。ちらと彼の盆の上を見ると、前回と同じせいろそばが乗っており、またぎょっとする。
 一年に数回程度しか来ないこの食堂で二度も会い、その上二度ともせいろそばというのは果たして偶然なのだろうか。

「何か最近変わったようだね」
「変わ…った事は特にありませんが…」
「そうかい?じゃあ、僕の気のせいかな」

 突然の言葉に千世はぎくりとしたが、至って平常なように答える。何かを見透かしたような言葉がやはりどこか恐ろしい。

「どこか、変わったように見えましたか」
「…そうだな、どこか…前に比べて自信がついたように見えたかな」

 そうですか、と千世はまた何でも無いように答えた。それ以上彼は何を言うこともないが、訪れた無言がまた気まずい。
 彼がもし万が一浮竹との関係の事を指しているというのならば、それほど恐ろしいことはない。藍染とは二月ほど前、同じようにこの食堂で会ったきりだ。勘繰られるような機会は無い。
 そんな筈がある訳無いと思ってはいるものの、彼の言い方には妙に含みがあった。

日南田君、もう行くのかい」
「ええ、はい…もう食べ終えましたので」
「そうか残念だな。もう少し君との会話を楽しみたかったんだが」

 彼の言葉に、千世は下手くそな愛想笑いを浮かべて軽く頭を下げた。会話なんて全く楽しんでいた感覚はない。彼だって同じだろうに、何とも白々しいことだ。
 食べ終えた盆を持って立ち上がると、優しく呼び止められ足を止める。また何を言われるのかと、千世は思わず身構えた。

「最後に一ついいかな」
「…はい、何でしょうか」
「人は欲心を満たされると、執着が薄れてゆくものだよ」
「はい…?」

 何を急に言い始めるのかと、千世は訝しげな表情を向けた。千世の気を知ってか知らずか、その先の言葉を待つように彼は微笑む。傍から見れば単なる世間話をしているように映るだろうか。

「私は逆だと思いますが」
「それはどうしてかな」
「人の欲深さは際限のないものですから」

 千世の言葉に、藍染は空気を漏らすように薄く笑った。こういう所が苦手なのだと、千世は胸の中がすっと冷たくなるような感覚に顔を歪める。

「違うな。人は罪深いんだ。欲とは使い捨てだよ」
「…どういう意味でしょうか」
「君ならすぐに理解できると思うよ」

 にこりと笑った藍染に千世は表情を固くしたまま頭を再び下げ、その場から早々に立ち去った。
 核心に触れることは無いものの、関係に気づいている事を仄めかしているような口ぶりに思えた。浮竹との関係を知らせているのは先日千世が伝えた十番隊の二人、そして恐らく京楽の三名だけだ。
 その三名が他人に漏らすような事をするとは思えない上、まず勘付かれるほど藍染と顔を合わせていない。どちらかといえば浮竹が藍染とは隊首会等で顔を合わせているのかもしれないが、少なくとも前回は体調不良で欠席をしている。
 千世は言い得ぬ気味悪さを感じながら、執務室へと戻り長椅子にぐったりと、だらしなく腰掛けた。
 すっかり書類の山が抉れた机がやはり壮観だ。また数日後には徐々に積み上げられ始めるだろうが、今は少なくとも何かに追われることがない。今まで気を張っていたからか、こうして力を抜いていると疲れがどっと溢れてくるようだ。

千世、入るよ」
「えっ!?は、はい!」

 長椅子でぐったりとしていれば、突然前触れもなく襖が開き千世は慌てて背筋を伸ばす。以前は千世がどうぞと促すまで待っていてくれたものだが、最近は呼びかけられてから部屋に入るまでの間がほぼ無い。
 けろっとした表情の浮竹は遠慮ない様子で部屋へ入ると、千世の横を指差す。千世がどうぞ、と少し身体をずらすと空いたその場所へと身体を収めた。

「仙太郎から千世が一番隊舎に向かったと聞いてね。月末業務が落ち着いたようだから、労ってやってくれと」
「あぁ、成程…ありがとうございます」
「先月は特別忙しかったろう。懐かしいな」

 藍染と同じような事を言う。全く想像もつかないが、浮竹にもその昔副隊長だった時代があったのだと思うと妙なものだ。彼もまた、この部屋で書類の山に埋もれながら過ごす日々があったのだろうか。その白い羽織ではなく、腕にこの副官章を巻いた姿で。
 そうふと思い浮かべてみるが、あまりに今の自分との実力差を感じて掻き消した。浮竹が副隊長であったならば、どれ程隊の者は安心だっただろうか。
 菓子盆の上から一枚煎餅を手にする浮竹に、そういえば、と千世は口を開く。

「帰りに四番隊舎近くの食堂に行ったらまた藍染隊長にお会いしました。お気に入りなんでしょうか」
「そうだったのか…五番隊舎にも近いから通っているのかな。…何か話したのかい」
「ええと……特に、他愛のない話です」

 少し考えて、当たり障りのない答えをした。変に伝えて心配をさせるわけにもいかない。
 今更藍染の言っていた言葉を思い出すと、胸がざわついた。手に入れたならば人とは飽きるのだと、執着はそれまでなのだと妙な事を告げられた。何を知ってのことか、思ってのことかは分からない。だが、どうにも何か見透かされたような視線を思い出すと腹の底がどんよりとする。
 手に入れたいと思っている時人は最も烈しい感情を持っていて、それが満たされるとそのものへの興味というものは徐々に薄れてゆく。彼はその欲心を満たすその過程が、最も尊いものだとでも言いたかったのだろうか。
 それならば彼の言う、欲が使い捨てだという意味も分かる。その過程に意味を見出してしまったのならば、その終わりに有るものなど単なる置物にしか過ぎない。人はその道程に酔う為、欲という言葉を都合よく使っている。
 彼の言葉の意味が果たして恋愛におけるそれを言っていたのかは、直接聞かない限り知る余地もない。そしてそれを何の為にわざわざ呼び止めてまで千世に伝えたのかも同じだ。
 千世はそこまで考え、ぱっと思考を止めた。これ以上考えた所で何か答えが出るような話ではない。千世、と心配したように顔を覗き込まれ、慌てて顔を上げる。

「徹夜続きで疲れているんじゃないか」
「そ、そうですね…少し仮眠を取ろうかと思います」
「うん、そうすると良い」

 浮竹は立ち上がり、長椅子の半分を千世へと明け渡す。結局手にした煎餅に口をつける暇がないまま、欠けのないそれを手にしている。手を付けてしまった手前、菓子盆に戻せないから、そのまま部屋に戻って口にするのだろう。

「隊長」
「ん?」
「…こんな事を、あまり聞くべきではないと思うのですが」
「何だ、言ってみなさい」

 あー、と千世は口ごもる。一瞬の気の迷いで呼び止めてしまった。ふと浮かんだ不安を解消したかったのだと思う。彼のまっすぐと向く視線をじっと上目で見つめながら、ええと、ともごもごとさせた。
 急かすようなことをせず、浮竹は少し笑って千世の言葉を待つ。

「私のどこが、その…お気に召したのでしょうか」

 ようやく絞り出した千世の言葉に、浮竹は少し考えたように目線を上げた。

「難しいな、今となると」
「難しい…?」

 千世は浮竹の言葉を鸚鵡返しする。

「今となればどこが良いなんて、一つを選んで答えられないという事だよ」

 そう言って微笑んだ浮竹の言葉に、千世はしばらくぽかんとした後に赤面してがっくりと頭を垂れた。
 不安が解消されたどころか、いたずらに心拍を上げられてしまった。
 過ごした時間の長さが違いすぎるのだと、千世は時折思う。まだ千世には彼と比べて知らない感情が多すぎる。しかし、だからこそ彼と過ごす日々が色鮮やかで美しい。執着を失うどころか、まるでその逆ではないか。
 これは藍染の言葉の反証だと、千世は思う。何よりも憧れ夢を見ていた場所を手に入れても未だなお、こんなにも鮮やかな景色を日々目の当たりにしている。
 おやすみ、と最後にひとつ残された言葉が千世の耳の奥で優しく響いて広がった。少し微笑んだ横顔が消えた襖をじっと見つめながら、思わずはあ、と熱い息が漏れた。仮眠というには少しばかり贅沢過ぎるだろうか。

 

綺麗な言葉がお似合いで
2020/06/09