柔爪の采配

2021年6月22日
おはなし

 

 ここの所、ふとした事で妙な不安を感じる事が多くなっていた。
 それはいつもとても些細な事なのだ。例えば廊下で浮竹と業務上の会話をしている時に、通りかかった隊士に挨拶をされてその流れで少し世間話をする様子を見ている時。
 通りがかりに台所の鍋の料理を指差して美味しそうだと笑って、一口味見の器を受け取っている姿を見ている時。気まぐれに訪れた稽古場で、自然と手を添えて指導をしている姿を、見かけた時。
 以前は大して気にならなかったちょっとした事が、なぜか千世の中で大きくなり言いようのない不安の要因になる。
 その不安というのは大抵浮竹の視線の先に自分でない女性が居る時に強くなる。それを嫉妬と呼ぶ事を千世は知っていて、だがそれを認めたくない気持ちが強く今までなんだかんだと目を逸らしていた。
 分かっているのだ。彼は自分の恋人であると同時にこの隊の長であって、数百の隊員を束ねている。もちろんその中には女性も多くいるし、業務上関わる事は絶対に避けられない。
 だというのに、ごちゃごちゃとした気持ちが千世の中で大きくなり、それを叩き潰す事にそろそろ疲れてしまった。感じたくないと思っていても、まるで雑草のようにそれはしぶとく生えてくる。

「おおい、千世ちゃん」
「京楽隊長、お久しぶりです」

 三番隊の吉良へ資料を借りに出ていた帰り道、千世はふらふらと歩いている京楽に声をかけられた。

「仲良さそうじゃない」
「…何のお話でしょうか……」
「大丈夫、ボクちゃんと浮竹から聞いたから」

 へらへら笑いながら京楽は千世の肩をぽんぽんと叩く。浮竹の名前が出て慌てて千世は辺りを見回したが、幸いにも人通りはなかった。回りに人が居る中でまさかそんな迂闊な事をする訳がないと分かっては居ても、気になってしまうというものだ。
 いつの間にか、浮竹の口から直接彼へ伝えたのだろう。千世のころころと変わる表情が面白いのか、顔をじっと見つめられて思わず手に持っていた封筒で隠した。

「隠さなくても良いじゃない。あの色男落とした女の子を見ときたいの」
「からかわないで下さい…七緒さん呼びます」
「ちょっと、それは勘弁してよ…折角監視の目すり抜けて来たんだから」
「あ、やっぱりそうだったんですね」

 内緒ね、と京楽は小さく笑う。今頃八番隊舎での伊勢の様子を想像すると恐ろしいものがある。
 自分の隊の隊長が毎日放浪していたら困るだろう。副隊長にもある程度の権限が与えられているとは言え、その全てを請け負っていたら潰れてしまう。
 流石に京楽がそこまで逃げ続けるような事はしないとは分かっているが、それでも度々伊勢の事は気の毒に思う。

「よろしくね、浮竹のこと」
「い、いえ…私はよろしくされるような…」
「いいの頷いとけば。仕事とは違って恋人同士は対等なんだから」

 じゃあね、と京楽は微笑むと次の瞬間には姿が消えていた。
 対等、という言葉が耳に残る。千世はその足で隊舎へ帰ると足早に執務室へと戻った。縁側に出て少し伸びをしてから、腰を下ろして吉良から借りた資料に目を通す。
 暫くそうして眺めていたが、突然庭に人影が現れて思わず取り落した。

「隊長…どうして庭から…」
「驚いたか?気分転換だ」
「驚きましたが…」

 地面に散らばった紙を二人で拾いまとめると、浮竹は千世の横に腰を下ろした。
 いつも急に現れていたが、庭に直接来ることは無かった。何か慌てている様子でもないし、本当に気分転換で来ただけなのだろう。それにしては、やけに良い間合いだった。

「急にどうされたんですか」
「気分転換だよ、千世の」
「私のですか?」

 そう、と浮竹は頷く。気分転換、と言われても特に最近煮詰まっている訳でも無かったし、仕事は相変わらず溜まるが追い詰められているというほどでは無い。
 体調は良かったし、特に何かを思い悩んでいるという事も無い。ただ強いて言うならば、最近妙に嫉妬を感じる事が多くなったという事くらいだ。だが、まさかその感情を表に出したことは無かったはずなのだが。

「最近何か考えている様子だったからな」
「そうでしょうか…?」
「おや、俺の気の所為だったか」

 そうとぼけたように浮竹は言うが、千世が半ば図星に近い様子を知っての事だろう。
 いつ勘付かれたのかと千世は思い返すが、ここ最近は彼に付いている間は大抵その感情と戦っている事が多かった事に気付き今更頭を抱える。きっとその様子は彼から見ればあからさまだっただろう。

「…この頃、その…気になってしまって」
「気になる?」
「はい。何と言うか…はい」

 千世は口ごもる。どんな言葉を選んでも、この感情は汚い。
 他の女性に視線を向けていると、話していると、嫌な気持ちが湧いて出る。それは雨が降った後の地下のじめじめとした湿度の高い薄暗さに似ている。
 彼にそんな気が無いと分かっているし、理解もしているというのにどうしてこうも押さえきれないのかと苛立ちさえ感じる。

「俺が他の女性と話している事が、気になる」

 浮竹の突然の発言に、千世はぎくっと身体を固まらせた。何もかも見通されていたということか。それでいて聞き出そうとカマをかけるなんて、中々意地が悪い。

「頭では理解しているのに、どうしても収まりがつかない時があるんです」
「そうか」
「隊長のお立場も、お人柄も分かっているのですが」

 いくら理解していてもどうしてもその視線の先の相手を羨んでしまう。だからと言って彼にほかの女性と話すなとか、そういう制限を行いたいのではない。自分の中でその気持と向き合う事が出来ればよいのだ。

「実は俺も妬ましいと思う時がある」

 優しく呟かれた言葉に、千世はどきりとする。
 まさかそんな言葉が彼の口から出るとは思いもかけなかったから、動揺をした。浮竹は少しだけ目線を外して、気まずそうな顔のまま前髪を指先で直した。

「それは…例えば、どんな時ですか」
「…やっぱり聞くのか」
「すみません…」

 謝りはするが、撤回はしない。千世が一番嫌っていた感情を、同じように彼も感じたことがあるのならば一体何が素因なのかを知りたい。
 浮竹はひどく悩んだような様子で、それは言おうか言わまいかという煩いというよりもどれを言うべきかと選別しているように見えた。どうしてかその眉間に皺を寄せる姿は、千世の心を浮き立たせる。
 自身の感じる嫉妬は何よりも醜くて汚いもののように思えたのに、彼に向けられるそれはどうしてか特別なものに見える。

「いや、やめよう」
「えっ!?」
「言えば、千世の行動を制限する事にならないか」
「なりません。隊長はそんな事を望まれないと思いますから」

 千世の言葉にしばらく悩んでいた様子だったが、やがて観念したように口を開く。

「さっき、隊舎付近で京楽と二人で話していたね」
「…はい、先程」
「例えば、その程度のものだよ」

 ついさっきの話だ。あの場に浮竹は居なかったはずだが、一体どこで見ていたというのだろうか。浮竹に聞かれてもまあ疚しいことは無い会話だったというのに、そう言われるとついぎくりとしてしまう。

「京楽がそういう気でない事は分かってるんだ。元々女性に対しては距離が近いし馴れ馴れしい」
「…すみません、私もそういうつもりではなくて…」
「違うんだ、分かってる。ただ話しているだけだというのは…そう、だからそんなつもりで言ったのではなくてだな…」

 焦った様子で、言葉が途切れた。

「分かっているのに、収まりがつかなくなる。千世が言っていた事と同じだよ」

 浮竹はそう言って千世の頬を手を伸ばした。それはどこか言い聞かせるような印象だった。
 その温かい手のひらはゆっくりと頬を柔く包み、指先が肌の滑らかさを確かめるように撫でる。千世がくすぐった笑うと、するりとその手は離れた。

「嫉妬は理不尽な感情だろう。だから俺も嫌いなんだ」
「…そうですね」
「でも正しい感情だとも思う。至って通常の感情だ」

 だから難しい。庭の木を眺めながら、自分の言葉に納得するように二度軽く頷いた。
 想う相手が居れば、誰だって多少はそういう薄暗い感情を抱くことがあるのだろうか。現に隣にいる彼も、千世と同じで収まりのつかない感情を持て余す時があるのだと言っていた。
 ただ他の男性と話しているだけの姿を見て、その涼し気な顔の奥で湧き出る苛立ちに似た感情を押し殺していたのだろうか。

「どうした?」
「ああ、いえ…隊長も、そう思われることがあるんだなと思ったんです」
「はは、あるさ。こんな羽織を着ているだけで、中身は普通の男だよ」

 普通の男、というものを千世は他によく知らなかったが、彼の言わんとする事は少し分かるような気がした。
 必死に憧れていた千世にとって、浮竹はまるで何もかもが完成された男性のように見えていた。しかし彼との距離が近くなるにつれて次第にその憧れが恋へと変わったのは、思っていた姿との差異に少しずつ気づいていったからなのだろうと思う。
 思い描いていた、勝手に想像をしていた完成されていた姿から少しずつ変わってゆく彼の印象に千世はますます惹かれていた。今だって同じだ。
 そうだ、と千世はぱっと顔を明るくして彼を見る。

「私しか知らない隊長が居るんです」
千世しか知らない?」
「そうです。多分、京楽隊長も知らない浮竹隊長を私は多分色々知ってると思いますよ」
「随分自信があるなあ」

 浮竹はそう言って笑う。

「でも、そうかも知れない」
「はい。隊長もきっとそうですよ」
「俺しか知らない千世か。確かに、そうだな」

 恐らく嫉妬の感情というのはどうやっても人の心から無くなるものではない。それならばきっと、うまく付き合って行くしか無いのだろうと千世は思う。
 京楽に言われたことを思い出したのだ。恋人同士は対等だと。言われてみれば、千世は仕事の延長を無意識に持ち込んでいたのかも知れない。二人で睦言を交わしている時でさえ、千世は彼を上官として認識して居たのだと思う。
 それは意識の切り替えの問題で、二人きりで居る時の彼を自分だけが知る浮竹十四郎であると思うと、しばしば湧いていたあの嫌な感情が少しだけ影を潜める気がするのだ。
 大勢が知る彼とは違う姿を知る自分、という優越感というのも有るのだろうが、何より上官と自分という関係から一旦切り離すという事が無限の嫉妬からの脱出方法なのでは無いかと思う。それが実際に出来るかどうかというのは、別の問題だ。

「じ…十四郎、さん…いや、様…」
「ど、どうした」
「じっ、十四郎殿!」
「…どうした……」

 緊張をしながら色々と口に出してみたものの、あまりの違和感に千世は口をへの字に曲げた。

「二人の時は、お名前を…お呼びしてみようと思ったんですが…」
「成程。でもまだ少し、難しそうだな」
「…はい」

 千世はそう言って身体を縮める。浮竹は千世の様子がおかしいのか、ふふ、と声を漏らして笑っている。
 一大決心だったというのに、まさかそうも可笑しがられるとは思わず千世はむっとしたように彼の方に半身を向けた。

「そんなに笑わないで下さい」
「ああいや、すまん。可愛かったんだよ」
「…か……」
「色々と考えて、名前を呼んでくれようとしたんだろう」

 ありがとう、と彼は微笑む。千世は適当な言葉が出ず、一つ頷いて返す。
 可愛いと口に出して言われたのは、思い返す限り初めてだ。そういう言葉を求めていた訳ではなかったが、いざ彼の口からそう向けられると何とも言えない気恥ずかしさと、弾むような気持ちで胸がざわついた。
 自然と口元が緩んで、きっとひどく情けない顔をしているに違いない。
 でもこうして情けない顔をして、ころころと表情を変えていられるのはこの二人きりの時間だけで、その姿を見せるのも、見せられるのもきっとお互いだけだ。
 千世の中の薄暗い感情は、気付かないうちに少しだけその影を潜めていた。

 

柔爪の采配
2020/06/21