二人きりより二人でいたい

2021年6月22日
おはなし

 

 その日は朝からひどく暑い日だった。
 執務室の机にぐったりと突っ伏しながら、力なくうちわで仰ぐ。湯呑に入れていた氷がカランと音を立てて溶けてゆくのが憎い。
 すだれで遮光をし、襖を開け放って空気を通しているものの今日は特別暑くて仕方がなかった。七月に入って暫く経つが、耐えられない暑さというのは今季初だ。胸元を多少緩め、腕を捲くり、机の下では袴を腿まで捲くりあげているものの全く汗が引かない。
 もう日が沈む夕方に差し掛かるというのに一向に気温の下降を感じない今日はもう仕事ができない日だと午前のうちに割り切った。あつい、と呟きながらただ日が落ちてゆくのを今日は待つしか無い。
 ぼうっとそうして過ごしていれば遠くから何か太鼓の音が聞こえる。不思議に思って耳をすませば、微かに笛の音も聞こえた。祭りでも有るのだろうか、とふと千世は考え、あっと思い出す。
 確か今日は夏祭りだった。七月の二週目の金曜日には毎年瀞霊廷で夏祭りが行われている。偶数隊と奇数隊が隔年で担当しており、今年は偶数隊の当番だった。去年は奇数隊の年だったから十三番隊でもいくつか屋台を出していた。
 隊長と副隊長は業務の関係もあるから三席以下が中心となって準備をするのだが、隊によってはよく揉めるし下手すれば流血沙汰になることも有るらしい。幸いにも十三番隊は穏やかで、昔からこの夏祭りを楽しみにしていたものだ。
 笛の音を遠くに聞いていれば、いつの間にか暑さを忘れていたのか多少体温が下がってゆくのが分かる。それとも、もう日が落ち始め外気温が下がってきているのだろうか。
 千世は乱れていた身なりを軽く整え、ぱたぱたとうちわで扇ぐ。夏祭りか、と空に呟いた。あまり気分は乗らないが、行ってみれば気が紛れるかもしれない。
 相変わらずルキアの捜索に関しては進展がないのか、それとも報告が千世まで回ってきていないのかは分からないが何の音沙汰もない。あまりしつこく浮竹に聞く事も出来ず、毎日を浮かない気持ちのまま過ごしていた。
 彼女の件以外の日常生活は、前と同じで何も変わらない。当たり前だが、それがちぐはぐで気持ちが悪い。かといってずっと落ち込んでいる訳にもいかないから普通に毎日を過ごそうとするのだが、ふとした時にこれで良いのだろうかと思う。
 きりがないと分かっている。まだ勤務時間中ではあったが、千世は立ち上がるとそのまま廊下へと出た。少し様子を眺めるだけならば良いだろう。草履を突っ掛け、笛の音がする方へと千世は向かう。
 隊舎を出てしばらくすると人通りが多くなり始め、出店もちらほらと見え始めた。

「あ…」

 金魚すくいの屋台を見つけ、千世は思わず立ち止まった。浅く広い水槽の中で橙色の金魚が自由に泳いでいる様子は眺めていて飽きないものだ。ひらひらと逃げる金魚を、うまく掬っている客の様子を千世は見つめる。
 随分うまく掬うものだ。それを見ていると自分でもうまく出来るような気がしてしまう。実際は一度もまともに掬えたことがないのだが。

「やりたいのか」
「う、うわっ」
「手持ちが無いなら貸すぞ」

 突然現れた浮竹に千世は飛び退く。巾着から取り出した小銭を差し出され、千世は一度断ったが笑顔の圧力に負けて手にとった。
 屋台の主に小銭を渡すと、二人の様子見上げて目を丸くする。他隊といえども上官が連れ立って現れれば一瞬はぎょっとするものだろう。千世はポイを受け取りしゃがむと、浮かんでいる椀を左手に持った。

「隊長、あんまり見ないで下さい」
「違う違う、もう少し網は斜めに持つんだ」
「隊長……」

 金魚に集中しているのか聞いてない。千世は彼の言う通りポイを水面に対して斜に持つ。先程のうまい客は確か僅かな時間で掬っていた。恐らく狙いを定めて短時間で掬い上げることが重要なのだろう。
 とは言ってもそううまくは行かず、三度ほど金魚を持ち上げかけたものの最終的には破れた。取れるまでやればいいと浮竹は言うのだが、そこまで執着はないから断った。

「隊長はやらなくて良かったんですか?」
「俺は見る専門だからな」
「そうでしたか…」

 千世は屋台の並ぶ道を歩きながら、手元の透明な袋に入った一匹の金魚を目線の高さにして見つめる。一回遊べば掬えた掬えないに関わらず一匹を持って帰れると言われたのだ。
 悩んだものの結局その一匹を迎えることにした。確か隊の倉庫に硝子の鉢があったはずだから、執務室で面倒を見ようかと思ったのだ。細い水草と一緒に揺れる金魚を見ていると、早くも愛着が湧いてくる。

「来られてたんですね」
「笛の音が聞こえて、つい出てきてしまったよ」
「私もです」

 隊舎を出る時に一瞬、彼の事が頭を過ぎったのだ。だがまだ勤務時間中な上、人出の多い場所で二人で連れ立って歩くというのはあまり良くないかと思い一人で出た筈だった。
 結局こうして連れ立って歩いていれば隊長羽織が嫌でも目立って回りからは道を空けられるし、頭を下げられる。せめて羽織を脱いでくれれば良いのだが、当の浮竹はあまり気にしていない様子だ。
 視線が集中するとあまり出店を楽しむような気にもなれず、千世は焼きそばをじっと見る浮竹に声をかける。

「隊長、私帰ります」
「そうか…何か予定があるのか?」
「そういう訳では無いのですが、少し人が多いので」

 そうか、と彼は眉を曲げる。このまま楽しむ事が出来るならそれほど嬉しいことは無いのだが、全員が自分たちの顔と立場を知っているような人混みの中そうも行かない。
 暫く浮竹は考えたようにしていたが、何かを思いついたようにぱっと笑う。

「付いて来なさい」
「は、はい…何処に行くんですか?」

 千世の言葉に彼は一つ笑うだけだった。時間が過ぎ、空が暗くなるにつれて人通りが更に増えている。付いてきなさい、と言った割に足の速い浮竹の背を見失わないように歩くのだが、時折距離が開いた。
 周りの様子で彼の居場所は少し離れていても分かるのだが、これ以上離れては見失ってしまいそうだ。

日南田さん」
「え?ああ、阿散井君…お久しぶり」

 突然肩を叩かれ振り向くと、六番隊の阿散井が無愛想な顔で立っていた。副隊長会議で一度顔を合わせているが、最近彼も昇進したばかりでこれといって親しいわけではなかった。わざわざ声を掛けられるなんて珍しい。
 何か用があるのかと思い彼の言葉を待つが、少し睨んだような表情でじっと見下されるだけだ。

「何かあったの?」
「…いや、何も無いすけど」
「ちょっと私急いでて…」
「俺もこの後任務が入ってて」
「そうなんだ…大変だね、一人?」
「朽木隊長の同行っすよ」

 そうなんだ、と千世は頷く。隊長副隊長二名での任務なんて珍しい。相当強力な虚でも出現したのだろうか。これから任務が入っている阿散井の前で、金魚の入った袋をぶら下げているのが少しばかり申し訳ない。

「いいっすね、それ」
「ああ…金魚、執務室で飼おうと思って」
「ルキアも好きっすよ、金魚」

 阿散井の口から出た名前に、千世は顔を曇らせる。確かルキアと阿散井は同郷であり、真央霊術院の同期だった筈だ。その阿散井から彼女の名前を出されると、罪悪感に似たような感情で胃が重くなる。
 もしかして阿散井は彼女が行方不明だということを知っているのだろうか。ルキアの義兄である朽木白哉へは確実に話が通っているとして、副隊長である阿散井に話が伝わっている可能性も十分にある。
 彼の目を見ることが出来ず、千世は目線を落としたまま何も言わずに立ち尽くしていた。

「じゃあ俺時間なんで。呼び止めてすいません」
「…いや、うん。じゃあ」

 去ってゆく彼の背中が、人混みに紛れて消える。もし彼が行方不明の件を知っていたとすれば、手に金魚の入った袋を持って祭りの人混みの中に居る千世を見てどう思ったのだろうか。後輩が行方不明だということを知りながらも祭りを楽しむ姿に呆れ果てただろうか。
 再びざわつきだした胸を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。阿散井の消えていった方角をじっと見つめたまま暫く道の真ん中で呆然としていたが、突然腕を引かれて思わず素っ頓狂な声を上げた。

「た、隊長…!」

 しっかりと握られた様子にまずい、と思わず周りを見回したが、人通りが更に増したせいか幸いにも気にされていないようだ。身体がぐっと内側から引っ張られるような違和感の後、回りの景色が霞む速さで人混みから抜けた。こんな人通りの中で瞬歩をするなど、よっぽどの勇気でなければ出来ない。
 そのまま暫く大通りから離れた十三番隊隊舎近くの路地まで来ると立ち止まり、ようやく浮竹は千世に身体を向けた。

「急に居なくなったから驚いた」
「隊長の足が早すぎたんですよ!」
「そうか?すまんすまん」

 浮竹は笑うと、ふっと見上げた塀の上へ飛び乗り、そのまま稽古場の屋根へと移動した。千世もその後を追って飛び乗る。
 稽古場は天井が高く作られているから、他の建物に比べて屋根の上は景色が良い。彼が先に座る横へ千世も腰を下ろすと、遠くに見える祭りのぼんやりとした灯りに声を漏らした。

「少し遠いが、ここなら二人になれる」
「…そうですね。隊の皆も外に出てしまってるみたいで」

 すっかり空になった隊舎は珍しい。いつもこの時間になれば自主稽古を始める声や、夕飯の為に食堂に集まる賑やかな声が隊舎に響くものだ。
 遠くの灯りを千世が眺めていると、ふと彼の手が伸びて頬に触れられた。顔を彼の方へ向けると、指がするりと頬を撫でる。くすぐったく笑うと、彼の顔が近づいて唇同士が軽く触れ合った。

「今日はいい夜だな」
「そうですね、風も出てきて涼しくなって」
「それに満月だよ。珍しく雲も少ないな」

 千世は口元を緩ませて頷く。阿散井との会話はそっと記憶の隅に追いやり、今はこの静かな時間を過ごしたかった。僅かに残る胸騒ぎのような焦燥感に、今ばかりは気づかないふりをしていたかった。

 

二人きりより二人でいたい
2020/07/03