不足不在の加速度

おはなし

 

「付き合い始めたの!?」
「乱菊さん、しーっ、声が大きすぎ」
「ちょっと隊長聞きました!?一月前って!何でもっと早く言ってくれなかったのよお」

 松本は口を尖らせて拗ねたように言う。時間を見て伝えようとは思っていたのだが、中々機会が無かった。
 先日の入院の際どうやら見舞いに来てくれていたと聞いていたから、ようやく松本との時間が合った今日、その礼も兼ねて菓子折りを片手に十番隊舎へ訪れていたのだ。
 回復をしてから気付けば一度も顔を合わせていなかったから、会うなり心配したのよ、と軽く怒られた。一寸した油断で五日も昏睡状態になったのだから、説教はご尤もだ。

「ちょっと事実確認に時間が…」
「何よ事実確認って…まあとにかく、良かったわね」
「うん、ありがとう」

 交際を初めて他人に伝えた。二人の関係は基本的には内密にしなくてはならないから、松本と日番谷へ伝えることは事前に浮竹に相談をしている。
 松本はまだ良いとして日番谷の名前には驚いて戸惑っていたものの、以前から相談をしていたなら仕方がないと渋々折れた。

「日番谷隊長も、色々ありがとうございました」
「俺は何もしてねえし、じいさんの恋愛なんてどうでもいい」
「ちょっと!じいさんじゃないですから!訂正して下さい!」
「うるせえ…」

 千世の憤慨した様子に日番谷は面倒くさそうにゆっくりと立ち上がる。そのまま出入り口の方まで進み、どうやら何処かへ出掛けるらしい。

「あれ、日番谷隊長どこ行くんですか?」
「便所」
「あ、そうなんですか?行ってらっしゃーい」

 彼が姿を消すことがどこか嬉しそうな松本の様子に、嫌な予感を感じる。
 案の定松本はにやりと笑いながら、机に乗り出した。その豊かな胸元に思わず目を奪われたが、慌てて逸らす。

「で、どこまで行ったのよ」
「どこまで!?」
「だから!キスはもうとっくだとして、セッ」
「ちょっと待って、待って!まだ一ヶ月だから、そういうのは!」

 日番谷が消えた途端まるで噛み付くような松本の様子に、千世は顔を真っ赤にして答える。千世の答えに松本は目を大きく見開いて驚くと、また一つ千世の方へと乗り出した。
 机に乗った千世の手をつんつんと突きながらひどく楽しげな様子に、千世は口をへの字に曲げた。

「ウソ、まだキスもしてないの?」
「手は…繋いだんだけど…」
千世、お子様同士じゃないんだから。…浮竹隊長も遠慮してるのかしら」

 そんな事は分かっている。浮竹がどう思っているのかは分からないが、自分にとって付き合うという行為は今の所まるで子供同士のそれだ。手を握られただけで胸が躍り、抱きしめられた日は良く眠れなかった。
 あまりにも片思いの時間が長すぎたのかもしれない。恋人同士という事実を何度理解しようとしても、もしかしたら夢なのではないかと頭の中ではまだ思っているのかもしれない。
 ある日目覚めて夢でした、と言われても千世はそれなりに納得しそうなものだ。

千世は満足なの?」
「満足…っていうより、まだ実感がそこまで…」
「長かったもんねえ片思い。仕方ないかもしれないわね」

 松本に初めて会ったのは、千世が護廷十三隊に入隊して間もなくだった。当時松本はもう既に三席に就いており、副官への昇進は時間の問題だと言われていた。
 一方千世が自身の実力の無さを痛感する毎日を過ごしていたある日、現世に大量に発生した虚の全隊合同殲滅任務の募集があり参加をした。その際に編成された十の小隊のうち、千世の組まれた隊の小隊長が松本だった。
 知人もおらず、自身の実力にも多少の不安があった千世に当時から気さくに話しかけてくれた。初日から距離の近い態度に驚いたものだが、お陰で早いうちに緊張が解れたのを覚えている。
 実際の戦闘では何度か窮地を救われ、また僅かながらその逆もあった。たった数日の任務だったが、性格がうまく合致したのか親しく呼び合うようになるまでそう時間はかからなかった。
 年は多少松本の方が上だったが、それを意識したことはあまりない。合同任務終了後も時折食事をしたり休日に出掛けるような交流が続き、そのうち松本が先に副官となり、千世も少しの時間を置いてそれを追った。
 今はこうしてお互い副官証を付けるようになったが、千世にとっては変わらず気が許せる友人だった。気を許せる相手としては、彼女が唯一の相手かもしれない。

「でも感慨深いわね、最初は憧れてるだけかと思ってたのに」
「それは、乱菊さんが居てくれたから」
「そんな事ないと思うけど…でも、一人で片想い続けるのは苦しいものよね」

 確かに初めの感情は純粋な憧れだけだった。だからはっきりと浮竹に片思いをしているという話を松本にした覚えはない。
 憧れから徐々に形を変えてゆくのを、松本は自然と受け入れてくれていたのだろう。

千世はもう少し色気出さないとねえ」
「…そういうのは苦手で…」
「でもそうでもしないと、浮竹隊長ってその気にならなそう…って思ったけど、あの様子でその気になる姿が全く想像つかないわ」
「で、でしょう!?そういうの、隊長から全然感じないから…」
「でもああいう人が案外スケベだったりするのよ!」

 松本の言葉に千世はただ顔を真赤にして俯いた。まるで立板に水で、松本の口から言葉が止まることがない。

「でも、浮竹隊長はそういうのを千世に求めてる訳じゃ無さそうだし」
「ど…どうなんだろう…」
「だって分かるわよ、千世を選んだ気持ち」

 そう言って松本は笑う。その言葉が意味する事が千世は良く分からなかったが、何となく褒められているような気がして少し照れくさくなった。
 松本が言うような一般的な男女の関係はまだ暫く起こりそうにない。恋人になれただけでも千世の中では奇跡だと言うのに、その先を想像できるほど千世の頭は柔軟ではなかった。
 順調に時が進めばいずれはそういう事もあり得るのだろうが、今の千世にはそこまでを求めることがおこがましいくらいの充足感があった。
 でもいつか、それ以上を望みたくなる時が来るのだろうか。人の欲というのは際限がないもので、何かを得ればまたその先を手に入れたくなる事を知っている。

「じゃあ、そろそろ休憩終わるから帰るね」
「そうね、あたしも報告書の処理早くしないと隊長に怒られちゃう」
「この時期はお互い大変だよね、私も帰ったら目安箱の確認しないと」
「目安箱なんてちゃんと見てるの?十三番隊は豆ね」

 思ったよりも長居になってしまった。十番隊舎からの帰り道、千世は松本との会話を思い出して赤面する。
 彼女の言葉で、変に意識をするようになってしまった。千世は執務室の襖を開きながら、一つ息を吐く。壁の時計を見れば、まだあと五分は休憩時間内だ。飲みかけの湯呑から冷めきった茶を口に含み、長椅子にどっかりと腰を下ろす。
 片思いをしている時の方が楽だったのかもしれない。片思いの時は自分の気持で相当手一杯だったが、今はそこへ彼の気持ちが重なる。勝手に想像をして悩んでいた時とは違い、確実に自分へと向いた想いの分自由に逃げることが出来なくなる。
 少し考え事をしていれば五分はあっという間に過ぎて、千世は渋々立ち上がる。今日は一段と長い午後になりそうだ。

 

不足不在の加速度
2020/06/03