変わらなかった。驚くほど、何も変わっていなかった。
敢えて千世は意識をしないようにしていたが、思わず手元の裏紙をぐしゃぐしゃと丸めて遠くへ投げる。一瞬でも意識が向いてしまうと、手元資料の文字が全く頭に入らなくなるのだ。
千世の認識では、浮竹への告白は受け入れられた。もともとは断られると覚悟をして、想いの清算という意味合いが強い告白だったのだがまさか受け入れられてしまったのだ。
暫くは状況が飲み込めていなかったのかぼんやりとその事実を認識していただけだったが、あの白藤棚の丘から帰り自室で着物を畳んでいる時にその事態を改めて認識して一人畳の上で突っ伏した。
まさか受け入れられるとは思っていなかったのだ。彼から向けられていた好意と勘違いしてしまうような出来事の数々は、全て親が子供に与えるようなそれだと千世は思っていた。
翌日隊舎で顔を合わせる時の緊張は言葉に言い表せないほどだったが、相変わらず彼の様子は以前と同じで、例えば業務中隊首執務室で二人きりになった時に少しでもそれは変わるのかと思えば、何も変わらずいつも通りだった。
あの日の告白が無かったことのような様子に千世は混乱したものだ。
彼からそうして何事もないような態度をされれば、千世もそれに合わせる他無く、今まで通り変わらない日々を過ごしている。あれから業務外で顔を合わせるような機会が無かったからなのかもしれない。
意識をしすぎてしまっているという自覚はある。そしてお互いの気持が通じ合っているはずだというのに、何も起こらない現状に焦りを感じている。しかし、では一体何を望んでいるのかというのは、良く分からない。
うーん、と一人千世は腕を組み唸った。一通り考えを巡らせて気が済んだのか、多少先程に比べて冷静になっている。
「千世、今平気か」
「えっ!?あっ、はい!」
部屋の外から聞こえた声に、千世はびくっと飛び跳ねた。考えていた相手の声が急に聞こえるというのは心臓に悪い。思わず立ち上がると、襖が開いて浮竹が現れた。
「昨日貰ったこの稟議書なんだが、起案者の署名が無いんだ」
「あぁ…申し訳有りません、預かります。確認して明日までに再度提出します」
「忙しいのに悪いな、頼んだよ」
浮竹は千世の机に書類の入った封筒を置くと、興味深そうにあたりを少し見回した。
「前より書類が増えてないか」
「ああ…はい。現世からの報告書が溜まる時期に入ってしまって」
「ああそうか…悪いな、忙しい中…」
気の毒そうな顔に、千世は苦笑いをする。二週間に一度、現世から報告書が回って来るのだが、その確認が伸びるとこうして悲惨な状態になる。さらに月末まで重なれば、三日はこの部屋で寝泊まりをする事になるだろう。
集中してこなせれば良いものの、彼の事が頭を過ぎってぼんやりる事が増えたり、こういう時に限って隊舎の備品を壊したとか、老朽化で床が抜けたとかの報告が回ってくるのだ。
ここまで雑用が重なると、自分は一体何の職に就いているのかと思う時があるが、平時はどこの隊もこのようなものだから仕方ない。
「そうだ、一休みしないか。ここ暫く籠もりきりで気も塞ぐだろう」
「一休み?」
苛々とする事が多かったのは、それが理由の一つだったのかもしれない。色々な事が同時に起こりすぎて原因の特定をする気が全く起こらなかった。浮竹は待ってなさい、と千世に告げて足早に部屋を後にする。
また何処かで貰った菓子でも持ってきてくれるのだろうか。千世はそわそわと書類の位置をずらしたり、重ね直したりをする。
気付けばもう外も徐々に陽が落ちてきている。ぼんやり木々の揺れる様子を眺めていれば、嬉しそうな様子の浮竹が再び襖を開いて現れた。
「千世、見てくれ」
「それは…お饅頭ですか」
「阿近君から貰ったんだ」
「十二番隊から…どうしてですか?」
「千世の件があっただろう、あの虚を涅隊長がいたく気に入ったようでね。その礼にと貰った」
なるほど、と千世は机に置かれた箱詰めの饅頭を見下ろす。どちらかと言えば礼をするのはこちらの方だというのに、やはり十二番隊というのは良く分からない。
千世は席を離れ、戸棚から急須と湯呑を二つ出す。最近現世の品でポットというものを手に入れた。便利なもので、沸かした湯を淹れるとそれをほぼ同じ温度で保ってくれる。
茶こしに茶葉を振り入れ、ポットから湯を注いだ。少し置いた後、湯呑に注ぎ淹れる。
「ありがとう」
庭を正面に縁側へ腰をかける浮竹の傍に、湯呑を置く。饅頭の箱を挟んで千世も同じように腰を掛けた。彼は饅頭を手にぷらぷらと足を揺らしている。
もう夏が近い。こうして熱い茶を縁側で飲むのももうしばらくすれば厳しくなりそうだ。隊の台所へ毎朝麦茶を作りに行く毎日が始まる。
二人で饅頭を咀嚼しながら、徐々に赤くなってゆく空を見上げる。外の空気を吸いながら過ごすと頭に新鮮な空気がよく回るのか、目が覚めるようだった。
千世はあの、と呟く。彼の視線が、千世の横顔に向くのが分かった。
「私と隊長は…その…お付き合いを、始めたのでしょうか」
ぼそぼそと喋り終えると、勝手に気まずくなり手元の茶を一気に飲み干した。
「不安にさせてしまったか」
「い、いえ、違うんです!」
彼を見ると、心配そうな顔をしている。そんなつもりは無かった。こんな心配そうな顔をされてしまうのならば聞かなければ良かったと千世は焦る。
ただ、お互いの認識が合っているかを確かめたくなっただけなのだ。部屋を出る前に忘れ物がないか確認をするようなものだ。決して疑っていた訳ではない。
「もっと何かをしてあげたいという気持ちはあったんだが…どうしようか考えていたら日が経ってしまったよ」
浮竹はそう言って困ったように頭を掻いた。
「千世を大切に思う気持ちは同じだから、恋人になったからこう…何か急に変わるという事が無いんだ」
「…それは、私も同じです。今も以前も、お慕いする気持ちは変わりません」
彼が言わんとすることは分かった。恋人同士になるというのはそこに立会人が居た訳でもなく、何か書面を交わした訳でもない。いわば口約束の最たるもので、何かが劇的に変わることはない。
その中で何かそれらしい事をするというのは二人の関係からしても難しい。手をつないで歩ける訳は無いし、公にする事もできない。お互いに想い合っている事を時折そうして伝えながら、時を過ごしてゆく事になるのだろう。
千世は少しだけ気恥ずかしくなって、饅頭を口に運んだまま固まった。
暫く無言の時間が過ぎていたが、急にそうだ、と浮竹は千世との間にあった饅頭の箱をすっと後ろに退ける。それから膝をぽんぽんと叩いて千世を見る。
「千世、おいで」
「え…えっ!?」
慌てて千世は残りのひとかけらを口に含み飲み込む。此処においでという事のようだが、千世は思わず辺りをきょろきょろと見回し確かめる。その様子に浮竹は笑うと、千世はそわそわと立ち上がった。
失礼します、と千世はその膝にまたがって腰を下ろした。衣服越しではあるもののここまで密着して触れ合うのは初めてで、千世は息を止め身体を固くする。
暫くお互いに無言でいたが、耳の近くで千世、と不思議そうな声で名前を呼ばれた。思わずびくりと身体が飛び跳ねる。
「膝枕という意味だったんだが…」
「あっ、えっ…!?そういう…!す、すみません…!」
「いや、これも良いんじゃないか?」
何を勘違いしてるのだと、自分自身を引っ叩きたい気持ちだった。あまりの恥ずかしさに目眩がする。今すぐ逃げ出したいと言うのに、緊張のせいでなかなか足に力が入らない。
いよいよ立ち上がろうとした千世の身体に、後ろから彼の手が回りそのまま捕まえられるようにされて抱きしめられた。すぐ横に彼の顔が近づき、息遣いすら聞こえる。背中にぴったりとついた体温と、頬に僅かに触れる長い髪がくすぐったい。きっと五月蝿いほどに鳴り続ける心音は彼に聞こえてしまっているだろう。
そのうち千世は固くしていた身体の力を抜く。包み込まれるような優しい感触が心地よく、少し気を抜いたら眠ってしまいそうなくらいに温かかった。
「これで少しは伝わったかな」
「…十分です」
徐々に暗くなってゆく空がまるで二人を隠してゆくようだと、稽古場の声を遠くに聞きながら思っていた。
ルビを振って恋を読む
2020/05/28