すべて熱は薄氷の下

2021年6月22日
おはなし

 

 覆水盆に返らずとはよく言ったもので、浮竹は近頃よくその言葉が頭に浮かんでいた。
 昨日は午後から気分が優れず、熱が上がり咳もよく出た為早退をした。それから薬を飲んで一晩中眠っていたお陰か今朝方には落ち着き、今日一日は寝込むほどではなかったのだがぶり返すのも困るからと大事を取って休養することにした。
 浮竹は横に重ねていた書物を手に取る。先程隊にある書庫から清音に適当に選んで持ってきてもらったものだ。表題を見ると物語や学術書、随筆などを均等に選んでくれたようで、暫くは飽きる事はなさそうだ。
 だが、しかし困ったことに先程から読んでいるはずの手元の内容が一向に頭に入ってこない。気付けば千世の事ばかりが頭に浮かび、振り払うように目を瞬いた。隊舎での執務室では特に意識せず業務に集中できるのだが、一人になる時が最も顕著で彼女の事がふとした拍子に浮かび度々他の思考が中断される。
 恋人になるまではここまででは無かった筈だ。彼女への気持ちが自覚しないまま日に日に増しているように思える。それは最早草花の成長のようなものだから自分の意思でどうする事も出来ない。
 ひっくり返った盆からこぼれた水は、もう戻ることはない。言い得て妙とはこの事で、まさに自分の中の感情をよく表した諺だ。いつの間にか自分の中の盆には並々と水が注がれ、それが表面張力を保っていたのだろう。何かのきっかけで弾かれ、水はもう二度とその器へとは戻らない。
 日々のらりくらりとその感情を交わしながら、毎日を変わらないようにして過ごしている。いつかそれにも限界が来るのだろうが、今はそうして自分を騙すしか無い。

「浮竹隊長」

 外から呼ぶ声がする。壁の時計を見ると間もなく昼飯時だ。毎度のことながらこうして隊の者たちが世話を焼いて食事の用意をしてくれるというのは有り難い事だ。手元の本を脇に避けふと見れば、襖の向こうから現れたのは千世だった。思わずぽかんとその姿を眺める。
 声で気づかない筈は無かった。声音を変えて、驚く様子を見たかったのだろうか。目を丸くしている浮竹の様子を千世は少し笑って見ている。

「どうしたんだ」
「昼食をお届けに参りました」
「珍しいな…ありがとう」

 この所千世は事務処理も多忙を極めている上、先日の現世での討伐任務以来稽古に執心だ。だから今日現れる事はないだろうと見込んでいたのだが。

「顔色は良さそうですね」
「そうなんだ。熱も咳も朝には治まったよ」
「ではこちらで召し上がりますか?」

 浮竹が頷くと、千世は御膳を寝床から少し離れた畳の上へと運び、横に退けていた座布団を用意する。ありがとう、と千世の顔を見て伝えれば少し照れたように笑って軽く頭を下げた。
 布団から立ち上がり少しばかり伸びをする。やはり昨日に比べて身体が軽かった。浮竹はそのまま千世が用意をしてくれた座布団へすとんと腰を下ろす。まだ湯気を立てている粥は溶き卵が混ざっており、上には小さめの梅干しが一つ乗っていた。
 まさに病人食というような薄味で、味噌汁も口に含んだが同じく舌に優しい味だった。

「醤油が欲しくなるな…」
「だめですよ、濃い味は身体に良くないですから」
「ああ、分かってはいるんだ」

 千世は笑う。この笑顔を見る度に、彼女の想いを受け入れた事に間違いは無かったのだと思う。
 あの丘にある白藤の棚をこの皐月の頃に見せたいと浮竹は度々思っていた。時期が良かったのか特に今年は見事で、千世と二人で眺めることが出来たのは幸甚だった。
 まさかそこで千世から想いを伝えられる事になるとは思っても居なかったが、どこか予感はしていたのかもしれない。多少動揺はしたものの、大きな衝撃というものはなかった。
 千世の申し出を受け入れることが果たして彼女にとっての幸せなのか、結局浮竹だけでは答えの出ない事だった。しかし彼女の想いに応えることが、今目の前に見えている彼女の幸せである他なく、それは浮竹にとっても同じだった。
 行方の見えない先の幸福を願い負った傷は、きっとお互い永遠に残る事になる。だからその答えを口にする時、驚くことにあまり迷いはなかった。今までの迷い路がまるでうそのようだった。

「時間は平気なのか?」
「実は今日、半休に致しました」
「そうなのか、珍しいな。何か予定が?」
「そうですね…予定というか、何というか…」

 通りで時間に余裕のある様子だった。
 千世のもごもごとした言葉に、浮竹は最後の一口の味噌汁を飲みながら目線を向けた。

「…今日の午後は、隊長の身の回りのお世話をと、思いまして…ご迷惑でなければですが」

 顔をみるみる紅潮させながら、様子を窺うようにちらちらと目線を向けられる。思わず動揺して、手元が狂い残りわずかとなった味噌汁の入った椀を手から取り落した。膝に多少掛かったものの、中身が少なかったお陰で大した事は無い。
 平気だと言っているのに、千世は近くへ寄り、焦ったように懐から出した手ぬぐいで着物を拭った。鼻をくすぐりそうな距離にある彼女の柔らかな髪から、ふわりと花のような良い香りがして意図せず息を潜める。

「ありがとう。平気だよ」
「火傷はされてないですか?」
「残りも少なかったから平気だ。それより手ぬぐい、汚してしまったな」

 いえ、と千世が顔を上げると、予想はしていたが彼女の顔が目前となった。睫毛の数を数えられそうなほど、その目線の僅かな揺れさえ分かるほどの距離だった。近い、と思ったが動けなかった。きっと千世もその距離に身体を固くしているというのに、そこから離れようとしない。離れたくないのか、離れることが出来ないのか、それは聞くまでもないのかもしれない。
 鼻先が触れてしまいそうな距離でお互いに息を潜め、目線だけが絡む。彼女の期待している気持ちが手に取るように分かる。それは浮竹自身も同じであり、年甲斐もなく痛いくらいに鳴る心臓が五月蝿い。
 どれくらいそうして居たのかは分からないが、千世が切なそうに目を細めた後ぱっとまるで夢から覚めたような様子で離れた。すみません、と振り絞るような声が聞こえて浮竹はその横顔を見ながら頭を抱えたくなった。
 何を渋っていたというのだろうか。あの距離は何も疑う必要もないものだった。だというのに躊躇したのは、彼女に触れれば取り返しのつかない事になると恐怖したのかもしれない。彼女の想いに応えた時点で既に取り返しのつかない事になっているというのに、今更何を身構えたのかと呆れた。

千世

 名前を呼ぶと、千世がはっとした表情を向ける。彼女が膝の上で握りしめていた手を取ると、そのまま自分の元へと引き寄せた。急なことで千世は態勢を崩し、浮竹の上へ倒れ込むようにして畳の上へ二人で転がる。
 その拍子に御膳は蹴飛ばされひっくり返り、空の茶碗と飲みかけだった湯呑が畳の上に投げ出された。ぬるい茶が水たまりを作ったが、今はそんな事取るに足らない事だ。
 目を丸くした千世は、浮竹の上で身体を固くしている。浮竹が息をする度に、千世も同じように上下する。密接した身体から相手の体温が伝わり、熱い息が頬に掛かる。
 まだ心臓は五月蝿く鳴っているが、それは彼女も同じだった。頬を染め、その先への期待に互いに息を上がらせている。
 どうしようもなく満たされた気分だった。千世と触れていると、途方の無い安心感が湧き出す。彼女の存在に今間違いなく触れているという事実が、何よりも浮竹にとっての平穏のように思えた。

「今誰かが来たら、どうしようか」
「…そ、その時は…その時です」

 そう言って千世はぎゅっと口を結んだ。彼女の頭の後ろにそっと手を添え、優しく引き寄せる。ぎゅっと結んだ口元は次第に緩み、柔らかく触れ合った。

「…隊長、今日はさぼりですよ」
「いつも真面目にしてるんだ、たまには良いんじゃないか」

 確かにこの様子は療養から最も遠い。二人で笑い合うと、また引き合うように自然と唇は重なった。
 まるでこの幸せがまるで永遠に続くかのように錯覚する。頭の隅でそれを笑う自分を今だけは黙殺しながら、まどろみのような幸福に身を任せた。
 二人がひっくり返したぬるい茶は、畳にじわりと染み込んでいた。

 

すべて熱は薄氷の下
2020/06/06