筆致しどけなく

おはなし

 

 ここ数日浮竹は体調が悪く、療養のため一週間ほど非番となっていた。
 しばらく調子が良さそうに見えていたから急な体調の悪化に心配をしていたものの、隣に座る清音は「いつものことだから」と特に深くは考えていない様子だ。

「そんなに心配なら雨乾堂に顔出してみたら?多分隊長、もうそろそろ起きる頃だから」
「そんな事まで知ってるの…すごいね」
「まあね!隊長のことなら何でも聞いて」

 具合が悪いときの生活周期まで把握しているとは、恐ろしい。もうそろそろ定時を迎えるから、その後清音の言う通り雨乾堂を覗くことに決めた。このままぼんやりとした心配を続けるより、姿を確認した方がよっぽど精神衛生上良いだろう。
 今までも度々浮竹は体調を崩しては雨乾堂に籠もっていたが、大体は二、三日もすれば復帰をしていた。今回はいつもよりも多少期間が長いというのもあり、千世は不安にそわそわとしているのだ。十三番隊での経験が千世よりも長い清音が大丈夫だと言うのだから、大事では無いのは分かっているのだが。
 今日は清音の助けを借りたお陰で報告書の処理がだいぶ早く終えられた。定時で業務を終えられるのは久方ぶりになる。彼女から判が押された報告書の束を受け取り、机の上へと重ねる。週に一度ある現世からの定期報告書が最も時間を取る。量の割に大した内容ではないのだから、月に二度程度で良いと言うのに。
 また明日確認する分の書類をパラパラと眺めていれば間もなく定時の鐘がなり、同時に清音は椅子から立ち上がった。

「今日はありがとう、本当に助かった」
「いいのいいの。今日は手、空いてたし…そうだ千世さん、これから雨乾堂寄るの?」
「そうだね、隊長が少し心配だから…顔だけ見て来ようかと思って」
「多分明日には復帰すると思うよ、今日ご飯全部食べてるみたいだから」
「すごい、そんな情報まで」
「アハハ、すごいでしょ」

 そう言って清音はケラケラ笑う。
 帰る姿を見送りながら、千世は無意識に死覇装の襟を正す。何度か食事や茶を運んだことはあったが、こうしてお見舞いとして雨乾堂を訪れるのは初めてだ。隊舎で会うというのとは少しだけ違う。そうしてそわそわとしながら、千世は執務室から出た。
 十三番隊舎からほど近いところにそこはある。水辺にひっそりと佇む雨乾堂は、隊首室とはまた別で浮竹が療養や仮眠の為に籠もる場所となっていた。
 以前此処に来たのはまだ五席の頃だ。彼の療養中は席官の中で食事や薬などの当番を回している。浮竹と会話ができる当番は専ら人気なもので、任務などで当番が抜けた際は希望者でくじ引きになるほどだった。
 千世が当番になったのは任務の関係もあって二度ほどだったが、そのどちらでも彼は気さくに話してくれたものだ。当番が人気である理由というのは十分わかる。

「隊長、日南田です」

 彼の休む部屋の前には、済んだ食器が綺麗に重ねられている。夕飯はもう既に終わっているらしい。
 声をかけても返事は来ず、かといって咳が聞こえるわけでもない。眠ってしまっているのか、それとも万が一息の根が止まっているという可能性だって無きにしもあらずだ。一瞬良からぬ想像をした千世は青ざめて、慌てて障子を開けた。
 しかしそれは杞憂で、しっかりと布団を足の先まで掛けて眠る浮竹の姿が目に入る。すうすうと静かに寝息を立てているところから見ると、大分体調は落ち着いているのだろう。
 このまま帰ろうかともう一度障子に手をかけたが、少しだけ悩んだ後にその手を離した。静かに擦るように、彼の方へと近づく。眠っている姿というのは、あまり見れるものではない。誰かに見られているわけでもないし、折角だからと千世は僅かに罪悪感を感じながらも彼の横に腰を下ろした。

「隊長」

 聞こえないくらいの声で小さく呼ぶと、湧き出るような充足感が胸に広がる。二人以外誰も居ない場所で彼を呼ぶ事が、千世の中の僅かな独占欲のようなものを満たすのだろう。
 知り合いも友人も多く、部下からは慕われ信頼も厚い。彼に恋をする時に独占欲と嫉妬なんてものは一番不要な感情で、そんなものを持ち合わせていたらとても心が持たない。
 少しはそれらを押さえつける事が出来たが、しかしその感情を全てを捨てきれる訳もなく、二人きりになるとふつふつと湧き出てくるのだ。千世しか知らない彼の表情を知る度にそれは大きくなる。

千世か」

 ぼうっとしていると、何の前触れもなく彼が目を開けた。ゆっくりと寝返りをして千世へと向い目とじっと視線が合う。名前を呼ばれ思わず背筋を伸ばし、緩んでいた表情を固く戻した。

「す、すみません、お見舞いにと参りまして…」
「ありがとう。就業後にわざわざ、すまないな」

 一つ大きく伸びをすると、よく寝たと息を吐いた。

「お加減はどうですか」
「ああ、今朝から咳も落ち着いて熱も下がってね。食欲も出てきた」
「それは良かったです」
「明日にはまた隊に戻るよ」

 清音の言うとおりだ、と千世は感心した。浮竹は身体を起こすと、また一つ伸びをする。着衣の乱れた胸元に自然と目が行ったが、慌てて反らした。
 しかしもともと様子を見に来る程度の予定であったから、何か見舞い品を持ってきたわけでも、特別な話題があるわけでもない。正座をしたま部屋を見回したり、彼の様子をちらちらと眺めて。枕元の湯呑が目に入り、あ、と心のなかで声を上げた。この前京楽から貰ったと言っていた青磁色の夫婦湯呑だ。千世はその片方を浮竹から譲られている。
 使うと言ったものの茶渋で汚れてしまうのが勿体なくて、結局戸棚にしまったままだ。

「お茶でもお入れしましょうか」
「ああ、頼んでもいいか。土瓶が隣の部屋にあるんだ」

 隣室への襖を開くと火鉢の上に土瓶が乗っており、白い湯気をその注ぎ口から吹き出していた。近くに置かれた急須から古い茶葉を取り出し、さっと洗い場で流す。新しい茶葉を入れ、土瓶の湯を注ぎ込んだ。
 途端に香る爽やかな良い匂いが鼻をくすぐる。千世は特に茶の入れ方についてはあまりこだわりがないものだから、あまり良くないとは思うもののつい早く色が出るように少し急須を揺らしながら彼の待つ部屋へと戻った。

「悪いな、茶なんて淹れさせて」
「大したことじゃないですよ。湯呑お借りします」
「ありがとう、助かるよ」

 枕元の湯呑を手に取り、急須の中身を注ぐ。手渡せば嬉しそうに目を細めた。
 彼の近くというのは、緊張と安穏が同時に訪れる不思議な場所だといつも思う。ここはどこより穏やかで一つも風が吹かないというのに、視線が向くと途端に身体はぎこちなくなる。自分の一挙一投足が一体彼の目にどう映っているのかと、そればかりに意識が向いてしまうのだ。
 副官となってからは浮竹の横に居ることが多くなったが、それでもやはり慣れない。きっとどれほどの時を過ごしても、この感情からは抜けられないのだろう。

「でも珍しいな、千世が見舞いだなんて。清音と仙太郎は毎日のように来るのに」
「それは、…すみません」
「いや、別に謝らせる為に言ったんじゃないさ。ただ、珍しいと思ったんだ」

 他意は無いのは勿論分かっていたが、少しばかり胸が痛い。出来ることならば毎日のようにこうして見舞って、甲斐甲斐しく世話をして傍にいることが出来れば幸甚の至りだ。だが彼の体調のことを思えばそんな迷惑になるようなことを出来るはずも無いし、まず傍にいることが出来るような立場でもない。
 心から浮竹を敬愛している清音と小椿とは違って、千世には多少なりともやましい感情がある事を自覚している。だから中々足が向かなかった。

千世が来てくれるのは嬉しいんだ」
「あ、えっ、す…すみません…」
「はは、何で謝るんだ。素直に受け取ってくれよ」
「本当は、いつもお見舞いに参りたいのですが…」
「そうかなのか?俺としてはいつも来てくれて構わないぞ」

 浮竹はにこにこと嬉しそうな表情を千世へ向ける。
 嬉しいだなんて言われれば、また勘違いを重ねてしまいそうになる。先日の夫婦湯呑の件もそうだ。片方を譲られた事を、どうしても都合の良いようにしか受け取れなかった。いくら意識をしても、勘違いが重なりそうになる。今だってそうだ。
 彼の言葉に何と答えればいいか千世は分からず、手持ち無沙汰に空になっていた湯呑に急須の茶を注いだ。
 少しばかり時間が経っているというのに、まだ土瓶から移したばかりのように熱い茶が注がれる。どうやらこの急須は温度が下がりにくいように出来ているらしい。技術開発局にでも頼んで手に入れたものなのだろうか。

「そろそろ帰ります」
「まだ来たばかりだろう。もう少しゆっくりしたらどうだ」
「隊長のお身体にも障りますし…」
「そうだ、四番隊から貰った生八ツ橋があるんだ。食べていかないか」

 ただの都合の良い解釈かもしれないが、まるで帰ってほしくないとでも言うような様子に千世はぎくりとする。しかしこれ以上残る理由が千世には無い。生八つ橋は少し魅力的だが、まだ本調子とも言えないだろう彼の身体を思えば長居するわけにはいかない。

「あまり隊長にお気を遣わせたくないんです」
「気なんて遣ってないさ」
「いいえ、きっと無意識的に使っているものですよ。もし明日隊長が復帰出来なかったら、清音さんに私のせいだって怒られそうですから」

 千世が軽く笑って立ち上がりかけた時、手を掴まれ思わず固まった。咄嗟に見た彼の表情はいつになく真剣で、そこにいつもの優しい笑みは無かった。

「頼むよ、もう少しだけ居てくれないか」

 導くように手を引かれ、千世はまたゆっくりと畳の上に腰を下ろす。手はすぐに離れ、何が起こったのかよく分からないまま千世はしばらく呆然とした。その間布団から立ち上がった浮竹はごそごそと戸棚から取り出した漆の箱を千世に開けて見せる。中には確かに生八ツ橋が上品に並べられていた。

「実はさっき一枚食べてしまったんだが、頬が落ちるくらい美味しいぞ」

 千世は一枚手にして、口に運ぶ。もちもちとした甘い生地と、控えめな餡が口の中で広がって美味しい。咀嚼しながら見る浮竹の表情は、またいつも通り優しい笑みをたたえていた。つい今しがたの真剣な表情がまるで嘘だったかのようだ。
 また千世の頭の中はぐっしゃりと散らかされた。千世が副隊長となり初めて訪れた執務室を思い出す。強盗に荒らされたかのように雑然とした書類と書籍の数々に呆然としたものだ。今千世の頭はあの執務室のように散らかってしまっている。
 彼の考えていることが分からない。そんな事は当たり前だというのに、人というのはその当たり前の事でいとも簡単に乱されるものだ。もし人の心の中が覗ける薬でも開発されたならば、どんな手を使ってでも手に入れようとするだろう。
 一言伝えられれば、一言聞くだけでその悩みは全て終結するというのに、その結末に怯えて一歩も踏み出すことが出来ない。

「美味しい」
「そうだろう!残しておいて良かったよ」

 嬉しそうに笑った浮竹に釣られて、千世も思わず微笑む。また少し膨らんだ感情に蓋をしながら、彼の差し出す生八ツ橋をもう一つ口に含めば変わらず甘かった。

 

筆致しどけなく
2020/04/17