泥の下の花の色

おはなし

 

 ここ最近、千世を尋ねてやってくる男が居た。
 知ったのは一週間ほど前だ。その日千世は非番だというのに隊舎に来て何やら執務室に籠もっていた。浮竹が様子を覗いた時には、すり鉢やガラス製の容器やらをいくつか机上に並べてせっせと何やら準備に励んでいた。
 何をしているのかと尋ねると、趣味の傷薬を作るのだという。確かに千世は自作の軟膏をよく持ち歩いていて、それが良く効く事は知っていた。浮竹も実際に何度か借りたことがある。
 真央霊術院の卒業生の成績表というのは、入隊時隊長の手に渡るようになっている。千世の成績表というのはごくごく普通のもので、唯一主席相当であったのが薬学だった。
 とは言え鬼道、白打、斬撃と成績は全て並だった千世は入隊当時、全く埋もれてしまっていた。それが何故席官入りを果たすまでになったかといえば、入隊をしてからの彼女の異常なほどの努力だった。
 いずれ死ぬのではないかとコソコソ噂されるほど毎日の自主稽古への執着が異常であり、運悪く稽古相手に選ばれでもすれば気を失うまで付き合わされた。何かを得られるためならばどのような危険な任務にも志願し、実際に死にかけた事は一度や二度ではない。その異常な様子はやがて隊で噂されるようになり、気付けば浮竹の目につくようになっていた。
 彼女は決して天才ではないという事を彼女自身がよく分かっている。だからこそ何に甘んじること無く、彼女の中にあるであろう目標を恐ろしいほど純粋に見つめていた。今千世が副隊長相応に身につけている斬拳走鬼は、全てあの並々ならぬ努力の賜物であると知っている。

「今日も檜佐木君が来るのか」
「はい、今日で完成になるんです。檜佐木君案外不器用で、結構失敗してしまって」
「意外だな、器用にこなしそうなものなのに」

 また今日も非番だというのに執務室に現れた千世を浮竹は訪ねた。部下の休日を詮索するのは上司として褒めた事ではないと分かってはいるのだが、どうも気になってしまう。本を手に、偶然を装って尋ねるのもこれで何回目になるだろうか。
 千世は話の間も楽しげに準備を続ける。あまり長居をしても邪魔になるだろうと、早々に浮竹は部屋を後にした。
 彼女と同期である九番隊の檜佐木に、どういう訳か傷薬の作り方を教授している。先週から何度か彼が千世の執務室を訪ねているのはそれが理由だった。経緯は聞いていないが、千世の写真が載っていた先日の瀞霊廷通信の記事が怪しい。
 きっと聞けば教えてくれるのだろうが、気が進まない。根堀葉掘り聞かれるのは、相手が誰であれあまりよい気分ではないだろう。お陰で悶々としたまま過ごす日々が続いている。
 隊首室に帰った所で、余計に千世の執務室の様子が気になり案の定筆が進まない。瀞霊廷通信に寄稿している原稿の締切が間もなくというのに、意識が手元へと向きそうにない。
 檜佐木と同期だというのは以前に千世から聞いていた。当時から優秀だった檜佐木と副隊長として肩を並べていることが不思議だと笑っていたのだ。
 特別仲が良かったというわけではないようだったが、六年間同じ空間で過ごしていれば無意識中に信頼というものは芽生えるものだ。浮竹もその中で無二の親友を得た。
 筆を口にくわえながら、腕組みをして宙を睨む。いくら考えた所で筆は進まないが、そういうポーズをする事にきっと意味がある。
 とその時、庭の方から呑気そうな声が聞こえてはっとした。ぽとりと口から筆を落とし、庭の方を覗く。

「何だ、京楽か」
「何だは酷いねえ。近く寄ったからついでに挨拶」

 落とした筆を机上に戻し、浮竹は座布団を一枚縁側に腰掛けた京楽に放る。横に腰を下ろした浮竹は、ふう、と無意識でため息をついた。

「上手くいってる?」
「上手く…?」
千世ちゃんと。ボクこの前助け舟出してあげたでしょ」
「それは…山程言いたいことはあるが、上手く説明できそうにないな…」
「何だか微妙な様子だねえ」

 千世ちゃんは、と聞かれ簡単に檜佐木と二人で執務室で傷薬の調合をしている旨を説明する。何とも言えないにやついたような顔でへえ、と京楽は一つうなずいた。

「気にしてるんだ」
「別に俺は気にしてない。二人は同期生だし、気も合うようだからな。千世は薬学の成績は特別良かったから、檜佐木君もそれを頼ったんだろう」
「急によく喋るじゃない。気にしてるんじゃないの」
「何でそうなるんだ、俺は気にしてないよ。別に覗きもしないし、部屋の前で聞き耳を立てたりなんてしてない」

 浮竹の言葉に、京楽は目を丸くする。

「浮竹、それは嫉妬っていうの」

 京楽の言葉に、浮竹は口をぽかんとさせたまま固まる。

「…いや、違う。檜佐木君に対して悪い感情は無い」
「じゃあ修兵君をどう思ってるのよ」
「どう……か…」

 どうと言われると、何と答えればよいか分からない。口にも出したとおり、檜佐木に対しての悪い感情は何もない。ただ、千世と二人で並んでいる姿を見ると言い知れぬ感情が湧く。
 執務室に居る二人の姿を一度ちらと覗いた時があった。笑い合う様子は実に睦まじく、それは同時に浮竹と千世の間にある永遠に埋めることの出来ない年月に改めて気づくには十分だった。
 それが嫉妬かと言われれば、完全に首を横に振れない。京楽の指摘を否定したのは、半ば自分に言い聞かせている為のように思う。
 若い男女が二人仲睦まじくいる姿というのは、見ていて実に微笑ましいものだ。未来ある者同士がお互いの事を尊く想い合うというのは、何と輝かしい事だろうか。
 だから、千世がそうであれば良いと思うのだ。それは紛れもなく浮竹のエゴであり、そこに千世の意思は何も無い。だというのに、彼女のことを知るほど、そしてそれを愛おしく思うほどにそれは強くなる。

「檜佐木君の方が千世と似合う。年も近いし」
「まぁだ言ってるの、そういう事」
「色々俺も考えたんだ。俺と結ばれても、やはり千世は幸せになれない」
「…ボクそういうの嫌いだよ、勝手に悲劇っぽくなるの」
「そういう訳じゃない。分かるだろ、京楽」

 浮竹の静かな口調に、京楽は開きかけた口を閉じた。

「檜佐木君は千世を気に入っているようなんだ」
「どうして?」
「一緒に居る様子だよ。彼が笑っている所を見たことがあるかい」
「…でもさ、千世ちゃんは浮竹を好きなわけでしょう」
「…それは」
「あんまりにもキミの勝手すぎない」

 腹の奥から、ため息が出る。感情と理性は共存できない。どちらかが強くなれば、その片一方は息を潜める。その均等は難しくて、少しでも指で押されれば簡単に崩れ落ちてしまう。
 浮竹の中でその二つはぐらぐらと揺れた後、最後はたいてい理性が勝り感情はがらがらと崩れ落ちて奥底へと仕舞われる。

「決めるのは浮竹だからね、ボクもこれ以上言わないけど」

 京楽の言う事は至極まともだ。教科書通り、間違いのない事だ。浮竹の中にもその正解の教科書は存在していて、出来ることならばその通りに読み進めたいものだと思っている。
 だが、永い未来を考えた時に彼女の幸せを望めば、その教科書は途端に誤植だらけの不良品となる。

「まあキリもないし、この話は終いにしよう。邪魔したね」
「…いや。折角寄ってくれたのに、茶も出さずすまなかった」
「ただ近く寄ったついでだから。じゃ、失礼」

 笠を深く被り、京楽は一瞬でその姿を消した。
 浮竹は縁側にそのままぱたんと仰向けに転がる。羽織なしでも過ごせる良い季節になった。庭の花水木は間もなくその白い花弁を全て地面に落とそうとしている。間もなく夏がやってくるだろう。
 先日の事だ。夫婦湯呑のことを再び千世から言及された。というのもあれは京楽がけしかけた事だった。あれほど理性が揺らいだことはなく、なるべくどうという事も無いように事実を言葉に載せた。大切な人と思い渡した事を、千世はどう受け取ったのだろうか。
 あれから幾度となく顔を合わせているが、あの時の話をお互いに出すことはない。もしあれ以上の言及を受ければ、きっと浮竹は身動きが取れなくなるだろう。深く触れられるような事をされてしまえば、零か百のどちらかを決めなくてはならない。
 結局のところ、今の状況を心地よく感じてしまっているのだ。千世からの好意を受けながら、繋ぎ止めて一番傍に置いておく事で安心している。それはある種の独占欲なのかもしれない。
 あれほど彼女の幸せをと考えておきながら結局今の今まで突き放すことをせず、むしろ時折良いように感情を顕にしながら、心地よいぬるま湯に浸かり続けている。
 千世が決定的な事をしてくる事は無いというのが分かっているのだ。彼女は決して距離を崩すような事はしない。浮竹が一つ近づいても、その分距離を戻す。
 そのうち彼女がこの駆け引きに飽きて、自分でない他の誰かと幸せを望むようになれば良い。その時の傷心など、彼女のこの先の人生に比べれば取るに足りないことだろう。

「俺は存外卑怯者だな」

 縁側の天井を見つめる。自分で吐き出した卑怯者という言葉が、靄のようになって胸にまとわりついた。少しばかり目を瞑ると、風の音が聞こえる。そうして耳を澄ませていれば、意識が次第に落ちていった。

 目が覚めたのは、空が紅くなり始めた頃だった。慌てて起き上がると、隊長羽織が身体に掛けられている事に気づく。清音か仙太郎でも様子を見に部屋に入ってきたのだろう。行灯の明かりが部屋の隅でぼんやりと揺らいでいる。
 ひとつ伸びをし、羽織に腕を通しながら部屋に戻ると、机上にひとつ紙袋が置かれていた。座椅子に腰を下ろし、紙袋を手に取ると何やら茶筒が入っている。ぽん、と鳴って開いた茶筒からは、茶のような薬のような、青臭く香ばしい匂いが漂う。
 この茶筒の主は千世だ。縁側で寝ている浮竹へ掛け布団代わりに隊長羽織を掛けたのも、千世だったようだ。よくよく見れば机上に手紙が一枚載っている。名前も無く、イカリソウの茶です、と彼女の筆跡で一言だけ綴られていた。
 以前滋養強壮に良いと何処からか知ったようで、千世がわざわざ用意をしてくれたのだ。薬茶であるから時折飲むに留めたが、心なしか体の調子が良いように感じていた。その残りがもう少ないという話をふと先日した記憶がある。催促をした訳では無かったのだが、どうやらまた用意をしてくれたらしい。檜佐木への教授の間にせっせと準備していたのだろう。
 その様子を思い浮かべると、思わずふっと口元が緩む。
 そうどうという事のない場面で彼女の何かに触れた時、言いようのない高揚感に似た気持ちを感じる。微熱を纏うそれは押さえつけた感情を引っ張り出すに十分で、改めて彼女への想いの大きさに気づく。
 だめだな、と一人手紙を片手に呟いた。彼女の幸せが自身の人生の延長線上に見えないとしても、心奥では彼女を手放したくないと思っている。京楽相手に散々女々しく宣ったというのに、本心はそうなのだから呆れた。
 夜の帳が下り始める中、行灯のゆらゆらと揺れる明かりが薄暗い部屋の壁に影を細く映していた。

 

泥の下の花の色
2020/05/12