未来嚥下

2021年6月16日
おはなし

 

 ある晴れた日の午後、千世は八番隊舎へと向かっていた。
 というのも浮竹から書類を預かっており、京楽へと届けるよう頼まれていた。八番隊舎の守衛に軽く頭を下げ、門をくぐる。よく手入れされた庭を抜けて、屋内に入った。
 隊長が学生時代からの親友同士ということもあり、他の隊と比べると十三番隊は八番隊との親交が深い。時折開かれていた食事会や句会と言った催しで浮竹に付いて此処へは来ていたが、こうして仕事として訪れるのは思えば初めてとなる。
 隊舎に入って直ぐ、副官室がある。中から物音が聞こえるからどうやら在室のようで、襖の前で声を掛ける。間もなく襖が開くと、凛とした立ち姿の女性が現れた。

「七緒さん、お邪魔しています」
「ああ、千世さん。お久しぶりです。浮竹隊長のお遣いですか?」
「はい、書類を預かりまして…京楽隊長はどちらにいらっしゃいますか?」
「隊首室ですよ。場所、分かります?」

 少し考えた千世を見て、伊勢はふっと笑った。案内します、と部屋を出て千世を先導する。
 各隊舎で造りは勿論異なるから、この広い建物の中で隊首室を見つけるとなると相当迷うことになりそうだ。廊下を暫く進んだ後、伊勢が立ち止まって奥の部屋を指した。

「あちらです」
「すみません、忙しい中」
「気にしないで下さい。私は戻りますので…帰り道は大丈夫ですか?」
「ありがとうございます、帰りは何となく分かると思います」

 軽く頭を下げて伊勢は踵を返した。
 顔見知りとはいえ、他隊の隊長と会うというのは緊張をするものだ。死覇装の襟を正してから、襖の前で名乗る。中から呑気そうな声で入室を促され、襖を開いた。

「あらどうも、一人でなんて珍しいじゃない」
「ご無沙汰しております」

 珍しく文机に向かっていた京楽は、くるりと千世の方へ身体を向ける。千世は入り口に近い場所へ腰を下ろし、手元の封筒を畳の上で差し出した。

「悪いねえ、お遣いなんて」
「月末で、お忙しいようで…」
「そうなのよ、ボクも同じ。決裁書が溜まっちゃってね」

 京楽は千世から封筒に入った書類を受け取ると、その中身を取り出しさっと確認をする。
 月末は多くの隊長が隊首室に籠もりきりとなる。隊長印が必要となる決済書などの書類関係の確認や、日常的な報告書を月末にまとめて処理する為だ。勿論計画的な隊長も居るが、多くの隊長は月末になるとすっかり姿を現さなくなる。
 浮竹は比較的書類を溜め込む方では無かったが、今月は病気療養の期間が多少長かった為月末にずれ込んでしまったようだ。出来ることならば手伝いたいが、副隊長が出来るのはこうして書類を各方面に届けることくらいだ。
 任務を果たした千世は立ち上がりかけたが、あ、と思い出して口を開く。

「あの、先日浮竹隊長から京楽隊長のお土産の湯呑を頂きまして…」
「湯呑…ああ、益子焼の夫婦湯呑の事」
「はい。その片方を譲って頂いたので、お礼をとずっと思っておりました」

 千世は頭を下げる。浮竹から夫婦湯呑の片方を受け取ってから京楽に会う機会が無かったのだが、ようやく直接礼を伝えることが出来てほっとする。ずっと気になっていたのだ。
 しかしまだ自室の戸棚に大切に閉まったまま、一度も使用していない。茶渋がつく事や、手が滑って万が一割ってしまう事を考えるとどうしても気が引けてしまうのだ。

「ボク、あの湯呑二人で分けてって渡したの。彼、言ってなかった?」
「そうなんですか…?」
「あれ、なんだ聞いてなかったの。二人で使ってね、って浮竹にあげたんだけどねえ」
「そうでしたか…二つは使わないから一つは私に、と頂いた記憶が…」

 千世は視線を横にずらして湯呑を受け取った時の事を思い出す。記憶が正しければ、京楽の言うような言葉は聞いていなかった。
 京楽の言うことが事実だとすれば、何故浮竹はそう言わなかったのだろうか。彼から貰った湯呑であることを千世に伝えておきながら、どうして渡した理由だけを誤魔化したのだろう。
 確かにあの時の浮竹は何かを隠すような物言いだった。どうしてもその様子に納得がいかず、珍しく追求するような真似をしたのを覚えている。それでも彼は頑なに何もないと言い切った。

「でもどうして京楽隊長は、私にも湯呑を下さったのでしょうか」
「やだなあ、それは浮竹に聞いてよ」
「う、浮竹隊長にですか…?」
「そう。ボクが言うんじゃ、野暮じゃない」
「野暮……」

 京楽の言う意味がよく分からないまま、千世は口を閉じた。これ以上聞いた所で教えてくれそうには無い。

「じゃあ、書類は受け取ったから。浮竹に受け取った、って伝えてくれる?」
「はい、承知しました。お時間頂きありがとうございました」
「久しぶりに千世ちゃんとお話できて楽しかったよ」

 千世は頭を下げ部屋を出た。京楽の言っていた言葉が頭の中でぐるぐると回る。やましいことでも何でも無い事を誤魔化す意味は一体何だというのだろうか。
 隊舎に戻ると、その足のまま隊首室へと向かう。書類を渡したことを伝えなくてはならない。

「浮竹隊長、戻りました」
「早かったな。京楽の事だからもっと長くなると思ったよ」
「少しだけお話はしましたが、お忙しかったようで」

 筆を止め、浮竹はくるりと振り返る。京楽から聞いた言葉が頭を過ぎったが、いざ彼を前にするとどのように問い掛ければ良いか分からない。

「京楽隊長が書類をお受け取りになりましたので、ご報告を」
「悪かったな、急に頼んで」
「いいえ、このくらいしかお手伝い出来ないので」
「何言ってるんだ、いつも助けられてるさ」

 報告は終わったからもう此処に残る理由はない。何度か立ち上がろうとは思うのだが、やはり疑問が頭を過ぎって中々身体が動かない。かといってこれ以上畳をじっと見つめて座っているのも不自然だ。
 手元の書類をぱらぱらと捲る浮竹の様子を上目で確かめる。特に千世が居座っている事を気にしてはいないようだ。

「あの…隊長」
「ん?どうした」
「…あぁ……いえ、お呼びしただけです」
「お、そうか?」

 不思議そうな様子の浮竹と目が合う。勝手に気まずくなり、千世は目線を逸した。やはり聞く勇気は依然として湧いてこない。それを聞くというのは、彼が妙な嘘を吐いた事を指摘するという事だ。気が進むはずがない。

「何だ、言いたいことがあるなら遠慮するな」
「ええと…いえ……」

 心配そうな様子の浮竹に、千世はいよいよと覚悟を決める。ここまで来てしまえばきっともう聞いてしまったほうが楽だろう。そう改めて意識した途端、徐々に心拍数が上がってきているのが分かる。

「先日頂いた湯呑、一つは私へと、京楽隊長がお渡しになったと伺いました」
「…その話をしていたのか」

 やれやれ、というように浮竹は眉を曲げて笑う。
 ひどく悩んだが、やはり聞かなければよかったと千世は瞬間的に後悔する。心臓がばくばくと鳴り続けて、これはどうやら何時になっても収まりそうにない。
 どのような言葉がこれから彼の口から返ってくるのか、全く想像がつかず恐ろしいとすら感じる。
 きっと今の彼との関係を何よりも心地よいと千世は思っている。千世は淡い気持ちを抱き、浮竹はそれを知ってか知らずか信頼と分け隔てない愛情で返してくれている。彼を慕う者が多い中、少しだけ近い場所に居る事が僅かな優越感を満たす。
 そうしてこの関係で居ることに満足だというのに、少しばかりその先を夢見てしまう時がある。それが詰まるところ、気持ちに蹴りをつけるという事になる。しかしそれは、心地よい今の関係を崩す事でもある。

「少し違うな。湯呑を京楽から貰った時、片方を千世にとは言われてない」
「そ…そうなのですか…?」

 余計に混乱する事を言う。訝しげな顔をする千世に、浮竹は微笑んだ。

「大切な人に渡しなさいと言われたんだ」
「…それは……」

 一瞬、時間が止まったかと思うほどしんとした空気が流れた。今彼の口から発された言葉を、ゆっくりと頭の中で咀嚼する。

「さあ、俺はまた仕事に戻るよ」
「あぁ…はい、私も戻ります」

 その言葉にまるで深い意味でも無いかのように、浮竹はあっさりとした様子だった。千世の知っている大切な人という言葉の意味は、彼の思う大切な人とは違うのだろうか。
 このままこの部屋にいた所で、きっと息ができなくなってしまう。緊張でぐらつく足のまま立ち上がり、襖に手をかける。まだ言葉の余韻が頭に残って視線が揺らいだ。失礼しますと一言残し、廊下へと出る。少しひんやりとした空気が心地よい。大きく一つ深呼吸をするとようやく頭に酸素が回り出したようで、徐々に思考が判然としてくるのが分かる。
 きっと彼の言葉は千世が望んでいたものに違いないというのに、どうしてか釈然としないのは言葉の意図がぼやけているからだろう。千世の疑問は確かに解消されたが、それに伴う浮竹の意図は分からない。
 まるで花びらを捕まえようとしているようだと思う。ひらひらと不規則に落ちてくる花びらを手で捕まえようとしている時のもどかしさととても似ている。
 執務室に戻った千世は、椅子へと腰を下ろす。漫然と机に突っ伏して、そのまま暫くじっとする。そのうち息が苦しくなって横に顔を逸らすと、窓の向こうで白い花水木が満開になっているのが目に入った。
 昇進してからもう一年が経とうとしている。忙殺されながらも、充実した日々を過ごしていた。来年、もしまたこうして花水木の季節を過ごせるならば、出来れば同じようにこの窓からその花弁を眺めたいと思う。
 風に吹かれてふわふわと揺れた枝から、花びらが一つ風に攫われてゆく。春は間もなく、終わろうとしていた。

 

未来嚥下
2020/05/04