夜長不行き届き

2021年6月16日
おはなし

 

「えー!?何で普通にあげちゃうかなあ!?」
「京楽、しーっ、声が大きすぎるぞ」
「いや話が違うじゃないの。あれ高かったんだよ、現世モンだから」

 瓦屋根の上、京楽の言葉に浮竹は申し訳無く頭を垂れる。
 月の見える夜、一杯どうかと誘われて八番隊舎までやってきたのだが、真っ先に聞かれたのは夫婦湯呑の行方だった。

「すまん、折角気を遣ってもらったが…」
「まあ昔から女性相手にはそうだよねえ」
「そ、そうか…」
「でも千世ちゃんも流石に気付いたんじゃないの。夫婦湯呑の片方を何の意味もなくあげるおじさんが居るわけないもの」

 ううんと一つ唸り浮竹は腕を組む。思えばあの時二人の間で流れた空気というのは、いつもとは違う妙なものだった。互いに互いの言葉を待っているような、そしてそれを互いに分かっていたようなあの妙な感覚には珍しく胸がざわついた。

千世ちゃんの気持ちは確実なんでしょ、さすがの浮竹でも分かるくらい」
「まあ、そうだな…数年前から気づいていたよ。さすがの俺でも分かるくらい」
「じゃあもう良いじゃないの。お互いに好いてる男女同士、さっさと夫婦になって子の一人でもこさえなさいよ。いい年なんだから」
「ま、待て…それは少し話が早すぎる」

 咄嗟に顔を赤らめた浮竹を横目で見た京楽はにやりと笑う。
 彼女からの気持ちに気づいたのは数年前、あれは千世が五席へと昇進した頃の話だ。昇進祝いとして席官と隊長副隊長とが集まった宴会が隊舎で開かれたのだが、早々に千世は酔い潰され会の趣旨などとうに忘れた者たちは大盛りあがりとなっていた。
 そのまま放って置いても問題は無いだろうが、まだ肌寒い季節だったから風邪を引くだけだろうと、彼女を担ぎ上げ救護室の布団まで運びそっと敷布の上へと置いた。顔を赤らめた彼女に薄い布団を掛け直ぐに部屋を出れば良いというのに、どういう訳かその横へ腰を下ろし寝息を立てる様子を眺めていた。
 今思えばどうしてそうしたのか分からない。宴席の喧騒から逃れたかったのか、単に彼女の寝顔が珍しく思え眺めたかっただけだったのか。きっとそれはものの数分の事だったとは思うが、随分と長い時間のように思えた。あまり長居をしていては心配をした清音が迎えに来てもおかしくない。さて、と畳に手をつき立ち上がりかけた時、布団から伸びた手に腕をがしりと捕まれた。
 突然のことに冷や汗を感じながら彼女の顔を見下ろせば、寝ぼけているのかうとうとと眠そうな目をしたまま、行かないでくださいと千世は呟く。どうにか掴まれた腕を離そうと宥めたのだが、驚いたことに想像も及ばないような力で布団へと引きずり込まれたのだった。あまりに唐突な出来事で彼女の間近で暫く呆然としていたが、再び酒臭い寝息を立て始めた隙を見て布団から這い出た。すうすうと眠り続ける千世の口元は満足げに弧を描いていたのをよく覚えている。
 彼女がやけに気に掛かるようになっていたのは、それ以来の事だった。
 行動の端々に浮竹に対する好意が目に見えて現れている事に気づき、はじめはどうしたものかと感じていたものだった。娘ほどの年の女性に尊敬以上の感情を抱かれる事もそうだったが、何より彼女が席官であり隊務への支障が出る可能性がある事を懸念した。
 今後有事があった際、大きな選択を迫られる可能性も有る。その際に万が一判断を鈍らせるような感情は、あまりに危険だとそう思っていたのだが。

「でも驚いたよ、君が珍しく恋なんて」
「やめてくれ。恋とか言うような歳じゃない」
「でもそうじゃないの、実際。ボクは良いと思うけど」

 この歳で恋だと言われると小恥ずかしい。だが京楽の言う通り、実際恋であることには違いなかった。
 あまり色恋の感情に敏感で無かった浮竹にとって、そう気づくまで少なからず時間を要した。切欠となったのは恐らくあの夜の出来事だったのだと思う。あの出来事から、どういう事か彼女を一隊士として見ることが困難に感じるようになっていた。
 勿論はじめは恥ずかしい感情だと戸惑った。隊首とあろうものが一席官に肩入れする事があって良い訳がない。だがそう思うほどに彼女の行動は目に付き、会話を交わせば気は浮つく。彼女の緩んだ表情を向けられる度に感情は揺らぎ、いい年をした男が何をしているのかと呆れたものだ。
 より鮮明になったのは、千世が副隊長昇進への切欠となった長期遠征の際だった。彼女の実力は認めてはいたものの、三ヶ月に渡る長期遠征への任が下った際にはどうにか回避する術はないものかと考えあぐねたものだ。虚の数の多さから人海戦術とも言えるその編成は人命より殲滅を優先とするもので、彼女が生きて帰る保証は何処にも無かった。
 だが浮竹の思案虚しく、総隊長命令であった三ヶ月に渡る長期遠征へと彼女は発った。定期的に報告の伝令は受けていたものの、報告される死傷者数に気が休まる日は一度として無く日々の集中力を欠いた。
 彼女が発って三ヶ月が経とうとする頃、数名の死者を出したものの無事完遂された。その際の現場指揮の実力を認められた千世は、浮竹推薦のもと副隊長への昇進となった。
 帰還した際の彼女の疲れ果てた様子に声を掛けた時のことをよく覚えている。いつもは艶のある髪がぐしゃりと適当に纏められ、三ヶ月前に比べやつれていた。おかえりと一言言うと、途端に蕾が綻んだような表情と視線が混じった時に浮竹はようやくその恋のような感情を自覚した。

「…どうしたんだい、急に黙って」
「いや…彼女が長期遠征から帰還した時を思い出してな」
「ああ、あれは見事だったね。なに、そこで千世ちゃんに惚れたかい」
「…どうだろうな」

 そう一つ笑い、猪口の酒を一口喉へと流す。
 先日の二人での現世出張でも酒を煽っていたならば、少しは変わっていたのだろうかとふと考える事はあった。だが呑んだ所で彼女に指一本たりとも触れる事は出来なかったのだとは思う。明確な言葉を交わさないまま、その過程を全て飛ばして触れる事などこの性格に出来るはずがない。
 瀞霊廷へ帰り数日後、出張の件を知っていた京楽から様子を聞かれ簡単に伝えた際には予想通り絶句をされたものだった。
 それから暫くして京楽から渡されたものが、あの夫婦湯呑だ。一つは彼女にと渡されたそれは現世の土産物で、柄も青磁の色合いも良く浮竹は痛く気に入った。隊首室に持ち帰り早速眺めていたのだが、予想だにしない状況で千世が現れた為結局、ただ湯呑の片割れを彼女に何の説明もなく譲るという事で終わってしまった。
 本当は渡した際に何かしら気の利いた事を伝えるべきだったのだろう。恐らく京楽もそれを見込んで浮竹に土産として渡したのだろうが、不本意な結果となり彼には申し訳ない思いだった。

「だが、千世は俺と結ばれて幸せだと思うか」
「なに今更」
「時折…いや、よく考えるんだよ。後先短い俺と結ばれた所で、あの子は幸せになれるのか」
「後先短いって、ボクたちまだ山じいの半分にも行ってないのよ。まだ多少あるじゃない」

 引け目を感じているのは確かだった。親と子ほど離れているというのに、結ばれれば彼女の今後の人生を奪う事となる。それが彼女にとって果たして最良の人生であるか浮竹には分からない。その一時は幸福であるかもしれないが、その先を考えた際に少しだけ曇る。
 このまま自身が思いを伝える事が無ければ、彼女はやがて一時の気の迷いだったと思ってはくれないだろうか。日増しに募る彼女への思いと比例するようにその相反するような感情が強くなる事に気づいていた。

「だからやっぱりこの前既成事実作るべきだったのよ」
「き、きせいじじつ…」
「そうでもしないと踏ん切りつかないんでしょう」
「……いや、どうだろう」
「何だか小難しいこと考えてるんだろうけど、一度は自分の事も勘定に入れてみたら」

 そうだな、と月を仰いで浮竹は答える。
 彼女にとっての幸せなど、彼女にしか分からない。それを一人で勝手にどうこう考えるのは、千世からすれば余計な世話だろう。その点で考えればある意味自分を勘定を入れているように思う。
 彼女の為だと思って悩んでいる殆どは、あくまで現時点では自分の勝手に過ぎない。選択をするのは千世自身であり、そこに口を出す権利も、何かを強制する権利も浮竹には無い。ただ出来ることは、彼女に対する感情を齟齬なく伝えることだ。

「今日は少し呑み過ぎたよ」
「いつもこの倍は呑むじゃないの」
「残りは頼んだ。俺はもう帰って休む事にする」
「残念だねえ。まあ手酌で楽しむよ」

 また誘ってくれと一言残すと、京楽はひらひらと手を振って答えた。酔ったというのはあながち嘘ではない。慣れない感情と一緒に呑む酒は回りやすいのかいつもよりも早く酔いが回った。屋根の上を渡る夜風が酔い醒ましに心地よい。
 視界に入った隊舎の中にはまだ千世の気配を感じる。今日も遅くまで執務室に籠もって居るのだろう。最近は仕事が落ち着いてきのだと聞いていた筈だったが、あくまでそれは一時的なものだったようだ。そんな中呑気にも旧友と酒を呑んでいた事を申し訳なく思う。
 隊舎に降り立つと、浮竹はその足で彼女の執務室へと向かった。深夜近くまで仕事をさせる姿を見つけては、止めさせるほか無い。廊下へ細く明かりの漏れる執務室の襖を浮竹は軽く叩くが、しかし返事はない。入るよ、と僅かに開きその身体をねじ込んだ。

千世…」

 机に突っ伏したまま眠っている姿が目に入り、浮竹は口を噤む。近づいて少し覗き込み呼びかけたが全く動きがない。よほどぐっすりと眠っているようだ。流石に千世の自室まで運ぶ事は出来ないが、せめてもと近くの長椅子へと座布団を敷く。
 椅子を静かにずらし、千世を抱え長椅子へと移動させた。まだぐうぐうと寝息を立てている身体をそのまま野ざらしにすることも出来ないから、自分の茶羽織を脱いで彼女の上に掛けてやる。一瞬眉がぴくりと動いたが、また直ぐに穏やかな寝顔へと戻った。

「遅くまで悪かったね」

 そう小さく呟き彼女の頭を軽く撫でる。途端に湧き上がる感情は、年甲斐もなく満たされるような甘さを持ったものだった。それを振り払うよう一つ息を吐くとそっと立ち上がり、そのまま執務室を後にする。
 また明日になればいつも通り顔を合わせ、変わらぬ会話をする。それだけで十分平凡な幸せを得ているというのに、強欲にもその先を求めたいと思う事がある。彼女に向けられる思いとそれに返す思いが幸いにも一致しているに関わらず、重ねる事を躊躇うのは紛れもなく二人の間の大きく開いた時間の所為だった。
 雨乾堂への道すがら、彼女の柔らかな髪の感触をまだ手に残したままゆっくりと瞬きをした。

 

夜長不行き届き
2020.04.13