午後の消失点

2021年6月16日
おはなし

 

 千世はそわそわと執務室を歩き回っていた。
 これから浮竹と此処で待ち合わせて、西流魂街のとある場所へ向かう予定だった。今日は非番の日でもともと何の予定もなかったのだが、昨日の帰りがけに声をかけられ急遽予定を入れられたのだ。
 あまりに唐突だったため何かの急な討伐任務かと聞いたのだが、どうやら今日は浮竹も休日との事だった。つまり、お互いの休日に予定を合わせて出掛けるという状況になっている。
 普段着で良いと念を押された為、箪笥の中で眠っていた着物を引っ張り出して久しぶりに着付けた。鏡に映してみたものの、我ながらあまり見慣れていないから似合っていないような気がして自信がない。
 長椅子に座ったり立ったり、うろうろと落ち着き無く部屋を移動していると、襖が突然勢いよく開いた。

「待たせた、早速行こうか」
「は、はい、でもどちらに行くんでしょうか」
「それは着いてからのお楽しみだ」

 象牙色の着流し姿に同系色の薄手の羽織、藍色の角帯を締めている。珍しい外出用の装いに、千世は思わずじっと眺めた。白髪に上品な色がよく似合う。
 行き先については昨日から聞いても答えてくれない。行ってからのお楽しみ、と笑うだけだ。

「その色、似合うな」
「いえ…久しぶりに着たもので、違和感です」

 千世はそう言って目線を逸した。珊瑚色の着物だが、普段ずっと死覇装を着ているせいで仮装をしているようにしか見えなかったのだ。だが似合うと言われれば悪い気はせず、少しだけ口元が緩む。
 流魂街への外出申請は済ませてくれていたようで、西の白道門から流魂街へと向かう。二人で連れ立って歩くと目立つからと、人目を避けるように屋根を伝って進むのはどこか特別に感じて胸が躍った。
 白道門の兕丹坊には通行がてら何処に行くのかと訪ねられたが、浮竹は笑顔で内緒だと答える。行き先を告げずに居るのがどこか楽しいのか、今日は妙に生き生きと見えた。

「そうだ、これを」
「これは…?」
「握り飯だよ。今日の昼食当番の子に、ついでに作ってもらったんだ」
「あ、ありがとうございます」

 手に持っていたふたつの風呂敷包みには何が入っているのかと思っていたのだ。包みのひとつを渡され、それを千世は身体に背負うように斜めがけで結びつける。
 向かっているのは少なくとも茶屋のあるような場所ではないらしい。きっと外でこの握り飯を食べる予定なのだろう。
 まるで遠足のようだ。学生時代、交流を深めるためと毎年行われていた事を思い出す。思えば護廷十三隊に入隊してからというものの、こうして休日を一日使って外に出る事なんてほぼ無かった。副隊長に上がってからは何も考えずに遊んだという記憶がない。
 彼の横を歩きながら、得も言われぬ懐かしさを感じていた。

「隊長、あとどのくらいなのでしょう」
「そうだな…この速度ならあと一時間くらいか。走れば十五分だな」
「走るのは、少し…」
「そうか、それなら歩いて行こう。今日は時間がある」

 実のところ、まだ本調子ではなかった。先日、一体の虚相手に不覚を取り五日ほど昏睡状態に陥っていたのだ。目が覚めてからもまだ意識がぼんやりとする状態が続いたため更に三日ほど入院となり、ようやく退院したのが一週間前の話だ。
 入院中に溜まっていた業務は清音と小椿が大方処理をしてくれていた為、思っていたよりも大惨事にならずに済んだのは幸いだった。
 しかしずっと眠っていた身体は鈍っており、感覚を取り戻すため業務の合間を見て稽古場で他の隊員に手合わせをして貰って居た。退院直後に比べればだいぶ本調子に近い状態になったものの、以前に比べて速度や力がやや落ちている自覚があった。
 目が覚めた次の朝に簡単に卯ノ花より説明をされたが、通常個体と思われていた虚は変異体であったとの事だった。十二番隊の調査によればそれは魂魄を休眠状態にさせる毒を持っており、恐らく頬を傷つけられた際に成分が体内に入り込んだのだろう。
 かすり傷を負った後はまだ意識があったと同行の八席から話は聞いたが、記憶はほぼ飛んでしまっている。戦闘で命を落とす時というのはきっとそういうものなのだろうと目覚めた後ぼんやり思ったものだ。見る光景がまさか最後だとは思わずに、意識がぷつりと終わるのだろう。

「もう少しだな」
「随分歩きましたもんね」
「此処から少し斜面になるから、きついようなら休もう」
「ありがとうございます。でも大丈夫だと思います、あの頂上ですよね」

 彼は一つうなずいた。小高い丘に登る為に丸太階段が設置されている。ところどころ年月の感じる部分はあるものの整備がされているのか、落ち葉などは横に退けられていた。
 おおよそ数十段の階段を先に登りきった浮竹は、一人感嘆の声を上げている。早く、と急かす背中に千世も駆け足で残りの段を踏みしめた。

「すごい」

 そこは一面の白藤棚だった。長く伸びた房には無数の白く小さな花が咲き、風に揺れてはらはらとその花弁を落としていた。一面白色の天井に覆われたこの場所だけ、まるで違う世界に飛んで来てしまったかのように思える。
 思わずため息を付きたくなるほどの光景に、千世はぐるぐると辺りを見回す。藤棚ならば瀞霊廷でもいくつか見かけることはあったが、ここまで広い白藤棚を見た事は無かった。
 千世が感嘆の声を上げている姿を見て、浮竹は優しく笑む。

「綺麗だろう。見せたいと思っていたんだ」
「初めてです、こんなに見事な白藤棚を見るのは」
「付近に住む流魂街の住人たちが手入れをしてくれているんだ。ここ数年は来れていなかったんだが、今年も見事だよ」

 観賞する為のものだろう、木製の長椅子が丁寧に用意されている。二人はそこへ腰を掛けると、それから同じ首の角度で藤棚を見上げる。
 どれだけの時間見上げていたかは分からない。千世はふと、浮竹に半身を向ける。その様子に気づいたのか、浮竹は藤を見上げていた目線を千世へと向けた。

「お慕いしております」

 千世の突然の言葉で、二人の間に空白が生まれた。風の音や木々の擦れる音も聞こえないくらいしんとして、交わった目線だけが唯一この世界に時間が流れている事を教えてくれていた。
 いつか伝えるつもりだった言葉を今零すような予定はなかった。しかし、きっと伝えるならば今なのだろうと思った。夢のような光景の中で伝えれば、断られた時に冗談ですと笑って誤魔化せるのではないかなどと思ったのかもしれない。

「お困りになるだろうと思い、ずっとお伝えしないつもりでおりました」
「どうして、困ると思うんだ」
「…それは、浮竹隊長がお優しいからです」

 千世はそう言って俯いた。千世の想いに応えられないとしてもきっと傷つけないように気を遣うだろう。そうして彼を困らせてまで伝えるべきなのかと考えては、その答えから逃げるように途中で考える事を止めていた。
 結果的に彼の一番傍でその僅かな独占欲を満たしながら過ごすぬるま湯にいる事が心地よく、そこから一歩として動こうとしていなかった。
 しかしそうしていても想いは自然と募り、むしろそれは時を追う事に加速をしていったように思える。
 五日ぶりに目覚めたあの夜、月明かりに照らされた彼の優しい笑みに迎えられた時、千世は十数年積み重ねていた想いを伝えることを決めた。勝手だとは分かっていたが、これ以上無闇に感情が育ち続けることが恐ろしく思えたのだ。

「優しいからか」

 低い声で彼が呟いた言葉に、千世の心臓がぐらりと揺れる。
 想いを伝えた後にしては随分落ち着いていたと思っていたが、彼から言葉を向けられる時はまるで心臓だけが別の生物のように跳ねる。その先の言葉を知りたいというのに、知りたい気持ちと同じくらいに彼の次の言葉が怖い。

「それで千世は、俺に気持ちを伝えてどうなりたい?」
「…どうなりたい、ですか」

 千世は浮竹の言葉にぽかんとした。そう改めて問われると、答えに少しばかり戸惑う。
 千世はその先を期待して伝えたというよりも、自身の気持ちへの折り合いをつけるためと言ったほうが正しい。それはあまりに独りよがりなもので、彼への配慮は少しもない。
 それだけでも不躾だというのに、更にその先も望むような言葉を口にするのはどうにも憚られる。
 千世がそうしてしばらく口を噤んでいると、彼は促すように千世を軽く覗き込んだ。

「どうして伝えようと思ってくれたのかを知りたいんだ」
「……それは」

 彼の言う事はよく分かる。どうして伝えないつもりだった気持ちを伝えたのか、それには明確な何かしらの願望がある筈だと思うだろう。それを聞かない限りは千世の言葉にきっとうんともすんとも返せない、優しい彼ならばそう思うに違いない。
 千世は今一度心音を整えるように息を吸った。なるべくその想いに似合わしい言葉を選びながら、口を開く。

「…ずっと隊長のお傍に置いていただきたいと思いました」
「…つまりそれは、今の関係では満足ならない…という事か」
「えっ!?い…いえ、そういう事ではなく…」
「はは、冗談だよ」

 急にけらけらと笑われ、千世は途端に顔が赤くなるのを感じる。この景色の中では、この頬の赤さがより目立ってしまいそうだと俯いた。
 そうして地面に落ちた小さな白い花弁を見ていると、しばらくして名を呼ばれた。真綿を手のひらで包むような柔らかい呼びかけが、心臓を揺らす。やはり怖い。今まで一人で積み重ねてきた想いの行方が彼のこの先の言葉で決まると考えると、手が震え、手を置く膝も震えた。
 結局覚悟なんて出来ないまま千世は顔を上げ、ゆっくりとその視線を横に座る彼へと向ける。

「その申し出を、受けようかと思う」
「……は」
「…いや、つまり。…そういう事だよ」

 目線を揺らして彼はそう続けた。千世は口を情けなく半開きにしたまま、その表情をじっと見つめる。珍しくいつもの余裕そうな笑みは無く、少し難しそうに眉を曲げ、手持ち無沙汰に垂れた髪を耳へかき上げた。
 頭で目まぐるしく彼の言葉を整理しながら、千世はその解釈が間違いではないかと何度も繰り返す。その言葉に少しでも同情があるのではと疑うが、それではこの彼の紅く染まった耳への説明がつかない。
 半開きだった口を千世ははっとして閉じ、結局何の言葉も返せないまま小さくひとつ頷いた。

「昼飯にしようか」

 今までは夢だったと言われれば信じてしまいそうなほど、浮竹はいつもの調子で言う。嬉しそうな様子で風呂敷包みを膝の上に載せて、ごそごそと解く様子を千世は混乱したまま眺めていた。
 食べないのか、と握り飯を一つ手にしながら千世に聞く。

「ああ、いえ、食べます…」
「この沢庵も絶品だよ」

 千世は尚もぼうっとしたまま、まだ震える手で握り飯を手にした。
 何が起きたのか、まだ千世にははっきりと理解が出来ていない。思っても居なかった道が今急に目の前に現れ、千世はそこへ転がり込んだような気分だ。
 白い藤の花弁がひとつぽとりと握り飯の上に落ちていることにも気づかずに、千世は一口頬張る。ほんのりと感じる塩気が、やけに懐かしかった。

 

午後の消失点
2020/05/12