ゆらめきのゆるし

2021年6月16日
おはなし

 

「二人で現世出張なんて、珍しいこともあるものだな」

 浮竹はにこにこと微笑みながら千世に話しかける。彼の言う通り、隊長格が現世出張へ出掛けるというのはあまり無い事だ。というのも何かあった際のリスクが高いというのが一番の理由なのだが、今回はあまりに拍子抜けする任務だから何の懸念もなく二人で送り出されたのだろう。

「それにしても、どうして旅館なんてものを建てるつもりなんだ…瀞霊廷に」
「福利厚生の一環らしいですよ。瀞霊廷って、あまり娯楽無いですから…」
「…確かにな。それで何故か俺たちが宛てがわれたという事かい」
「丁度他の隊が忙しかったみたいです。しっかり報告書を上げろと山本総隊長のお達しですし、しょうがないですね…」
「まあ、どうせだ。存分にゆっくりとさせて頂こう」

 そうですね、と千世は頷いた。
 話の始まりは今朝だ。出勤して早々に総隊長から呼び出され、一体何事かと慌てて飛んで向かえば「現世の旅館調査を頼みたい」との言葉に思わず眉をひそめたものだ。どうせだから隊長である浮竹も連れて、湯治がてら行って来いと突如二人での現世出張が決定した。
 清音と小椿に伝えたところ、予想はしていたもののずるいと散々駄々をこねられ、必死に宥めながら、なんとか二人で穿界門を抜け日が暮れた現世へとやってきたのがついさっきの事だ。
 用意周到なことで、どのような伝か知らないが既に宿の押さえは済んでいるらしい。あとは伝令神機に記された場所まで徒歩で向かうだけであった。固く舗装された道は所々明かりがあるものの、回りの竹林がざわざわと揺れて不気味だ。
 千世の知っている現世は夜でも明るく大きな建物が乱立している世界だったが、よく考えれば温泉が湧くような場所なのだから旅館とは都市部には無いのだろう。

「それにしてもこの義骸、やけに窮屈だな…」
「急ごしらえですからね。技術開発局が、面倒くさそうに…」
「まあ容易に想像がつくよ……お、千世。あれじゃないか」

 浮竹が指差した先には、尸魂界でもよく見るような瓦屋根の屋敷が目に入った。手元の伝令神機に表示された場所も確かに一致する。ぼんやりとあかりが灯る竹林に囲まれたその屋敷に近づくと、中からは質の良い留め袖を身に着けた女性が現れ深く頭を下げた。
 入り口を入ると靴を脱ぎ浮竹の名を伝えると、女性からは思っても居ない言葉が返ってきた。

「浮竹様、本日一部屋でご予約を頂いております」
「一部屋……ひ…ひとへや?」
「はい…一部屋、二名様でご予約を…」

 千世は暫く女性と顔を見合わせぽかんとしていたが、やがて冷や汗が垂れる。

「いえ、恐らく二部屋で予約をしているはずなのですが…」
「あいにく本日は一部屋で予約頂いております」
「それでは、もう一部屋別で泊まることは…」
「…大変申し訳ございませんが、本日他のお客様で満室になっておりまして……」

 そんな、と千世はうなだれる。背後から現れた浮竹は状況を理解したのか、良いよ、と一言つぶやく。良い、の意味が分からず目をぱちぱちとさせていれば、彼はにこと笑って女性を見た。

「部屋がないのなら仕方ない。俺は同じ部屋で問題ない。千世も良いかい」
「え、え…?」

 それでは、と少しばかり会釈をして二人を促す。仲居の後を歩く浮竹に付いて歩きながら、頭はただ混乱していた。このままでは同じ部屋で一晩を過ごすという事になる。しかし他の部屋を追加で取ることも出来ないのなら、彼の言う通り仕方がない。
 二人で一晩を過ごすことに対しての混乱もあるが、そこに対して何ら抵抗がない様子の浮竹にも動揺している。しばしば感じていたが、歳も離れているし彼からしてみれば娘とでも思われているのだろうか。一晩を同じ部屋で過ごした所で全く問題のない相手、異性として認識されていないのかと、勝手に想像を及ばせ胃の奥が重くなった。
 やがて案内された部屋へ到着すると、膝を付き襖を開かれた途端、思わず千世はえっと声を上げる。

「露天風呂付きか。いい季節だ、気持ちが良いだろうな」
「そ……そうですね……」

 部屋と施設の説明を千世は上の空で聞いていた。大浴場は別にあるというのは耳に入ったから、そこはひとまず安心だった。まさかこの旅館の湯船がこの部屋から硝子一枚隔てた露天風呂だけだったならば、即時帰還をするしか無いと覚悟をしていた。
 深々と頭を下げて去ってゆく仲居を見送り、二人きりになった部屋で何か気の利いた言葉を発せる訳もなくじっと俯く。

「上司と二人部屋は嫌だろう」
「…いえ、そんな事は…」
「まあ少し我慢してくれ。夕食を満喫してひとっ風呂浴びたら、先に帰るよ」
「そ、それはだめです!」
「…どうして」
「えっ!?ああ…い、いえ…その隊長と同じ部屋というのはさして問題ではなくて…私の、気持ちの問題と言いますか、個人的な問題と言うか…とにかく!……お風呂入ってきます」

 千世は荷物を適当に置くと、ぽかんとしている彼を部屋に残し、バタバタと飛び出した。
 先に帰ると耳に入った瞬間、咄嗟にだめだと言葉が飛び出た。いつも口にする言葉にはそれなりに気を遣っていた筈が、衝動のように飛び出た「だめ」の二文字を千世は後悔する。頭の上に無数の疑問符を浮かべていた彼は、一体何を思っただろうか。
 浮竹が一部屋で良いと迷わず言ったのは、始めから帰るつもりだったという事なのだろう。となれば、自分は娘のように思われていた訳ではないかもしれない。二人で一晩を過ごすことへの抵抗は、千世を女性として認識しているか、または嫌いであるかの二択であると千世は思う。
 嫌いであるかという点に関しては、千世の大きな勘違いでない限り、きっと可能性は低いはずだった。もし嫌いだと言うのならばこの現世出張に二人で来ることはなかっただろうし、何より同じ部屋で良いなどという判断はしなかっただろう。先ずそこからか、と思うが、浮竹相手では先ずそこまでが長く果てしない道のりだった。
 時間帯のせいか、大浴場はがらんとしていた。服を脱ぎながら手ぬぐい類を全て部屋に置いてきてしまった事に気づいたが、親切にも脱衣所に用意をされていた。今の騒動で一瞬失念していたが、今回は現世の旅館調査に来たのだった。
 脱衣所の構成や、洗面台に乗せられた様々な化粧品類を眺めて感心する。女性が何も持たずに大浴場へ来ても、全く問題がない。化粧落としから乳液まで、全てが揃っている。

「…なるほど」

 手ぶらで行ける旅館というのは、化粧から何からと手荷物が多くなりがちの女性からしてみれば非常に魅力的だろう。女性死神協会へ働きかければ、女性専用の福利厚生施設として検討して貰える可能性もある。
 大浴場にはよっつの浴槽があった。うち内湯はふたつ。一つは主となる大きめのにごり湯で、もう一つは端の方に設置された水風呂だ。水風呂はサウナと呼ばれる蒸し風呂と組み合わせて入るらしいということが看板から分かった。
 外湯は二つ。内湯と同じく広めのにごり湯一つと、人二人は収まりそうな巨大な壺に湯が溜まったものだ。五右衛門風呂のような印象を受けるが、下から火が焚かれている訳ではなく湯が絶え間なく注がれている。
 一通り体験した千世は満足の後に脱衣所へと帰った。頭のてっぺんから足の爪先までさっぱりとした気分で、すっかり温まり肌は赤みを帯びている。急ごしらえの義骸とはいえ、十分な性能だ。
 流魂街にも温泉地はいくつか存在するが、あまり楽しんだ覚えはない。任務の汗を流すために軽く浴びる事はあったが、烏の行水だった。だから湯を此処まで満喫したのは恐らく初めてで、記憶と感覚が新鮮なうちに、部屋で早々に報告書として纏めたい。
 洗面台に置かれた化粧水と乳液をしっかりと使用し、先の利用者が使っていた真似をして飲料水を紙の器へ注ぎ一杯を喉に流し込んだ。流した汗の分、染み込むような水分が心地よく、思わず年寄りくさいため息をつく。
 夕飯を食べた後に、またもう一度か二度は入りたいものだ。何度か入るうちにまた更なる発見や気付きがあるかもしれない。すっかり良い気分で廊下を通り抜け自分の部屋の襖に手をかけた途端、千世ははっとする。気分の良さのあまりすっかり忘れていたが、今この顔には何も施されていないすっぴんの状態だ。
 この姿を彼に見られるのは、女性としてどうしても自分を許すことが出来ない。かと言って化粧品は今この部屋の中にある。どうしようもない状況だ。混乱と動揺で完全に失敗した。部屋の中から物音が聞こえるから、恐らく彼は中にいるのだろう。
 襖に手をかけたままごちゃごちゃと考えていれば、突然がらりと開き恐る恐る見上げれば浮竹が不思議そうに見下ろしていた。

「どうしたんだ、こんな所で。折角の料理が冷めるよ」
「あ、は…はい、すみません」
「ほら、この小鍋なんてすごいぞ千世。…俺はこんなに食べられるか、少し自信がないな…」
「本当ですね、豪華で…」

 いつの間にか、彼は浴衣姿へと着替えている。長い髪を軽く後ろに結った姿は珍しい。嬉しそうに料理を眺める姿を千世はぼうっと見つめていた。幸せそうな姿というのは、見ている方も似た気持ちになるものだ。
 千世ははっとして頬に手を当てる。彼の対応が何も変わらないから、この顔がすっぴんであることもすっかり忘れていた。大して浮竹はすっぴんであるかないかなど気にもしていないのだろう。そう思うと気にしていることが少し恥ずかしく思えて、両手を膝の上へと置いた。

「風呂は良かったかい。俺は夕食の後に行こうと思っていてね」
「内湯も外湯も良かったですよ。でもサウナという蒸し風呂はどうも好みませんでした」
「蒸し風呂まであるのか。興味深いな」
「あの…ところで」

 筍の煮物を箸でつまみながら、浮竹は千世を見る。

「その…帰られるのですか」
「ああ、いや…そうだな。帰ろうかと思っていたんだが、千世がだめだと言うからな」
「だ、だめというか…折角来たので、ゆっくりされてはどうかと…」

 そう口にした後、千世は無言で活造りの刺し身を醤油に軽くつけて口に運んだ。めったに食べない、鯛の刺身だ。引き締まった身の歯ざわりがとても良い。その歯ざわりの良さとは逆に、無言の時間の居心地はあまり良いとは言えなかった。
 やはり、彼は帰りたいのだろう。その気がない相手、しかも彼からしてみれば年の離れた部下と一晩同じ部屋で過ごすなどきっとありえない事だ。彼はきっと散々千世が傷つかないような言い訳を考えてくれていたに違いない。
 やはり申し訳ないことをしてしまった。だめ、なんて彼の気持ちを微塵も考えずあまりに身勝手だった。彼と長く過ごしたいと、そう願った自分の浅はかで浮ついた感情を恨みたくなる。

「だってその…ふ、布団は勿論別ですし、何も心配するような事は…」

 だというのに、口から出るのはまた彼を引き止める言葉だった。何を言っているのかと、俯いたまま呟きながら、そう理解しながらもずらずらと言葉が流れ出る。余程彼に帰ってほしくないのだろうと、その余裕のない自身の感情が剥き出しになっているようだ。

「嫌ではないのかい。俺は上司だし…落ち着かないだろう。折角良い湯を浴びに来たというのに」
「わ、私は、落ち着かなくなんて無いですが、でも、隊長が落ち着かないというのなら、それは仕方がないんですが…でも…」

 浮竹の言葉に、千世は尻すぼみに呟いて口ごもる。必死すぎて、途中で何を言っているか分からなくなった。取り繕う余裕さえ無い姿が、我ながらあまりに情けない。
 まさか嫌な訳がない。しかし彼が懸念する意味はよく分かる。彼に何の気が無いとしても、男女が同じ部屋で一晩過ごすというのは、明らかに語弊のある状況だ。何もなかったのだと、そういくら言い訳をした所で誰も信じはしないだろう。
 この状況を素直に喜ぶことが出来たのなら、どんなに幸せだっただろうかと思う。もっとあっけらかんと、帰らないでくださいよなんて言えたら楽だったのだろうか。
 彼の明らかな戸惑いを前に、胸が苦しくなる。まるで娘の我儘を困ったように聞く父親のように見えて、がっくりしてしまった。当たり前だ。自身の副官となにかの手違いで同じ部屋で手配され、帰ると宣言したが引き止められてしまったのだ。あの時咄嗟に出た言葉を、千世は僅かに後悔する。
 しかし、彼が帰ってしまったならばそれ以上の後悔で消えてしまいたくなるに違いなかった。どちらにしても、このどうしようもない感情を迎えることになってしまっているのだから、それならばまだマシな選択をしたのかもしれない。

「…隊長の事は、心から信頼しているので、その…私の事は気になさらないで欲しいと言いますか…隊長には、本当に…もっとゆっくりしていただきたくて…」
「…そうか、分かったよ。ありがとう」

 言い訳がましく重ねる千世の言葉を包むような優しい声で、彼は答える。恐らくそれは、彼の中から帰るという選択肢が消えたような返答に思えたのだが、果たしてわからない。
 ただ彼は里芋を二度も掴みそこねていて、それが動揺であるように見えたものの、何に対しての動揺であるかは不明であった。千世は手にしていたお椀の中身を、一口すする。少し冷めてしまったその中身を喉に流しながら、自分の必死さを思い出して苦くなった。
 はあ、と彼に聞こえないほどの小さなため息をついたとき、彼もまた同時に小さく口を開いた。

「…参ったな」

 うっすら聞こえた言葉は、彼の独り言のようだった。千世は聞こえないふりをして、また一口お椀の中身を啜る。何が彼にとって「参った」のかは分からない。
 だが、彼の小さな独り言は苦々しいと言うよりも、どちらかと言えば困り果てたような後にとうとう漏れ出したようなように聞こえ、それは不思議と心臓の裏をくすぐるような奇妙なものだった。
 湯気を立てる小鍋が煮える様子を見つめながら、ぬるい味噌汁の最後の一口をごくりと飲み干した。

 

ゆらめきのゆるし
2020.04.06(2021.10.26修正)