そこから月はどう見える

おはなし

 

 千世が現世遠征へと向かい二日目となった。六時間に一度の報告の六回目が終わり、任務滞りなく完遂の為間もなく帰還するとの事だった。
 現世に現れた虚は変異体であることが一度目の報告で判明した。数は三体発生しており、どれも同じ形態をしていたが能力のみが異なっていた。防御に特化したもの、攻撃に特化したもの、そしてもう一体はそのどちらも持ち合わせた合計三体だった。
 現世へ到着した当日に一班一体ずつの計二体を討伐し、吉良班は先に帰還。日をまたぎ日南田班は三体目の討伐を行った。変異体とは言えども、副隊長二名程度で問題はなかったというのが千世の報告だった。
 しかしそれは結果論であって、万が一の可能性は十二分にだって有り得る。ここ最近強力な変異体虚の出現率が上がっている状況を見れば、二部隊編成というのは決して間違いではなかっただろう。
 先に帰還した吉良にも話は聞いたが、千世の報告と同じような反応であった。

「浮竹隊長」
「朽木か、どうした」
「あ…その。日南田殿は、いつお帰りなのかと思いまして」
「聞かれると思ったよ。穿界門の準備が整う夜明けとの事だ」

 千世からの報告が終わり、隊首室を出ると廊下には朽木が稽古着姿で立っていた。随分遅い時間だと言うのに、稽古場で励んでいたのだろう。
 昨日からそわそわと自分の周りを通り過ぎることが多かったが、千世の様子が気になって仕方がなかったようだ。ほっとしたように表情の緩んだ朽木を見て、浮竹は微笑んだ。

「心配だったか」
「…今回の遠征は大掛かりなものと聞いておりましたので…し、しかし日南田殿であれば心配は無用であると思っております」
「そうか。朽木は千世を信頼しているんだな」

 浮竹の言葉に、朽木は少し緊張したように頷く。日頃から彼女の千世に対する信頼がよく伺える。千世ならば心配は無いと分かってはいても、急務の二班編成となれば命の危険が考えられる任務となる。
 昨日からそうして彼女は千世のことを気にかけていたのだろう。

「そうだ、お菓子が有るんだ。食べていかないか」
「それは……しかしもう夜分も遅いので…」
「先日訳あって沢山買い込んでしまってな。茶も入れるぞ」
「…それでは、畏れながらお言葉に甘えて…」

 一度出た隊首室へと朽木を連れて戻る。机の引き出しの中に、丁度昨日買った菓子がまだ沢山入っていた。一部は今朝十番隊の日番谷に渡していたのだが、この残りは一人で食べ切れる量ではない。
 彼女の好きそうなものを適当にいくつか取り出し、机上へ乗せた。

日南田殿にはよく手合わせをして頂いていまして」
「偶に見かけるよ。朽木は、今まで何回千世に勝てたんだ?」
「まだ一度だけ…つい先日です」
「すごいじゃないか。千世相手に一本は中々取れるもんじゃない」

 湯呑に茶を淹れ差し出すと、朽木は深く頭を下げた。
 千世との手合わせはあまり人気がないと聞く。ああ見えて斬撃では力押しを好み、打ち込みは激しい。まだ彼女が入隊した当初から稽古を時折眺めていたが、初めはまだ控えめだったものが時が経つにつれて激しさを増していた。席官へ上がってからは特に遠慮が無くなったのか、千世の二倍の体躯を持つ男性隊士でも手合わせは避けるのだという。
 その千世との手合わせを好む朽木は変わり者だとは思っていた。何度か手合わせの様子を見かけが、力押しの千世にうまい技術で食らいついていると感心した。

「しかしあの時の日南田殿は様子がおかしかったような気がするのです」
「様子がおかしい?」
「はい。こう…心ここにあらずと言いますか…最近はそのようなご様子が多いような気がします」

 そうか、と腕を組んで考える。よほど疲れているのだろう。日頃執務室に籠もりきりで机に向かっているのだ。見つける度に声を掛けては居るものの、きっと十分ではない。
 そろそろ強制的に休暇を取らせるべきかもしれないと思っていたのだ。丁度良い機会だろう。

「隊長と日南田殿が行かれた現世出張の後です」
「現世出張…」
日南田殿のご様子が変わった時期です。あの後から、日南田殿がぼんやりされる事が多くなったような…」
「んー……」

 参った、と思わず口から出そうになる。そういう事だったか。
 確かに、あの現世出張以降二人で居る際の雰囲気が変わった事は分かっていた。しかしそれはあくまで浮竹の前だけであって、普段にまで少なからず影響が出ているとは知らなかった。
 浮竹自身も彼女に対しての態度を平常通り続ける事に限界を感じている。今回の遠征の件でも、自分が同行するなどという考えには通常であれば至らなかっただろう。あの現世出張の一晩が、浮竹の中で保っていた何かを崩したことは違いない。
 彼女を副隊長として信頼してやりたい思いよりも、彼女の身の安全への思いが僅かに上回っていた。今回の任務は急務という事もあり、副隊長二名態勢での二部隊編成というものは決して大袈裟ではなかった。だから万が一という事も考えられた。今思えば恥ずかしい提案をしたものだと思う。
 だが、彼女に向けられた真っ直ぐな言葉を聞いた時に安心をした。彼女が甘える事なく与えられた任を全うしたいという思いは、恐らく内心期待していたものであったのだろう。彼女の身を案じる気持ちと、彼女が副隊長としての自覚を強く持つ背中を見送りたい思いとが混じり、形容し難い気分の悪さを覚えた。
 上官としての自分と、そして千世を女性として意識している自分との境目が徐々に薄く、交わりそうになっている。そう明確に自覚するほどにはっきりと今浮竹の中に芽生えている。その感覚はまるで不治の病のようで、じわじわと身を蝕んでゆく。

「その…何かあったのでしょうか。日南田殿に聞いても詳しい事を教えて下さらないんです」
「いや…特に何も無かったんだがな…」

 正しくは何もなかったからなのだろう。かと言って、何かを期待していたという様子には見えなかった。千世は至って正直な感情として、二人で過ごすことを選択し、浮竹もそれに応えた。
 しかしあの状況に陥ってしまった事が今までするりするりと交わしてきた感情すべての引き金になった。それは千世にとっても、そして浮竹にとっても同じだった。
 不思議そうな顔をしたままの朽木にもう一杯の茶を勧めると、慌てたように断られる。夜遅いと言うのについ引き止めてしまったことを少し申し訳なく思い、持ち上げた急須をまた机上へと戻した。

「ご馳走様です、浮竹隊長。とても美味しく頂きました」
「もう良いのか?まだたくさんあるから、少しだけでも持っていってくれ」
「よろしいのですか」
「勿論」

 菓子を空袋に詰め込み彼女に渡す。残っていた所で一人でこの量の処理は出来まい。彼女は驚いたように目を丸くしたが無理やり握らせた。襖を開け、その細い背中を見送る。

日南田殿のお話をしている時の隊長は、とても楽しそうに見えます」
「楽しそう…?」
「はい。私も楽しいから分かります」

 急にくるりと振り返ったと思えば、朽木はそう言って笑った。深く頭を下げ、菓子の袋を手にした彼女はまた背中を見せて去ってゆく。
 曲がり角に消えたのを見届けてから、浮竹は隊首室へと戻った。また一人だけになった空間でその足を縁側へと向ける。春の夜というのは、まだ開けたばかりの冬の名残でほんのりと肌寒い。
 羽織の袖に手を仕舞いながら空を見上げれば、今夜は雲ひとつ無い下弦の月だ。

「楽しそう、か」

 参ったな、と一人苦く笑う。思っているよりも人というのは自分より自分を見ているものだ。朽木の言葉に深い意図は無いようだったが、どきりとするには十分だった。
 月を眺めながら、自然と口元が緩む。この夜が明ければ、少しだけ物足りない日が終わる。年甲斐もなく心が弾むような感情が日々強くなってゆく事を、いつの間にか楽しんでいるようになっていた。

 

そこから月はどう見える
2020/04/25