いま呼吸して今日をゆけ

おはなし

 

 ここ数日、珍しく十三番隊舎はひっそりとしていた。
 というのも清音、小椿を中心の中隊編成が八番隊との合同遠征により十日ほど隊舎を空けていた。お陰で単発の出撃要請はまばらで、日々雪だるま式に増えてゆく報告書の山も減ってゆく訳だった。遠征後に提出されるであろう日誌や報告書の山を想像すると恐ろしいが、現時点では少なくとも処理をする速さが勝っている。
 千世が十三番隊の副官として任命をされたのは、つい一月ほど前のことだった。それまでは十三番隊の五席として籍を置いていたが、ある長期遠征での功績が買われ異例の出世となった。
 敢えて暫く空席としていた副官の座であったが異論無しでの昇格となり、晴れて隊務に追われる日々を過ごしている。
 隊の性質にもよるが、副隊長は執務室での事務処理が業務の大半となる。隊長業務の代理、気まぐれで行われる女性死神協会の会合への出席、その他諸会議、新年度には新入隊員への研修等も請け負うことにもなる。
 長らく副官が空席だった為、古い未処理の決済書や報告書が山程見つかった。そのため就任直後から三席の二名からの研修とも言えぬ研修を受け、ひたすら机に向かう日々だ。
 千世が副官となるまでは三席の清音と小椿が代理として努めていたが、細かな事務は後回しとなっていたのだろう。よく今まで隊が回っていたものだと、およそ十数年前の日付が記されたうっすら日焼けした書類を見ながら思う。
 暫くは三席の二人がよく気を回してくれては居たのだが、現場で忙しい二人に手を借り続けることも出来ず一人で執務室に籠もる事が多かった。そしてこの長期遠征だ。
 多少量が減ってきたとはいえ、しかし終わりが見える程ではない。追い込みをかけようにも、机や床、休憩として使用できるはずの長椅子や長机にまで積み上げられている紙の束にげっそりと溜息を吐く他ない。
 気付けば、休日を返上してまで働き続けている有様になっていた。でなければ、まだ春だと言うのに年を越してしまうのでは無いかとすら思う。しかし、遅くまで執務室で過ごした後、寮で夜な夜な筆を走らせる日々というのは流石に褒められた事ではない。
 特に隊長、浮竹はやけに千世を気にかける。体調が悪い中でも、日が落ちれば執務室に顔を出し、そろそろ帰りなさいと優しく笑う。日に日に生気が奪われてゆくような千世の様子が気になってか、天気の良い日には昼過ぎ頃茶屋に連れて行かれることも偶にあった。

「邪魔してるよ」
「浮竹隊長…今日お身体の具合は良いんですか」
「ああ、今日は良い天気でついでに調子も良い」

 千世が厠から戻ると、縁側に浮竹が湯呑を片手に腰掛けていた。いつもこうして風のように現れる。明るい日差しが、彼の白髪に美しく反射する様子を思わず眺めた。

千世、おいで」
「い…いえ、今はまだ勤務時間中ですので」
「良いだろう、たまには。それに今日はまだ休憩を取っていないんじゃないか」

 黙った千世に浮竹は笑って、その横をぽんぽんと手のひらで叩く。横に来なさいと、そう目を細める彼に暫く立ち止まっていた。
 気を遣わせてしまった事が申し訳なくて数秒迷ったものの隊長から誘いならば仕方がないと言い聞かせ、縁側へと足を向ける。その横に同じように腰を掛けると、彼は優しく微笑んだ。

「疲れているんじゃないのか」
「そんな事は…無いです」
「そう答えるだろうと思ったよ」
「…でも、無理をしているわけでは無いです」
「果たして、そうかな」

 浮竹は千世の顔を覗き込む。突然の事に千世はぎょっと目を見開いて身体を固くする。まじまじと見つめられているが顔を反らすことも出来ず、視線を少し外したままじっとすることしか出来ない。
 すっと伸びた彼の左手が千世の右頬を包み、それから親指が目の下をするりとなぞった。声にならない悲鳴を、喉で押し殺す。ひやりとした手のひらの温度が心地よく感じるあたり、恐らく顔は真っ赤になっているに違い無い。
 無理をしているという認識では無かった。自分はまだ未熟な部分が多く、その未熟さを補うには今は時間を費やす事しか出来ない。清音もこればかりは慣れるしか無いのだと困ったように眉を曲げていた。

「隈ができてるよ」
「す、すみません…」
「謝らせたい訳じゃない」

 そっと手のひらが離れ、千世の頭をぽんぽんと優しく撫ぜる。恥ずかしいとか、照れくさいとかそんな言葉では言い表せないような動揺に、千世は彼の微笑む表情をただのぼせたような頭でぼんやりと見つめた。
 彼は湯呑を隣に置くと、一つ伸びをする。そのついでか、僅かに背後を振り返るとその光景を見つめたままいやあ、と呟いた。

「しかし…減らないものだな」
「量が量ですから…仕方ないと思っています」
「俺も最低限でしか処理をしていなかったからな…申し訳ない」

 謝らないで下さい、と千世は慌てる。此処に積まれているのは隊長が処理をするまでもないものばかりだ。今まで副隊長を不在とした選択は隊の総意に近いもので、この光景にげっそりはするが怒りや呆れが生まれるはずがない。
 今はこの状態だが、何れは広々とあの長椅子で仮眠を取る事も出来るはずだ。古い書類は隠してしまおうか、と悩んだように腕を組み呟く浮竹に千世は笑って首を振った。
 何度もそうしてしまいたい気にはなったが、副隊長としてまず与えられた仕事を放り出すような真似はしたくない。果ての見えない書類の海に泣きたくなる事もあるが、しかしこの隊の副官として任されたものだと思えば踏ん張ることが出来る。
 頑張りますと、そう決意を込めたように言葉に出すと、落ち着いた声音で彼は名前を呼んだ。

「俺は無理をさせる為に千世を副隊長へ推した訳じゃない。たまにはこうして、息抜きをするんだよ」
「息抜き…」
「そう。急ぎでない仕事なら、明日に回したって良い。うまく息を抜いて、心の隙間を作るんだ。…とまあ、他人事のように聞こえるかもしれないが……心配なんだよ、君の様子を見ていると」

 千世はぼうっとしたままひとつ頷いた。心配だと、そうはっきりと言葉に出されたのは初めてだった。自分は誰より敬愛して止まない彼を心配をさせていたのか。そう言葉にさせてしまった事が情けないと同時に恥ずかしく、すみませんと頭を下げる。
 謝るんじゃないと笑う彼に、千世はまた懲りずに同じ言葉を零した。
 自分の未熟さによって心配を掛けた事が申し訳なかったが、しかし嬉しいと感じてしまった。その事実に僅かな動揺を覚え、瞳が揺れた。彼の中で僅かでも自分自身を思ってくれた部分があるのだと思うと、胸の奥が途端に熱くなり吐く息が震える。
 それが案外単純な感情ではなかったのか、気づけば目の淵から雫が落ちた。一瞬彼は驚いたように目を見開いたが、やがてまた優しく弧を描く。

千世なら大丈夫」

 そう言うと、彼は千世が左腕に巻く副官証を指先で軽く叩いた。
 彼の言葉というものは、千世の中で何よりも力を持つものだった。大丈夫だと言われれば、大丈夫なのだろうと思えてしまうほど彼によって揺らされる感情は実に容易いものだった。
 彼は部下を励ましに来ているだけだと、そう分かっているというのにそれがまるで特別な事のように思えてしまう。もしかしたら自分だけに向けられた感情なのではないかと、彼の心を覗きたいと思ってしまう。

「今は事務作業ばかりで申し訳ないが…有事に千世が隣に居てくれれば、俺は安心だと思ってる」
「…それは流石に買いかぶりすぎです」
「そうかな。こう見えて、俺の見る目は確かだよ」

 彼はそう言って、茶を一つ啜る。その横顔の穏やかさに、千世は唇をぎゅうと噛み俯いた。
 彼の言葉は身に余るほど光栄な事だというのに引け目を感じてしまうのは、千世の中にある疚しく我儘な感情の所為なのだろう。嬉しい気持ちを飛び越えるようにそれは現れて、さらに求めようとする。
 その優しい笑みも、柔らかい眼差しも全て自分だけに向けば良いと思う。それは最も理性からかけ離れた感情だろう。この暖かな日差しの中、最も心地の良い彼の隣に永遠に腰掛けていたい。
 しかしきっとその思いを表に出してしまえば、彼は失望するに違いない。上官に対して抱いた憧れを越えた恋愛感情は、死神にとって何においても不要な事だ。分かっている。しかし、そう理解していても一度生まれた淡い思いを簡単に捨てる事は出来ない。
 その気持ちがふつふつと湧く度に、自らの中でそっと握り締める。敬愛の念だけを残して、他の不要な感情は全て蓋をするしかなかった。
 千世は湧き上がった淡い感情を振り払うように、深呼吸を一つする。少しだけ涼しさの戻った頭で、千世はそうだ、と声を上げた。

「浮竹隊長、今日これからお団子食べに行きませんか」
「団子か…いいな、丁度甘いものが食いたかった」
「今日は私のおごりです」
「それなら、今日は特上団子にでもしようか」
「…それは、ちょっと…」

 千世が少し眉を曲げると、冗談だと浮竹は笑った。
 自分だけに向けられたその笑顔を見る度、また胸の奥で感情が燻る。何度押し殺そうとしてもそれは際限なく現れて、千世の心臓はぐらりと揺れる。息苦しいというのにその息苦しさが心地よくて、だというのに頭が痛い。
 行き場のない感情を吐息に混ぜて吐き出せば、春の風に乗ってどこか知らない所へと飛んで行った。

 

いま呼吸して今日をゆけ
2020/04/02